Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

怒りについて

怒りは熱いうちに形にしておかなくてはいけない。もっとも、これが怒りなのか悲しさなのか悔しさなのかは判然としない。私が知っているのは、感情というのは理性に劣るものでも、軽んじるべきものでもないということだ。私がそういう紅々とした炎を今内側に持っていることは尊重されるべきことだということだ。

裁量労働制だなんて体のいい言葉で労働力を搾取するのがコンサルティングという業界だ。過労死ラインの残業はあたりまえ、適応障害が通過儀礼のようにあつかわれるところ。適材適所だとか人材育成だとか、あざ笑うかのように踏みにじって、同じ時間単価でいかに優秀な人間を使えるかですべてが決まるところ。人間を生産性で評価し、基準に適う者だけが価値ある存在とされる最悪の世界。ついてこれない奴は残念でした。ここは相模原障害者施設殺傷事件の前日譚。優生思想を悪と思わない世界。

上司のことは好きだし、仕事がおもしろいと思うこともあるけれど、だからといって私がこの仕組みを肯定することは今までもこれからも絶対にないし、加担している自分の欺瞞をゆるすこともない。人間がただ人間であることを否定する資本主義を、私は憎悪する。

働き方改革という言葉に縁遠いこの業界でも、すこしずつ変わりつつある。上司が新人だったころのように、徹夜でやることを想定した量の課題を新入社員研修で課されるような時代ではない。有給休暇に嫌な顔をされることも、体調を崩して文句を言われることもない。それでも、とくにかく死ぬ気で働くことを正義とする価値観を新人の頃に叩き込まれた世代が今のマネジメント層を構成しているから、それが次世代に継承されてゆくことは避けられない。虐待の構図と同じだ。そもそもこの業種が激務だというのはコンサル志望者ならば知っていることで、入社してくる側もそれをわかっていても入ってくるわけだから、是正すべきものとすらみなされていない可能性がある。そういう文化だから仕方がない、とか言っちゃうようなひとびとは、たしかにいる。

私は上の世代から見たら「新しい」人間なのだろうと思う。好きなことのためにお金を稼ぐ手段として労働しているのであって、働くことは好きではない、昇進も昇給もこれ以上は望まない、そういう姿勢を隠そうともしない。もっとも、価値がないと思われることには耐えられないので、なんだかんだ言いながらもそこそこ働いてしまうのが私の気の小ささである。

私の力量ではこなしきれないタスクを、契約で決められた期間のあいだにどうにかこなそうと躍起になって、抱え込んで、からまわって、睡眠を削って、簡単に死にたくなったのは、ほんの半年前のことだ。そして、私がつぶれたことで被害をいちばんに受けたのはほかでもない上司だ。文句ひとつ言わずに救世主みたいにぜんぶを解決していったこと、今でも感謝しているし、尊敬している。丸四年、私が会社をやめずにここでやっていってもいいかなと思えてこれたのは、この人が上にいてくれたからだ。この人の下で働いていたいと思える人が上司で幸運だった、という話を他人にしたことも一度や二度ではない。ぜんぶ本音のつもりだった。

ただの上司と部下にしてはあまりに踏み込みすぎたんだろう。心をゆるしすぎた。信頼しすぎた。そういうふうに思うしか、この気持ちの行き場はない。

夜、仕事の相談を終えたところまではよかった。求めていたアドバイスをもらえて、悩んでいたことが解決する道筋も立てることができて、やっぱりこの人に相談してよかったと心底思っていた。

そのあとの他愛ない話の流れで、どうしても今やっていることに価値が見いだせないと口にしたのは私だ。この手のことを言うのはけして初めてではないし、そのたびに上司がやや機嫌を損ねることも経験則で知っている。上司からすればこれまで自分が積み重ねてきたキャリアを否定されるようなことを、その道数年のひよっこに言われるのだから、いい気分になるはずがない。ほんとうは、僕らのやっていることはこの世界にとって意義のあることだよ、無意味でも無価値でもないよ、たぶんそういうふうに言い切ってほしいだけなのだと思う。駄々をこねているだけのことだ。幼稚だ。おとななんだから仕事のわりきりくらい自分の中でつけられるようになるべきだ、そう思う。私の重んじるものは資本主義の中にないとわかっていながら今営利企業に身を置くことを選んでいるのはほかでもない自分で、だから意義とか価値とか、そんなことはそもそも考えるべきことじゃない。やらなくちゃいけないことがそこにあるだけだ。それをわかっていてもなお上司に救いを求めてしまうのは、まぎれもなく私の甘さであり弱さである。

私が専門とするのは、会社として比較的新しい領域だ。経験知はすこしずつ蓄積しつつあるけれど、まだ汎用的な手法として確立できたとは言い難く、実際の業務では個々人のスキルに依存するところが多い。経験者が多くはないからこそ、私のような若手でもリーダーをまかされることも少なくはない。成長機会といえば聞こえはいいけれど、実力にしては重すぎる立場を負うことになるのが実態だ。私はそういう圧力をはねのけるような頑強さは持ち合わせていなかったから、ぺちゃんこになった。

でも、じゃあ、あの時私以外にリーダーをできる人間がいたか、と言われたら、やっぱりいなかっただろうと思う。同じ時期に工数を割くことのできる人員がいなかったという物理的な側面が強い。あの時組織が出せるカードの中で、私が一番マシだった。それで無理だったんだから、それはもう、ビジネスモデルとして破綻しているということだ、それが私の視点だ。いつだって最良のカードを揃えられるわけじゃないんだから、それを見越してスケジュールや人員計画を立てるのが道理じゃないのか、そう思う。そんな簡単な話ではないのはわかっている。スケジュールを伸ばしたり、人を増やしたりするということはそれだけ費用がかさむということだ。それは顧客への売値に直結するわけで、端的に言って市場での競争力を失うことと変わりない。でも、提案の質を落とさずに、メンバーのスキルと残業をあてにして計画を立てるということは、正当な対価を得ることを諦めているということだ。それで損をするのは会社ではない。買い叩かれているのは私たち末端の労働者だ。私が営業を蛇蝎のごとく嫌うのは、顧客のためなどと言って社内の人間をないがしろにすることをいとわないからである。

雑談の流れではあったけれど、感覚的にあのプロジェクト計画は非現実的だったと感じていることを上司に率直に伝えたのは、改善してほしいと要求することは社員の権利であり、それを改善するのが管理職の仕事だと思うからだ。なおのこと親身に聞いてくれる人だという信頼があった。

とっくに業務時間外(そんな概念が今さらあるわけでもないが)の夜、しかも雑談の文脈で話す内容としては不適切だ、と言われれば返す言葉はない。部下として後輩として可愛がられている自覚も、その立場を利用している自覚もある。必要以上に率直になってしまっている部分もあるだろう。

礼儀や文脈を軽視したいわけではないけれど、私はそれなりの切実さを持って言ったつもりだった。それを、ただの愚痴だからそういうのは好きじゃない、って切り捨てられて、ああそうなんだって思った。段取り不足だっただけで、計画自体に無理があったわけではないと思っている、と苛立った口調で言われたことが思った以上にこたえている。だって、その段取りをうまくできなかったのはリーダーである私の力不足だ。ぺしゃんこに潰れるまで考えこんで悩んでもどうすることもできなかった、私の力不足だ。結果がすべての世界で、頑張ったから仕方ないよなんて言ってもらえるとまでは思わないにしても、おまえじゃなきゃちゃんとやれてた、に近いことを宣告されるのは落ち込む、人間だから。

でも、と思う。現実的な計画だった、というのは、私よりも優秀な、その計画を現実にできる力のあるプロジェクトメンバーを揃えられるだけの人員確保してから言うことじゃないんですか。完璧なカードを揃えられないなら、弱いカードでの勝ち方を、戦略を立てるのが組織であり上司じゃないんですか。愚痴あつかいされるんだなあ。そっか。それはつまり私の言葉は傾聴するに値しないという態度の表明であり、私が潰れたのは私が弱くて力不足だっただけで組織として改善する必要はないと考えているという態度の表明であり、私の味わった苦しみを軽んじるという態度の表明だと私は感じた。

心を明け渡したのが間違いだった、と思うしかない。私は仕事を愛さない。私の愛するものはここにないのだから、価値も意義も求めたらいけない。機械になってみせようじゃないか。その外側で、私は私のことを愛してやる。

だけど、そうして従順な奴隷に甘んじていたら誰も守れない。私は、激務で体調を崩すのが当然視されるこの構造を壊したい。そんなのはおかしいって言い続けていたい、誰かが文句を言わないと変わらないから。この業界にしぶとく根を張る、人権と尊厳を蹂躙する価値観をゆるしたくない。悲しい。