Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

魔法使いと音楽

年明けから『魔法使いの約束』(まほやく)というゲームをはじめた。信頼する友人が心臓をがっちりとつかまれている様子をツイッターで見ていて、自分もやりたくなったのだ。『IDOLiSH7』にしてもそうだけど、大事にしたいものとゆるせないものの基準が似通うひとびとが心酔しているコンテンツは安心して飛び込むこともできるし、高い確率でたましいに刺さる。そうやって出会わせてもらった作品がたくさんある。それでいて、彼らと推しが重なることはめったにないから、おもしろいなと思う。人がなにかに惹かれるとき、惹かれるという行為にもたましいが宿るのかもしれない。誰かを、何かを好きになることの代替不可能性。

昨年の後半に熱を上げていたハイキュー!!やFree!も、二次創作の断片をぽろぽろと生み出してはいたのだが、昨日、ほんとうに数年ぶりに、短編をひとつ完成させた。終わらせることがひとつの才能である、というのは同人の世界ではよく言われることだけど、私はほんとうにその才能がない。創作に限った話ではなくて、仕事でもそうだ。とにかく完璧を求めてしまうのがいけない。その短編にしても、たかだか七千字を書くのに二週間以上かかっている。もっとも、そのうちの一週間以上は行き詰まって進捗も何もあったものではなかった。九割がた書けたかな、というところで何を書き足してもしっくりと来なくなってしまい、ああまたこれも終わらせられないのか、と半ばあきらめていたものだから、昨夜、何かのつかえが外れたように最後の数百文字がさらさらと書けたときには、思わず自分は夢を見ているのかと疑ってしまった。書けた。書けた!!!

さておき、そのまるで書けなかった一週間のあいだに、魔法使いたちと音楽のことを考えていた。それがものすごく楽しかったので、書き残しておくことにした。後述するけれど、私自身はクラシック音楽に造詣が深いとは言い難い。中学の部活ですこしかじったくらい。音楽の教科書に取り上げられるような有名どころばかりだし、曲について書いてあることのほとんどは、インターネットで聞きかじった知識にすぎない。その道の人が見たら鼻で笑い飛ばされてしまうような稚拙なものかもしれないけれど、それでも、好きだから、言葉に残しておきたい。これは私のための戦いのひとつ。

すっかり楽しくなってしまったので、Apple Musicでプレイリストも作ったりして、ここ数日はずっと聴いている。楽しくてたまらない。オーケストラや指揮者によっても曲の表情は変わると聞くので、ゆくゆくは好きな演奏を見つけられたらいい。

music.apple.com

中央の国

オズ

ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 第1楽章
ブラームスの第1は、第4楽章が一番好き。初めて聴いた中学生のときは「なんだこの長くてつまんねえ曲は」と思った記憶があるのだけど、いつのまにかドヴォルザークの『新世界より』とならんで好きな交響曲のひとつになっている。ブラームスの第1は、広いな、と感じる。海みたい。スケールの大きな自然の造形を前に神の存在を思わず感じてしまうような、ああいう感覚を聴いているとおぼえる。でも、第4楽章は、オズにはちょっと穏やかすぎるかなと思って、もうすこし理不尽さを求めたら、第1楽章に落ち着いた。雄大で強大で、理不尽で、不穏で、そびえたつ姿におもわず畏怖の念が湧いてしまうような印象が、世界最強の魔法使いの雰囲気にはふさわしいように思った。荒々しさを求めるときはまずアレグロをあたれ。オズとアーサーの愛に満ちた穏やかな日々として第4楽章を聴くのも味わいがあって好きだけれど。

アーサー

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92 第1楽章
弱冠十代の彼が背負うものは、あまりに大きすぎやしないかと心配ばかりしているけれど、こういう華やかで明るい曲を彼に結びつけてしまうような悪意のない期待こそが、背負わせている側なんだろうか、と選んでからはたと気が付いた。それでも、彼のしなやかな強靭さは、虚勢じゃない。オズへの信頼に裏打ちされた、地に足のついたものだ。愛とは双方向性の中でしか築きえないもので、アーサーはそれをよく知ったうえで、オズの愛を疑わない。それができることが強さだ。王子としての役割を理解し、それでいて傀儡にならない利発さを兼ね備え、君主としての器を存分に開花させる聡明な君に幸あれ。これは祝福の音楽だと思うから。

カイン

メンデルスゾーン 劇音楽《真夏の夜の夢》作品61 第9番 結婚行進曲
実は、はじめアーサーと同じベートーヴェンの第7番の第4楽章を選ぼうか迷った。華やかさはカインに合っているし、中央の主従をそこでつなげるのもありだと思ったから。それと、この交響曲というのはワーグナーに「舞踏の聖化」と言わしめた(これは褒め言葉らしい)ほどにリズム感の強い楽曲で、年に百回は踊るという踊り好きの男にはぴったりじゃないか、と思っていたのもある。それでも、この結婚式の定番曲を、ひとたびカインだ!と思ってしまったら、もうこれしか考えられなくなってしまった。華やかなファンファーレから幕を開ける、底抜けの明るさ。気圧されてしまうくらいの、まじりけのない、まばゆさ。ともすれば息が止まりそうなほどの、心臓のど真ん中を撃ち抜いてくる直球の甘やかさ。それがカイン・ナイトレイという魔法使いではないか。

リケ

チャイコフスキー バレエ音楽《くるみ割り人形》 第12曲 ディヴェルティスマン 1. チョコレート
賢者の魔法使いに選ばれるという出来事は、リケの少年性に強制的に終止符を打つようなものだ。教えられるもの、与えられるものを享受していればよかった時代の終焉は、夢の終わりと似ている。目が覚めれば、自分で思考し、自分で選択し、正義を懐疑することを迫られる。典型的な夢オチ、とくくってしまうにはあまりに魅力的な物語だけど、だからくるみ割り人形を選んだ。このバレエ音楽の曲はほんとうにどれも可愛らしいので、どれにするかでかなり迷ったのだけど、イベント料理でチョコレートを渡したら「僕を誘惑しないでください」と葛藤するリケが記憶に新しくて、これに落ち着いた。リケはまだ危ういなと感じることも多いけれど、自分がこれまで信じてきた正しさ以外の正しさが世界には存在する、ということはちゃんとわかっていて、その怖さときちんと向き合おうとする逞しさもあるので、この先どんな聡明な人になってゆくのだろうと楽しみに思う。と同時に、なんだかこちらまで背筋がのびる気がする。

北の国

スノウ

ベートーヴェン 交響曲第5番《運命》 ハ短調 作品67 第1楽章
この交響曲が語られるとき、避けては通れないのが第1楽章から第4楽章までかけての物語性だ。絶望から希望、暗から明、苦悩から歓喜。「運命動機」とよばれるジャジャジャジャーンのフレーズを、ベートーヴェン自身は「運命が扉を叩く音」と形容したそうだ。望んでもいないのに突然踏み込んできた運命のせいで自分の半身を殺めてしまったスノウのこれからにおいて、第4楽章は訪れるのだろうか。希望めいたものはあるかもしれないけれど、希望が存在することはあるんだろうか。激情と不条理。愛憎、という称号は、この双子にこそふさわしいのでは、とたまに思う。スノウの音楽だと思って第1楽章を聴いてから第4楽章まで聴くと、ものすごく虚無感に襲われる。襲われている。

ホワイト

ショパン 即興曲第4番 嬰ハ短調 遺作 作品66 幻想即興曲
中学でいちばん仲の良かった友人はピアノがすごく上手な人だった。音楽の授業の前や部活が始まる前の音楽室で、私はいつも演奏をせがんでいた。中でもいちばん私が好きだったのがこの幻想即興曲で、彼女の指がめまぐるしく鍵盤のうえを走る様は何度見てもどうなっているかわからなくて、ただ見とれているのが楽しかった記憶がある。人間の指が、あんなふうに音を紡ぎ出せるんだ、というのは何度味わっても新鮮な驚きをもたらすけれど、その魅力をはじめて知ったのがこの曲だったのかもしれない。中学生にしてこの曲を弾きこなしていた彼女は、音楽大学の指揮科を卒業したと風のたよりで聞いた。ホワイトにこの曲をあてたのは他でもない、彼が幽霊だから。降り積もった雪にすべての音がすいこまれてしまうような静寂の音、白の世界にあってスノウと作るステンドグラスが日に透けるときの彩り、スノウとじゃれあう言葉遊びの軽快さ、そのうしろに隠れる孤独感。雪と氷の結晶にきらめく光のような音の粒が並んでいる曲だと思う。

ミスラ

ホルスト 組曲《惑星》 作品32 第1楽章 火星-戦争をもたらす者
ミスラはいちばん最後まで決まらなかった。陰鬱さの濃い音を求めてシベリウスの交響曲を幾つか聴いてみたのだけど、それだと彼の荒っぽさも、底の知れない魅力も、それでいて人懐こい甘さがあるところも足りなくてしっくり来なかった。後回しで考えるつもりで、ほかの魔法使いにつかえないかなと思ってアルバムで流し聴いていたホルストの組曲《惑星》で、不穏で強そうなのが流れてきて、ミスラっぽいな、と思ったのがこれだった。曲名の『火星-戦争をもたらす者』という文字を見た瞬間、暗い緋色の髪と酸化鉄で赤茶けた星の地表、強大な魔力を持つ魔法使いと軍神マルスがさっと重なって、これだ!と思った。ミスラが得意とする空間転移の魔法が、違う惑星という「異世界」に通じるのもあるのかもしれない。ちなみに、『木星』のシャイロックとか『天王星』のムルもちょっと悩んだ。

オーエン

ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲第2番《夏》 ト短調 第3楽章
ヴィヴァルディの四季といえば、頭に残るフレーズが印象的な春が定番だけど、景色が鮮やかに目に浮かぶこの夏の第3楽章がいっとう好きだ。オーエンにはやや生命力旺盛すぎるだろうかと思わないでもなかった、というかはじめは冬の第3楽章を選ぶつもりだった。でも、魂を隠してまで死を避け続ける生への執着が生命力でなくてなんなのか。それと、気まぐれに雷鳴を轟かせる夕立みたいな印象も合うと思った。他者を支配したがる彼が、それでも自分の抱えるままならなさ(厄災の傷もそうだし、カインの目を奪ったことも、死ねないことも、オーエン自身が心から望んだことというよりは、ある種の不可抗力でそうなってしまったように見える印象が強いので)に振り回されてしまうところなんかがそれっぽいような気がした。冬の第3を選ばなかったのは、ぜんぶがきれいすぎて、オーエンの思い通りになっているように思えるところに物足りなさを感じたから。ちなみに春のほうは「春だよ!楽しい季節がはじまるよ!暗い季節は終わりだよ!楽しいでしょ?嬉しいでしょ?」という押し付けがましさを感じるのでちょっと苦手。

ブラッドリー

ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》 ホ短調 作品95 第4楽章
クラシックでひとつ好きな楽曲を挙げよ、と問われれば迷わず『新世界より』を選ぶ。いちばん好きなのは第1楽章なのだけど、この第4楽章の雄大さと華やかさも心をとらえて離さない。鈍く重たい曇天がぱっと裂けて、光が差し込むような粗忽な優雅さ。財宝を手にするために、新天地を暴力と権力と人望で切り開く、盗賊団を率いる男の物語。「運命の脱獄者」たるブラッドリーだからたどり着ける新世界。

東の国

ファウスト

リスト ファウスト交響曲 第1楽章 ファウスト
もともとは神経質ななかにも優しさを感じるシベリウスの交響曲第1番第1楽章を考えていたのだけど、インターネットの波をさまよっているあいだに出会ってしまったのがこれだった。名前の通り、ゲーテの戯曲『ファウスト』をテーマにした交響曲。おもしろいと思ったのは、物語の流れを音で再現しようとするものではなく、ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスという主要人物の性格像をそれぞれの楽章で表現する試みだったこと。まほやくのファウストがゲーテのファウストに着想を得ているというのは疑いようがないと思っているけれど、そういう視点で聴いてみると、いくつかの主題で表現しているとされる生命への懐疑、英雄時代の情熱と闘争心、探究心と知識欲、みたいなところは、なるほど重なる部分があるように思える。ゲーテのファウスト、おおまかなあらすじを知ってるだけでちゃんと読んだことがないので、必修課題だなあ。フィガロがメフィストフェレスっぽいって解釈している人も何人か見かけたので(たしかにわかる)、掘り下げてみたらぜったい面白い。今読んでる度会好一の『魔女幻想 -呪術から読み解く中世ヨーロッパ』という新書ではマーロウの『フォースタス博士』についても言及があるので、そちらと読み比べて見ても面白そう。というかまほやく、必修課題本がたくさんある。楽しい。

シノ

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18 第1楽章
この少年のことがずっとわからなかった。ヒースも、ファウストも、ネロも、人付き合いがそれぞれ下手くそなところに愛着をおぼえたし、自分と重なる部分を感じてゆるされたような気持ちにもなった。だから東の国推しになるのはほとんど私にとっては必然で、なのにシノだけはどうしてもわからなかった。愛など自分にふさわしくないと思っていそうなヒース、愛を信じることをやめたファウスト、愛が何か知っているけど知らないことにしたいネロ、そのなかにあって、主君たる友人への愛をためらいなく口にする少年。そのまっすぐさが、眩しくて、羨ましくて、なんならすこし苦手ですらあった。やっとすこしわかったような気がしたのは、雑誌でシノの過去について触れた都志見先生のショートストーリーを読んだときだ。シノの世界は、ヒースをはじめとするブランシェット家と、それ以外とできっぱりと断ち切られている。そしてシノは、自分は「あちら側」にはいけないのだと思っている。優しさ、高貴さ、温もり、汚れをけっして知らぬこの世界のありったけの美しいもの全部を詰め合わせたのがブランシェット家だと思っているから、そしてそれは血と泥と罪にまみれた自分には望むことすらかなわない別世界のものだから、だからあんなにもまっすぐな称賛と敬愛を表明できるのだ。ヒースとシノの会話には、いつだって徹底した相互不理解が横たわる。ヒースは見上げられるよりも、隣に肩を並べて同じ方向をともに見通すことを望んでいるけれど、たぶんそれはかなわない。だってヒースは、シノにとっての太陽だから。たぶん、この短編を読まなかったら、この曲選にはなっていなかっただろう。救貧院から逃げ出した裸足にまとわりついてくる死神の気配も、おなじようにまとわりつく、善意に見せかけた不愉快な支配も、善も悪も問わずに生き抜くことを優先した意志の強さも、それでもほんとうは傷ついていたことも、容赦のないシャーウッドの森の厳しさと荒々しさも、ブランシェットの人と出会って紛い物ではない愛と優しさに光を見たことも、それでもどこかに残る寂寥感も、音に見る。泣きたくなる。

ヒースクリフ

ドビュッシー 版画 雨の庭
上原ひろみというジャズピアニストの、Hazeという曲が大好きだ。音から景色を描き出せるひとが実在することをこの曲で知った。悲しいことに、この音の雫が私に見せる景色を、その美しさを、言葉に落とし込む術を私は持たない。立ち込める靄に曖昧になっていく景色の輪郭だとか、気付かぬ間にしっとりと濡れる肌や髪だとか、雲の合間から差す陽だとか、ひかりをうける雨粒のきらめきだとか、水滴をまとった草木の鮮やかなみどりだとか、そういうものが鮮やかにまぶたの裏に想起される。ヒースのことを好きになったばかりの頃から、その曲がヒースらしいなあと思っていた。それで、同じような空気感をまとった曲を探そうと思って、すくない知識で最初に思い当たったのがドビュッシーの月の光だった。それでドビュッシーの曲を聴きあさっていたら、雨、という曲名が目に留まった。導かれるように再生したら、雲の立ち込める朝、ベッドに身を横たえたまま雨音に耳を澄ますヒースの姿が浮かんできて、あまりに思い描いたとおりの音だったから思わず口元が緩んでしまった。シノにまとわりつく灰色の悪魔を、ヒースの雨が洗い流せてやれたらいいのにな。

ネロ

ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》 ホ短調 作品95 第1楽章
『新世界より』をネロとブラッドリーで揃えてしまったのは、言い逃れのしようもない元相棒シッパーの業である。華やかな第4楽章に対して、この第1楽章はもっと穏やかで陰鬱な印象が強い。盗賊団から足を洗って東の国に住み着くあたりの音がこんな雰囲気じゃなかろうか、と思って選んだ。ふたりにとっての「新世界」はけっして重なるものじゃないのだ、という考えがうしろにある。 "元" 相棒はどこまでいっても "元" でしかいられないんである。そしてたぶんそれは、重なっていたものがあるとき離れてしまったわけでもなく、相棒として肩を並べ合っていた頃から、きっと。そういう元相棒が好きだっていう私の性癖による曲選でお届けしています(最初から最後までそう)

西の国

シャイロック

ハチャトゥリアン 組曲《仮面舞踏会》 ワルツ
仮面舞踏会は部活でやった曲だから、中1だか中2だかの時に初めて聴いたんだと思う。その時から十数年後の今に至るまで、この曲の印象は一貫して「怖い」というのがもっとも強い。こんなにも華やかできらびやかで楽しげなのに。印象が一貫しているといえば、シャイロックのこともずっと怖いと思っている。こちらがシャイロックに純粋な好意を向けたとき、彼にとってはそれが何の意味も持たない感情なのであろうことがわかるから、怖い。他者をムルとそれ以外で分けているのだろうと感じる時がしばしばあって、おそらくシャイロック自身がそれに自覚的なんだろうと思うから、怖い。本編第1章で、肌にまとわりつく風を「後腐れた情人の指先のよう」と形容してしまえるこの人は、いったいどれだけの「ムル以外」を切り捨ててきたのだろう、と読み返した時鳥肌が立ったくらい。彼の前に存在する私は、ときどき「その他大勢」でしかなくて、それを思うと、足元の地面がすとんと抜けて、どこまでも落ちてゆくような気持ちになる。仮面舞踏会というのは、自分を隠す場所だ。誰もが、自分以外であり、その他大勢のひとりになる場所。

ムル

ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
私がこの曲をちゃんと聴いたのは、高校でビッグバンドジャズの部活に入ってからだ。それも、ごりごりのジャズバンドで思いっきりスウィングを効かせた音源で。だから、これがどちらかといえばクラシックと類型されることには、いまだに違和感がある。それくらいにボーダーレスな楽曲。幾つもの肩書をもって越境していく、突拍子のなさを持つムルはこれしかない!と思った。ゲームのプレイ開始から50日とすこしが経った今、魔法使いたちのことは考えれば考えるほどわからなくなっていくけれど、ムルという人はその最たるものだ。何もわからない。どんなムルを考えても正解にならない。でもそれこそがムルなんだろうな、と思わされるところが、クラシックとジャズの境界を軽々と行き来するこの曲に似通っていると思う。類型など無意味だ、どちらかに収まる俺じゃなくても愛して!と人差し指で花火を生みながら彼は言う、だろうか。

クロエ

メンデルスゾーン 交響曲第4番《イタリア》イ長調 第1楽章
ひさしぶりにこの曲を聴いていて、西の人って長調って感じだなあと考えたのが、この遊びのすべての発端だった。この曲は明るくて、優しくて、楽しげで、派手過ぎない華やかさがクロエらしいなあと思う。デザインを考えながらスケッチブックに真剣な顔で向き合う姿、丁寧にミシンに布を走らせる器用な指、できあがった素敵な服のたもとが風にひらりと舞う様子、そういうものがぱっと浮かんでくる気がして。

ラスティカ

ブラームス ハンガリー舞曲第7番 ヘ長調
ワルツのリズムというのはどうしたって陽気になるものなんだろうか。明るさと優美さ、陽だまりのような柔らかさと、ときおり驚かされる茶目っ気を音から感じるところが、ラスティカらしいかなと思った。天気の良い午後の日、美しいティーカップと、香りの良い紅茶と、上品な甘さの茶菓子の似合う曲だ。バッハあたりからチェンバロの曲を選んでこれたらいいなと思ったんだけど、あまりしっくり来る音源がなくて残念。また探してみたい。

南の国

フィガロ

ショパン 革命のエチュード
二千年という時間を生きてきたフィガロには、もっと壮大な交響曲を選ぶんだろうな、と漠然と思っていた。そのはずだったのに、口直しがてら流していたショパンのアルバムで偶然『革命のエチュード』が流れた瞬間、一音目で「あ、これだ」と思ってしまった。考えてみれば、孤独と切り離して語ることのできない魔法使いの音楽が独奏曲になるのは必然かもしれないな、とあとから納得した。私はフィガロのこともしょっちゅう怖いと思っているのだけど、彼におぼえる怖さは、底が見える類のものだ。深い、深い、光の届かない海の底のような。そこには果てのないさみしさが同居している。フィガロのことを考えるとき、孤独について考えずにはいられないし、そのまま自分の孤独と向き合わされるのがわかっているから怖いんだと思う。フィガロにとって他者はフィガロを存在させるために必要で、だから彼のまえで私も存在できるのだけど、そのことがどうしようもなく悲しい。革命の音楽なのに、ピアノの音しか聞こえない。革命はひとりではできないのに。

ルチル

ドビュッシー アラベスク第1番
群像劇が好きだ。すなわち、クラシックなら交響曲が好き、ジャズならビッグバンドが好き。それぞれ別々の動きをしているものたちが織りあげられてひとつの景色を描き出すようなものが好き。そんなわけで、これまでは協奏曲も、独奏曲もほとんど聴いたことがなかったのだけど、ドビュッシーの音って、真摯だ。というのを、この遊びをやってみて新しく知った。ヒースクリフもそうだけど、ルチルもまた、真摯さというのをよく実践している人だなあと思う。穏やかで優しくて、それでいて、有無をいわさぬ芯の強さがある人。守りたいもの、愛したいものをまっすぐと見据えることのできる人。

レノックス

スメタナ 連作交響詩《我が祖国》 第2曲 ヴルタヴァ
友人が以前、レノックスのことを「ずっとすこやかなんだけど、何も考えないから能天気にすこやかなのではなく、考えてすこやかな人」と評していたのにすごく納得した。同じことを、私なりに言い換えるとするなら、川みたいな人だと思う。悠々と、滔々と水をたたえ、静かに流れる大河は、いつの日もそこに在ることを疑わせない。レノックスはそういう人だ。プラハは、数年前に訪れたことがある。どこを切りとっても絵になる、美しい街だった。美しすぎて、すこし息が詰まるくらいだったのだけど、カレル橋からヴルタヴァ川を眺めたとき、水面はどこも同じだな、とずいぶん気が抜けたのを覚えている。きらびやかに飾り立てるのはいつだって人間の作り出す街並みのほうで、川はきっとずっと前からその姿を変えずにその時代ごとのひとびとの生活に寄り添ってきたのだろうな、と考えたことを思い出しながら、この曲を選んだ。

ミチル

デュカス 交響詩 《魔法使いの弟子》
どうしても本編で回収されていないミチルの不穏さを匂わせる伏線に引きずられて、あんなにも愛らしい少年にはおよそそぐわない曲選びをしてしまう。第2部でそのあたりは解き明かされるのかな。この曲は、魔力をまだうまくつかいこなせない魔法使いの弟子が師匠の見ていないところで魔法を使おうとして失敗してしまう、という内容のゲーテの詩がもとになっているそうだけど、そういうところもミチルらしい。詩の意味をわかってから聴くとシーンがおぼろげに想像できるのも楽しい。

 

こんなにいろいろ書くつもりではなかったのに、魔法使いたちに対する思いまで筆にのせていたら想像以上の分量になってしまった。七千字の短編に半月かかったわりに、一万字のこれは一日で書けてしまうのだから、自分のことがわからない。楽しかったから良いけど。

この遊びをとおして、ずっと考えていたことがあるので、それを最後に書き残して終わりにする。

クラシックは、中学の部活で初めて触れた。なんらかの部活・同好会への所属は校則で必須だったのだが、とにかく運動部は嫌というくらいで、とりたててやりたいこともなかった私は、知り合ったばかりのクラスメイトと一緒に見学に行ったオーケストラに、深く考えずに入部を決めた。その前年だかに『のだめカンタービレ』のドラマが放映されたばかりだったこともあって、入部希望者は多かった。かくして、それまでピアノを弾いたこともなければ、五線譜の読み方も知らなかった私はトロンボーンという楽器に出会うことになった。

楽器は、中高の6年間は楽器をやめないこと、というのを条件に買ってもらった。ずっとオーケストラをやっていくのだろうと思っていたけれど、結局、せっかく中学受験して入った中高一貫校でエスカレーター進学を蹴って、外の高校を受験した。中学の3年間でクラシック音楽におけるトロンボーンの出番の少なさに物足りなさをおぼえていた私は、高校ではビッグバンドジャズにのめり込んだ。その頃の話もすこしずつ振り返ることができるくらいには過去になったし、いずれまた書きたいと思うけれど、そんなわけで、この27年のなかで、私が「クラシックに触れていた」といえる期間はたったの2年半だけだ。何も知らないというに等しいけれど、でも、今でも時おり聞き返す曲のほとんどは、その頃に出会ったものだ。

学校というのは、そういう場なのだよなと思う。学生期間で学んだことのうち、学生を終えてからの生活で直接的に活用できるものの割合なんて、たかが知れている。とくに積極的な意欲もなく触れたクラシックに、十数年後の今、好きな作品と結びつけて遊ぶという楽しみ方ができることを、あの頃の私は知るよしもなかった。当時は意味を見いだせないまま出会ったものたちが、今の私を形作っていたりする。数式の美しさが救いになるひともいる。絵を描くことが、本を読むことが、化学式を知ることが、救いになる人がいる。多くの生徒には届かない何かが、たったひとりの誰かにとっては光になりうる。だから学校教育というのは、なるべく多くの人に、それぞれの救いのいとぐちを見つけられるよう手助けする場なんだと思っている(もちろん学校以外で光を見出すことだってできる。それはそのまま、学生じゃなくなった私たちが学びたいと思う理由だ)。それは、誰かを救えるはずのない私が教員という職業を選ばなかった理由でもあると同時に、その仕事にいいまだに諦めをつけきれない理由でもある。人を救いたい、だなんて大層なものじゃないけれど、でも。

魔法使いと○○シリーズ、友人とそれぞれで考えた鉱物編も楽しかったから、あれもそのうち文に残したい。