Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

四月の栄養

映像作品はfilmarks、本と漫画はブクログでそれぞれ雑多に記録を残してきたけれど、どうにも自分を分割する感覚があまり愉快ではなくて、ひとところにまとめたいという気持ちが強くなりつつあったので、思い切ってブログに残す試みをしてみようと思う。感想を書くのがとかく苦手だから、そこを練習したいというのもある。今月のごちそうたち。

仕事がとにかく慌ただしくて、日記を書く余裕すらなかったけれど、出張で移動時間が長かったりしたぶん、インプットは思ったよりもとれた気がする。これはすなわち私が生きようとしている記録そのものである。

本/漫画

中村文則『銃』

圧の強い作品だけど、没入感が強くてよかった。主人公がミソジニックなところは鼻につくものの、こういう人物設定でなければこういう物語はできないだろうなという説得力のある作品だった。ほんとうに現実に存在する人間の物語だと思わされるような、明瞭な心情描写が凄かった。好きかといわれれば好きではないけれど、愛されるために書かれた作品じゃないということは筆者もあとがきに書いていて、それが良いなと思った。

長野まゆみ『ユーモレスク』

ながらく気になっていながら手にとったことのなかった作家。淡々とした傍観者の視点で語られていく恋愛の空気感が好きだった。

円城塔『Boy's Surface』

伊藤計劃を崇拝する人間が円城塔を読まずにいていいのか?という根拠のない問いはずっとあって、その答えはいつだっていいはずがないというところに落ちていた。何度か開いてみたことはあるのだけど、ばか真面目にあの文体に向き合おうとすると消耗してしまって挫折していたのだ。これを読んでみて、ようやく楽しみ方がすこしわかった気がする。わからなさに翻弄されるくらいがいいのかもしれない。理解するためのものでも、共感するためのものでもない、こういう読者を突き放す作品が文学として存在するのはある意味救いというか解放なのかも、と思ったりした。ブクログで他の人の感想を読んでみたけど、皆必死に何かを言おうとしている感じがして面白かった(もしかしたら本当に私だけがわかっていないのかもしれない、それはそれでSF的で愉快だ)。わからないことをわからないと大の字になって言えるくらいの豪胆さが身についたことは成長だと思う。

沢木耕太郎『無名』

沢木耕太郎が自身の父を亡くす前後の日々を淡々と綴った作品。そう多くの文章を読んできたわけではないけれど、この人以上に好きな文章を書く人間をほかに知らない。この人の文章がこの世界に存在する限り、自分が文章を書く意味がないのではないかと思うほどに、何度読んでも打ちのめされる(もちろんそんなはずはないので、私が書くのをやめることはないが)。語彙も、句読点の打ち方も、語尾の結び方も、何もかもが、とにかく好きだ。酔いしれるというのではないが、この文章はこうでしかありえない、という説得力が凄まじい。私は自分の書く文章が好きではあるけれど、いつか沢木耕太郎よりも好きだといえる文章を書けるようになりたい、と思う。

 もしかしたら、私は父を畏れていたのかもしれない。畏れていたのは、もちろん体力とか暴力とかの肉体的な力ではなかった。金とか権力とかの世俗的な力でもない。父はそうしたものから最も遠いところにある人だった。私が畏れていたのは、その膨大な知識にいつか追いつくことができるのかということだった。父には、何を訊いてもわからないということがなかった。この人といつか対等にしゃべることのできる日が来るのだろうか。そう思うと絶望的になることがあった。

(略)

しかし、永遠に追いつかないと思っていた私が、気がつくと、いつの間にか父の知識の全体をある程度まで俯瞰できるようになっていた。どのようなことについての知識が厚く、どのようなところの知識が薄いか。だから、私は、自分がわからないことを電話で父に訊ねるときも、答えてもらえそうなことを選んで質問していたような気もする。そこでも私は父を守ろうとしていたのだ。

 たぶん私は父をいつまでも畏怖する対象でありつづけさせておきたかったのだろう。しかし、実際はそう思ったとき、すでに父は畏怖する対象ではなくなっていたのだ。

祖父が死んだ時のこと、顔を合わせるたびに老いを感じるようになった両親のこと、自分にも覚えのある感覚にぎりぎりと身を絞られるような気持ちで読んでいた。

太宰治『ア、秋』

沢木を読んだら、なんだかその淡々とした筆致にむしょうにさみしくなってしまって、もっと情景がまとわりついてくるものが欲しくなった。それで青空文庫で太宰治のいちばん上にあったこれを読んだ。呼吸を取り戻したような気持ちになった。

秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯ちょうちんも捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。

文章から匂いがする。太宰の書き留める景色を私が目にしたことはないのに(だって牛乳の空き瓶なんて銭湯以外で見やしない)、むせかえるような潮の匂いが鼻腔を満たす。砂に埋れる屑が鮮やかにまぶたのうらに浮かぶ。そういう文章にずっと憧れてきている。

太宰治『I can speak』

これも『ア、秋』に続けて青空文庫で読んだもの。

謂わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。

私ももっと書き続けてゆけば文学のすすむべき路が見えてくるのだろうか。書きたいという思いだけが急いて、空回りするばかりの日々だ。十二時間労働があたりまえの生活をしていたらとうぶんだめなんだろうな。生活のつぶやきを見失わないでいたい。140字に押し込めた断片ではなく。

『新編 日本のフェミニズムⅠ リブとフェミニズム』

日本のフェミニズムの興隆からの歴史を財産目録としてまとめあげる意図で刊行された全12巻のフェミニズムにまつわるアンソロジー。第1巻の『リブとフェミニズム』は、1970年代のリブ運動時代に書かれた文章が収録されている。リブの女たちの言葉の熱量にはとにかく圧倒された。

私は私でありつづけるためには、あらゆる排外主義と闘うことにしか私の未来は有り得ないことを知っている。今までの、全生活が、こう言いきるための闘争であり、これからもそうであることを知っている。私にとって入管体制とは私の日常のことであり、入管体制との闘いは、"女らしさ" との闘いである。男への同化との闘い、"女らしさ" への同化との闘い、"女らしさ" に屈服し自分を失うことの危機感に追われ続けた毎日、今もつづく毎日、自分を裏切っていくことのもつ存在感の喪失。そこに、つき落とされてはじめて、同化と闘う、入管体制と闘う私の必然性が生まれてくる。長く耐える術を知らない私にとって、革命とは待つものではない。我々女はもう待てない。男を待てないのだ。自分を取り戻すのを待てない。(「全学連第30回定期全国大会での性の差別=排外主義と戦う決意表明」より)

このほかにも、田中美津「わかってもらおうと思うは乞食の心」、深見史「産の中間総括」、金伊佐子「在日女性と解放運動」も胸に来るものがあった。この言葉たちに出会えてよかった。私が今日実践しようとするフェミニズムの源流に触れることのできる、価値ある書籍だったと思う。

シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』

先月読んだ鷲田清一『だれのための仕事』に出てきて、これは読まねばいけないなと思っていた矢先、図書館に行ったらちょうど目が合った本。人間を生産性という記号ではかり、人格を忘却するマルクス理論への批判に根ざして、個々の労働者と労働に真摯に向き合う記録は、淡々としていながらものすごい生々しさを伴っていた。

あまりに疲れはて、自分が工場にいるほんとうの理由を忘れてしまい、こうした生がもたらす最大の誘惑に、もはやなにも考えないという誘惑に、ほとんど抗えなくなる。それだけが苦しまずにすむ、たったひとつの手立てなのだ。かろうじて土曜の午後と日曜に、記憶や思考の切れ端がもどってきて、このわたしもまた、考える存在だったのだと思いだす。自分がいかに外的状況に左右されるかを思い知るとき、戦慄を禁じえない。

ちょうど感染拡大防止のために午後八時以降は消灯などという支離滅裂極まりない政策(とよぶのも馬鹿馬鹿しい)が出たり、この土地に生きるひとびとの生活よりもオリンピックを優先しようとするような現実の見えていない馬鹿どもが為政の場で闊歩していたり、とにかく政治と社会にキレ散らかしたい案件が毎日どんどん積み重なるクソみたいな国に、私は生きている。そしてそれらに対してじゅうぶんに怒りを発露できない自分に失望と無力感をおぼえるとき、科学的根拠も合理性もない悪夢のような政策が次々に打ち出される社会になったのは、労働者が言葉を持つことを学ばなかった(学ぶ機会を与えられなかった)/忘れたからではないか、と思う。プロレタリア革命に懐疑的だった孤高の左翼たるヴェイユもまた、今の私とそう遠くない感覚を持っていたのではないか。時代を超えても、工場がオフィスに変わっても、労働者の感じることや置かれる立場なんてそうかわらないのだということがよくわかってうんざりしてしまった。

バスに乗ろうとしたとき、奇妙な感慨をおぼえた。なぜわたしが、奴隷であるこのわたしがこのバスに乗れるのか。ほかの人とおなじように12スーでバスを利用できるのか。とてつもない恩恵ではないか!こんな便利な交通手段はおまえにはもったいない、おまえなんか歩けばよいといわれて、荒々しくバスから引きずりおろされても、いたって当然だと思える。隷属状態にあるせいで、自分にも権利があるのだという感覚をすっかり失ってしまった。人からいっさい荒っぽい扱いをうけずにすむ瞬間は、まるで望外の恩恵と思える。

一方で、工場就労を通して「死ぬまで消えない奴隷の刻印」を背負いながらも、よりよくあるためにどうするかという思考をやめなかったヴェイユに、絶望ばかりしてもいられないと身の引き締まる思いも覚えた。隷属状態に身を置くことで思考が奪われている、そういう実感をともにする人がいるのだという救いと、尊厳を守りぬく戦いを、ともにする人がかつていたのだというよろこびを、この本に見た。ヴェイユの経験した肉体労働と、いわゆる知能労働に従事する私とでは経験していることはまるきり同じではないけれど、それでも、これを読めたのは良かったと思う。若くから卓越した哲学者であったヴェイユにとって、工場での就労は自身の思考を証明するための実地試験だったということらしいので、この工場日記の礎となった彼女の思想をもっと読みたいと思った。ともあれ、資本主義なんておファックですわ。

和山やま『カラオケ行こ!』『女の園の星』

いずれもDMMの70%オフクーポンにて。『カラオケ行こ!』、すごく良かった。すごく、良かった。あれこれ言葉にするほうが野暮な気がするので、ここに留める。『女の園の星』のほうは、涙が出るほどひいひい笑いながら読んだ。教員に変なあだなをつけるのは女子校あるある。私は女子校があまり好きになれず中高一貫を途中で出て共学の高校に進学したが、こうして十数年前のこととして振り返るとそう悪いものでもなかった気がしてくるから記憶というのは勝手なものだ。

はらだ『ハッピークソライフ』『やじるし』

これもDMMの70%オフクーポンで買った。商業BLをあまり積極的に読んでこなかった私が、唯一作家買いする人。『ハッピークソライフ』ははらだ作品にしてはコメディに振り切った作品だった。『やじるし』の方はあいかわらずのはらだ節。この人の作品は人におすすめすることはできないし、読みたいと思う自分の欲については常に自省的であらねばならないと思うけれど、一定の支持を受けるだけの理由がある人だというのも確かだ、といつも思わされる。

林田球『ドロヘドロ』

信頼する友人の愛する作品ならば読まない理由はない、とDMMセールで真っ先にカートに全巻放り込んだのがこれ。途中で自分が何を読んでいるのかわからなくなって、ドロヘドロって検索窓に打ち込んでみたら、ダークファンタジーとかスプラッターホラーとか説明されていて、言われてみればたしかにそうだと納得する一方で、読んで受けていた印象とはいまひとつそぐわなかったのでなんだかびっくりしてしまった。今のところ、カイマンとニカイドウのほんわかした友愛の物語として読んでいる。男と女というだけで軽率に異性愛に回収されない物語はありがたい。大葉餃子が食べたい。アニメも良いと元恋人が言っていたので、原作を読んだら見る。楽しみだ。

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』

数年前、まだ商業BLをほとんど読んだことがなかった頃に誰かに勧めてもらったものの、読む機会を逸していた作品。すさまじく良かった。出てくる人間ひとりひとりがそれぞれもがいていて泥臭いのがたまらない。ちょうど数日前にメイン性癖を熟語で表す遊びというのが話題になっていて、私は「不理解・諦念・惰性」を挙げたところだったのだけど、まさにあちこちにそれらが散りばめられた作品で、とにかく最高だった。

 

アニメ

約束のネバーランド(2期)

ときどき台詞が説明的すぎるように感じることがあるのと、人物の心情描写に物足りなさをおぼえることから、心酔するとまではいかないのだけど、それでも観るのをやめないのは絵がきれいだから。ふだんあまり自覚的であるわけではないのだけど、こういうとき自分が耽美主義の色が濃い人間であることを知る。物語の展開はおもしろいけれど、私の中でそこの優先順位ってそこまで高くないみたいだ。EDの作画はどことなくアール・ヌーヴォーの気配を感じてとても好きな空気感。呪術廻戦、チェンソーマン、鬼滅の刃にならんでここでも人外vs人間の構図だけれど、人間の方が悪に反転する描写があるところが良かった。善悪なんて恣意的だ。

ワールドトリガー (2期)

OPのTXTの曲がすごくいい。登場人物の関係性とかぐちゃぐちゃした心理を描き出す物語に惹かれるたちなので、こういう、どちらかといえば淡々とした作品に魅せられることはけっこう珍しいのだけど、理屈の精密さと、地に足のついた人物設定がいい。ひとつひとつの動きにきちんと動機があって、すごく緻密に話が練られているから、観ていて引っかからないというか、「なんでそうなった?」みたいなストレスがすくない作品。ただしどの台詞にも動きにも意味がある分、生半可に目を離すと一瞬で置いていかれる。オペレーターが全員女性なことだけが納得がいかない(並行処理が女性のほうが得意だから、ということらしいけれど、統計的な性差がないとは言えないにしても、個人差を考慮して男性が数人いたっていいのでは、と思ってしまう)けれど、実戦ではない、仮想空間での演習に過ぎないB級ランク戦をあそこまで面白くできるということに、なんだかこれまで知らなかった物語の在り方を学んだ気がする。3期も楽しみ。原作もきちんと読もうと思って買った。

Free!

もう何周目かわからないけど、ときどき戻ってきたくなってはつまみ食いのようにところどころ見返している。私のたましいの輝きを取り戻す戦いのために、いつだって背中を押してくれる作品。凛の真摯さに背筋が伸びるし、遙の瞳に宿る光の強さに奮い立つし、真琴の柔らかさに優しさをもらうし、渚の天真爛漫さに気持ちが洗われるし、怜の実直さに引き締まる。歩いていられないと思った時に立ち返る、透き通った作品。私は日頃さまざまな律法を自分に課していて、そうして自分の輪郭が定まることに安心しているけれど、この世界の彼らが、それぞれ何かから自由になってゆく姿を見ていると、生きることが輪郭を狭めていくことであってはならないな、と思う。劇場版もとうとう公開日が告知されて、九月まで生き延びる理由がひとつ増えた。

呪術廻戦

最初の頃は毎週リアタイ視聴するくらいに楽しみにしていたのだけど、あの異性装を揶揄した最悪なじゅじゅさんぽで熱ががくんと落ち着いてしまったのが悲しかった。あと1クールのOPEDがすっごく好きだったのが大きくて、それが終わってしまって気持ちが遠のいたのもある。やっぱり最初の方で五条悟に入れ込みすぎたのがいけなかったのかなあ、にしても本編ですらないところで傷つけられるとは思わなくて、未だにそのショックをひきずっている。それでも原作を読むとやっぱり好きだと思うし、引き込まれるし、完結までは見守り続けたいと思う気持ちがあるのもほんとうだから、そこにはまだ素直でいたい。この作品にはたくさん救われているのだ。悠仁、伏黒、野薔薇の対等な関係がとても好き。女性が "少年漫画" の中で欲望の対象として客体化されないことのすばらしさ。守る側と守られる側ではなく、互いの背を預けて戦う間柄であること。最終話、すっごく胸が熱くなった。野薔薇や真希さんが「女性らしい」振る舞いをしない人々であること、伏黒の名前が恵という一般的には女性に割り当てられることの多いものであること、男女ともに睫毛が描かれること(長い睫毛は有徴化される女性の記号として扱われることが多いから)、そういう些細なところからすこしずつ男性性と女性性の境界線を撹乱することにはぜったいに意味があると思うから、この作品にまだ希望を見るのだ。

SK∞

今月だけで三周観た。私がボーイズラブを愛好する立場ゆえにそういう読みをしがちなことは否定しないけれど、ランガと暦のあいだに滲む、友愛という言葉だけではこぼれおちてしまうやわらかな愛情が丁寧に掬いあげられた作品だった。ブルーノ・マーズを彷彿とさせるOP曲が大好き。荒唐無稽に振り切った迫力満点のスケートシーンも良かったけれど、何よりも台詞のないシーンが印象的な作品だったなあと思う。二話の後半でランガがスケートにぐんと魅せられていくところとか、六話の宮古島のビーチではしゃぐシーンとか。カナダ時代と、現在を対比させるような表現は随所に出てくるけれど、そういうところから、カナダにいた頃のランガの世界は閉じたものだったんだろうというのがわかる。死んだ父親とスノボと雪で構成されていた世界。父親が死んだことも、雪が消えるものであることも、スノボは雪がないとできないことも、ぜんぶ有限の描写だ。だからこそ、タイトルの通りスケートの無限さがひときわランガにとって輝いて映るのだろう。経験こそ長いけれど、なんとなく、ランガはスノボのことをそこまで好きじゃなかったんじゃないかという気がする。楽しさを何よりも大事にする暦に出会って、ランガは楽しいことの楽しみ方をちゃんとわかるようになったんじゃないだろうか。限りのある世界からランガを連れ出したのが暦だったのだ。無限というのは、続きが、未来があるということで、すなわち、暦に出会ってランガは生きることをはじめたと言ってもいい。ところで、スケートシーンの荒唐無稽さといえば、観ているときの無秩序な楽しさは血界戦線に通じるものがあると思っていたのだけど、そういえば血界戦線も制作がボンズだったのでした。納得。

少女★歌劇 レヴュースタァライト

昨年末だったか、知人に熱烈に勧められた作品。ずっと観ようと思いつつ、同性の人物が主体の物語があまり得意ではないので(この理由を私はちゃんと考えなくてはいけない)二の足を踏んでいた、の、だけど。舞台を愛する人間の必修科目だ、というのは、観てみてよくわかった。私は舞台に立つ側ではなく、享受する側であり続けてきたから、どうしても舞台の中の世界は、舞台が終わったら消えるものとして観ている。その刹那の世界を味わいたくて劇場に足を運ぶのだし。でも、演じる人はその世界が終わっても存在し続けるし、舞台は有限ではなくて現実と接続した世界なのだということに焦点を当てた作品だったのかなと思った。現実と舞台の二層構造、そこを行き来する彼女たち。劇中にしか存在しない架空の、別個の人格の生産ではなくて、彼女たちの再生産の物語。きらめきは再生産できるってめちゃくちゃ希望だなと思った。舞台に立つたびに、舞台を見に行くたびに、きらめきは生まれるうるということ、この作品のすべてが私たちが舞台を愛する理由だ。劇中歌がとても良いのと、多用される左右対称の構図が気持ちのいい作品でした。この作品を(というか古川知宏監督を)語るにあたって必ず引き合いに出される幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』をちゃんと観てからもういちど戻ってきたい。

BLACK LAGOON

祈れ。生きているあいだにおまえができるのはそれだけだ。

これは先月観たものだけど、残しておきたかった。出てくる女がことごとく強いのが最高。レヴィに恋をせずにいられるはずがなかった。いのちの軽さをこれでもかと見せつけてくる重たい作品だけど、こういう作品でしか癒せない喉の乾きがあるのは確かだ。ちょっと気障な台詞回しもいい。今まで目にしてきたどんな直接的な性描写よりも、相互不理解の果てにあるレヴィとロックのシガーキスがいちばん官能的だと思った。ロックはレヴィの希望だったのに、希望であることを演じきれずにあっち側に行ってしまったことが悲しくて見終わってからしばらく落ち込んだけれど、でも何度考えたってああなるしかなかったのだろうなと思う。ロックはずっと「おまえはこっち側の人間じゃない」と一線を引かれ続けてきたし、実際彼の言葉は徹底的に空虚だ。どんなに彼が本心を言葉に込めても、あの世界ではどこか浮いて白々しく聞こえてしまう(それでも私が共感するのはやっぱりロックのほうで、だからこの作品を観ている時は居心地がわるい。たぶんロックが感じる居心地の悪さと同じ)。それを特に感じたのは双子編の最後で「世界は本当は君を幸せにするためにあるんだよ。いいかい、血と闇なんか世界のほんの欠片でしかないんだ!全てなんかじゃないんだ!」と叫ぶ場面で、あまりに深い断絶に言葉が出なかった。希望を持てること自体が特権的なんだなと思うし、たぶんロックはそういう自分をゆるせなかったんだろう。だからどっちつかずの夕暮れから夜に一歩踏み入れることを選んだ。しばらく耳の奥から銃声が消えなかった。片渕須直監督って聞き覚えがあると思ったら『この世界の片隅に』の人だった。あれは全然好きではなかったのだけど、これはこの先も絶対にまたどこかで喉が乾いたら戻ってきてしまう作品だな。

COWBOY BEBOP

BLACK LAGOONを観たら、同じくハードボイルドなアニメとして引き合いに出されることの多いこちらも観ないわけにはいかないだろうということで。というか、高校生だった十年前から私の人生の必修課題だった作品だ、この期に及んで観ていなかったことのほうがおかしいくらい。なにせ、シートベルツの曲には部活時代にさんざんお世話になったのだ。Tank!も、BAD DOG NO BUSICUITSもTOO GOOD TOO BADも演奏した。そうしてようやく十年越しに出会ったこの作品は、なんというか、ど真ん中に最高だった。まずオープニングを一生見ていられる。音楽がべらぼうに良い。地球ではない惑星の物語なのに、掻き立てられる郷愁に胸がじくじくとする。どうしてもっと早く観ておかなかったんだろう、と思う反面、これを最高だと思える感覚が十年前の自分にあったかどうか自信はないので、やはり作品との出会いには時期が重要だな、とも思った。なんだかこれを書きながら、見終わってしまったら、カウボーイ・ビバップをまだ見ていない自分には戻れないのだということにふと思い当たって、突然見終わるのが嫌になってしまった。それでもやっぱり、観てしまうんだな、だっておもしろいから。心が静かに凪いだときに全身で楽しみたい作品なので、ゆっくりゆっくり見進める。

ACCA

二年ぶりに再会した大事な友人にすすめられた作品。OPの曲でぐっと心をつかまれ、二話のジーンがニーノに対して「あれ、おまえ俺以外に友達いる?」とからかう場面で射止められてしまった。それに対して「つるんでる時間がないんだよなあ。余暇はバイクを走らせたいし、あとはおまえとの飲みだろ?」って平然と返すニーノもニーノだ。王国内の13の自治区を視察でまわる、やわらかな色合いの淡々とした旅作品かと思いながら見ていたら、すこしずつ不穏な様相が滲んでいく。冒頭の「俺以外に友達いる?」という伏線が思いがけない方向に回収されて、そのあとしばらくはずっとニーノのことばかり考えて心を乱されていた。抜群の色彩感。モーヴ本部長が知的でめちゃくちゃセクシーで素敵。衝撃で息もできない、というような引き込まれ方をする作品ではないけれど、質量のある人間関係が軽やかに描かれているバランス感が好きだった。

 

観劇

アラジン

先月に引き続き、今月頭に二度目を観に行った。来月にも一度、七月にさらに一度行く予定を入れている。手放しで評価できる作品ではない。ミソジニックでホモフォビックな脚本に文句をつけることをやめることはない(せっかくこんなにもフェミニズムが息づくエンパワメント作品なのに、それを台無しにしていて本当にもったいない)けれど、それと作品を心から愛することは両立するから。たぶん千秋楽を迎えるまで、何度も観に行くことになるんだろう。血が沸く、というのはああいう作品のためにある言葉だ。アラジンとジャスミンが市場で出会って、追手から逃げおおせたあとに歌う、『行こうよ どこまでも』という、ふたりの距離がぐっと近づく曲がほんとうに大好きで大好きで、家で歌いながらいつも感極まって声が詰まってしまう。ありのままでいることを否定され続けて、ジャスミン自身が懐疑的になっている彼女の可能性を疑わず、馬鹿にもせず、「自由に飛び立ってみたいなら、そうしない?」と空想の世界に連れ出すアラジンのなんと格好いいことか。それに後押しされて「船の旅はどう?」って空想を広げるジャスミンに、アラジンが「君が舵を取るんだ」って軽々とついていくところも好きだ。ジャスミンの言葉に、想いに、きちんと耳を傾けたやりとりだと思う。アラジンのすごいところは、これを空想で終わらせないところだ。ただ囚われのお姫様の慰みに夢を見せるだけじゃなく、その願いを叶える選択をする。市場で追手から逃げるときに彼が口にした「僕を信じて」という言葉はあまり根拠のあるものではなく軽薄に聞こえるし、ジーニーの力を借りて宮殿で再会したときにも言葉選びを誤って、一度はジャスミンに愛想を尽かされている。それでも魔法のじゅうたんにジャスミンを乗せて旅に連れ出すときに、もう一度「僕を信じて」と言うことで、アラジンは「僕はきみに信じてもらえるための努力を惜しまない」という姿勢を示しているのだ。そこには、対話を諦めない誠実さがある。「なぜだかわからないけど、信じるわ!」とそこに飛び込むジャスミンの豪胆さもまぶしい。信頼というのは、信じてもらおうとする選択と、信じようとする選択のうえに成り立つんだな、とふたりを見ていると思う。しょせん運命の相手を見つけるにすぎないとロマンティック・ラブ・イデオロギーの文脈に回収してしまうには惜しい物語だ。

キャッツ

三度目の緊急事態宣言発令の前日、二十四日に観に行った。学生時代にいちど、ミュージカルサークルの公演で観たきりで、物語についての知識はかなりおぼろげな状態で臨んだら、ラム・タム・タガーという猫にすっかり魅せられてしまった。この日ラム・タム・タガーを演じていたのは上川一哉さんで、別の日に観に行った友人が「上川さんが良かった!」と言っていたので楽しみにしていたのだが、登場まもなく、舌をぺろりと出してみせるあざとさに、なるほどあっという間に心を持っていかれた。彼のような猫と暮らせたらどんなにか楽しいことだろう。それからミストフェリーズ役の押田柊さんのダンスが圧巻だった。美しいターン、息をのむような軽やかな跳躍(ワイヤーでもついているのかと思うほどの滞空時間だった)、そして音のしない着地。素人目にもバレエの経験の豊富な人なんだろうというのはすぐにわかった。あとから94年生まれだと知って仰天した。卓越した技術を持つことは年齢にかかわらず尊敬に値することだけど、自分と同じだけの時間を生きてきた人が、自分と交わることのない世界で輝いている姿を見るとどきどきする。幾つの分岐を違えてお互いが今いる場所に立つのだろう、と考えるときの果てしなさに浸る感覚はきらいではない。

ところで、作品自体はとっても楽しんだのだけど、この日の観劇には苦い気持ちも残った。私は作品の内容にかかわらず、熱量の込められたパフォーマンスを肌で感じると涙腺がゆるむ体質だから、序盤の『ジェリクルソング』からぐずぐずと鼻をすすっていた。その涙に誘発される形で、だんだん自分の中で感情の収拾がつかなくなった。政治が無策だったばかりに、この素晴らしい舞台が明日からまた上演できなくなってしまうことを思ったら悔しくてやりきれなくて、涙が止まらなくなってしまった。そのあと舞台のうえの世界に引き込まれて一度は落ち着いたけれど、幕間でまたその想いがこみ上げてきて、休憩時間はほとんどずっと、ぼろぼろ泣きながら悔しさをツイッターにたたきつけていた。両隣の親子連れとカップルは、ひとりで幕間に号泣する女にさぞ面食らったことだろう。為政の場にいる人間が、こんなにも愚かで悪意のあるクソバカどもじゃなければ、この人らは、仕事の場を奪われることもなかったのに。私の、この気持ちをいろどる輝きを、たましいが震えるような喜びを奪われることもなかったのに。この舞台のうえで軽やかに舞う人びと、この舞台を創り上げる人びとすべての生活が蔑ろにされて踏みにじられていることに、視界がくらむほどの怒りをおぼえた。レヴュースタァライトのところで「きらめきが再生産できるって希望だ」と書いたけれど、ならば舞台が上演できない今の世界は、そのきらめきの生まれる場所を奪っていることにほかならない。私が観に行けるかどうかとかじゃなくて、世界に存在する希望の総量がその分だけ減るのだ。どうか、彼らがこの人災を(だってそうだろう)乗り切ってくれることを祈る。気持ちを折られないでいてほしい、なんていうのはいち観客の傲慢な願いだけど、推し俳優にまた手紙を書こうと思って、友人と行った文具屋で新しい便箋を買った。行けるかどうかも定かではないけれど、宣言明けの14日、15日にもそれぞれチケットをとった。チケットをとることはほとんど祈りに近い。

 

自分が何を感じたかを記録するというのは、考えるよりもずっと難しいことだ。日常の出来事についてのことなら、それは私だけが経験していることだから、何を書いたっていいと思える。だけど、ほかの誰かも読んだり観たりしている既存作品について言葉を見つけようとするとき、どうしても正解を探してしまう自分がいる。こう感じるのが正しいのではないか、という思考に引っ張られないように気をつけながら自分の心の動きを見きわめるということは、訓練していないとできるようなことではない。私はもうおとなだから、表彰されるための読書感想文なんかもう書かなくたっていいのだ。だから自分の感情の動きをとらえる練習というのをしてゆくぞ、と今は思っている。