Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

四月の栄養

映像作品はfilmarks、本と漫画はブクログでそれぞれ雑多に記録を残してきたけれど、どうにも自分を分割する感覚があまり愉快ではなくて、ひとところにまとめたいという気持ちが強くなりつつあったので、思い切ってブログに残す試みをしてみようと思う。感想を書くのがとかく苦手だから、そこを練習したいというのもある。今月のごちそうたち。

仕事がとにかく慌ただしくて、日記を書く余裕すらなかったけれど、出張で移動時間が長かったりしたぶん、インプットは思ったよりもとれた気がする。これはすなわち私が生きようとしている記録そのものである。

本/漫画

中村文則『銃』

圧の強い作品だけど、没入感が強くてよかった。主人公がミソジニックなところは鼻につくものの、こういう人物設定でなければこういう物語はできないだろうなという説得力のある作品だった。ほんとうに現実に存在する人間の物語だと思わされるような、明瞭な心情描写が凄かった。好きかといわれれば好きではないけれど、愛されるために書かれた作品じゃないということは筆者もあとがきに書いていて、それが良いなと思った。

長野まゆみ『ユーモレスク』

ながらく気になっていながら手にとったことのなかった作家。淡々とした傍観者の視点で語られていく恋愛の空気感が好きだった。

円城塔『Boy's Surface』

伊藤計劃を崇拝する人間が円城塔を読まずにいていいのか?という根拠のない問いはずっとあって、その答えはいつだっていいはずがないというところに落ちていた。何度か開いてみたことはあるのだけど、ばか真面目にあの文体に向き合おうとすると消耗してしまって挫折していたのだ。これを読んでみて、ようやく楽しみ方がすこしわかった気がする。わからなさに翻弄されるくらいがいいのかもしれない。理解するためのものでも、共感するためのものでもない、こういう読者を突き放す作品が文学として存在するのはある意味救いというか解放なのかも、と思ったりした。ブクログで他の人の感想を読んでみたけど、皆必死に何かを言おうとしている感じがして面白かった(もしかしたら本当に私だけがわかっていないのかもしれない、それはそれでSF的で愉快だ)。わからないことをわからないと大の字になって言えるくらいの豪胆さが身についたことは成長だと思う。

沢木耕太郎『無名』

沢木耕太郎が自身の父を亡くす前後の日々を淡々と綴った作品。そう多くの文章を読んできたわけではないけれど、この人以上に好きな文章を書く人間をほかに知らない。この人の文章がこの世界に存在する限り、自分が文章を書く意味がないのではないかと思うほどに、何度読んでも打ちのめされる(もちろんそんなはずはないので、私が書くのをやめることはないが)。語彙も、句読点の打ち方も、語尾の結び方も、何もかもが、とにかく好きだ。酔いしれるというのではないが、この文章はこうでしかありえない、という説得力が凄まじい。私は自分の書く文章が好きではあるけれど、いつか沢木耕太郎よりも好きだといえる文章を書けるようになりたい、と思う。

 もしかしたら、私は父を畏れていたのかもしれない。畏れていたのは、もちろん体力とか暴力とかの肉体的な力ではなかった。金とか権力とかの世俗的な力でもない。父はそうしたものから最も遠いところにある人だった。私が畏れていたのは、その膨大な知識にいつか追いつくことができるのかということだった。父には、何を訊いてもわからないということがなかった。この人といつか対等にしゃべることのできる日が来るのだろうか。そう思うと絶望的になることがあった。

(略)

しかし、永遠に追いつかないと思っていた私が、気がつくと、いつの間にか父の知識の全体をある程度まで俯瞰できるようになっていた。どのようなことについての知識が厚く、どのようなところの知識が薄いか。だから、私は、自分がわからないことを電話で父に訊ねるときも、答えてもらえそうなことを選んで質問していたような気もする。そこでも私は父を守ろうとしていたのだ。

 たぶん私は父をいつまでも畏怖する対象でありつづけさせておきたかったのだろう。しかし、実際はそう思ったとき、すでに父は畏怖する対象ではなくなっていたのだ。

祖父が死んだ時のこと、顔を合わせるたびに老いを感じるようになった両親のこと、自分にも覚えのある感覚にぎりぎりと身を絞られるような気持ちで読んでいた。

太宰治『ア、秋』

沢木を読んだら、なんだかその淡々とした筆致にむしょうにさみしくなってしまって、もっと情景がまとわりついてくるものが欲しくなった。それで青空文庫で太宰治のいちばん上にあったこれを読んだ。呼吸を取り戻したような気持ちになった。

秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯ちょうちんも捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。

文章から匂いがする。太宰の書き留める景色を私が目にしたことはないのに(だって牛乳の空き瓶なんて銭湯以外で見やしない)、むせかえるような潮の匂いが鼻腔を満たす。砂に埋れる屑が鮮やかにまぶたのうらに浮かぶ。そういう文章にずっと憧れてきている。

太宰治『I can speak』

これも『ア、秋』に続けて青空文庫で読んだもの。

謂わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。

私ももっと書き続けてゆけば文学のすすむべき路が見えてくるのだろうか。書きたいという思いだけが急いて、空回りするばかりの日々だ。十二時間労働があたりまえの生活をしていたらとうぶんだめなんだろうな。生活のつぶやきを見失わないでいたい。140字に押し込めた断片ではなく。

『新編 日本のフェミニズムⅠ リブとフェミニズム』

日本のフェミニズムの興隆からの歴史を財産目録としてまとめあげる意図で刊行された全12巻のフェミニズムにまつわるアンソロジー。第1巻の『リブとフェミニズム』は、1970年代のリブ運動時代に書かれた文章が収録されている。リブの女たちの言葉の熱量にはとにかく圧倒された。

私は私でありつづけるためには、あらゆる排外主義と闘うことにしか私の未来は有り得ないことを知っている。今までの、全生活が、こう言いきるための闘争であり、これからもそうであることを知っている。私にとって入管体制とは私の日常のことであり、入管体制との闘いは、"女らしさ" との闘いである。男への同化との闘い、"女らしさ" への同化との闘い、"女らしさ" に屈服し自分を失うことの危機感に追われ続けた毎日、今もつづく毎日、自分を裏切っていくことのもつ存在感の喪失。そこに、つき落とされてはじめて、同化と闘う、入管体制と闘う私の必然性が生まれてくる。長く耐える術を知らない私にとって、革命とは待つものではない。我々女はもう待てない。男を待てないのだ。自分を取り戻すのを待てない。(「全学連第30回定期全国大会での性の差別=排外主義と戦う決意表明」より)

このほかにも、田中美津「わかってもらおうと思うは乞食の心」、深見史「産の中間総括」、金伊佐子「在日女性と解放運動」も胸に来るものがあった。この言葉たちに出会えてよかった。私が今日実践しようとするフェミニズムの源流に触れることのできる、価値ある書籍だったと思う。

シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』

先月読んだ鷲田清一『だれのための仕事』に出てきて、これは読まねばいけないなと思っていた矢先、図書館に行ったらちょうど目が合った本。人間を生産性という記号ではかり、人格を忘却するマルクス理論への批判に根ざして、個々の労働者と労働に真摯に向き合う記録は、淡々としていながらものすごい生々しさを伴っていた。

あまりに疲れはて、自分が工場にいるほんとうの理由を忘れてしまい、こうした生がもたらす最大の誘惑に、もはやなにも考えないという誘惑に、ほとんど抗えなくなる。それだけが苦しまずにすむ、たったひとつの手立てなのだ。かろうじて土曜の午後と日曜に、記憶や思考の切れ端がもどってきて、このわたしもまた、考える存在だったのだと思いだす。自分がいかに外的状況に左右されるかを思い知るとき、戦慄を禁じえない。

ちょうど感染拡大防止のために午後八時以降は消灯などという支離滅裂極まりない政策(とよぶのも馬鹿馬鹿しい)が出たり、この土地に生きるひとびとの生活よりもオリンピックを優先しようとするような現実の見えていない馬鹿どもが為政の場で闊歩していたり、とにかく政治と社会にキレ散らかしたい案件が毎日どんどん積み重なるクソみたいな国に、私は生きている。そしてそれらに対してじゅうぶんに怒りを発露できない自分に失望と無力感をおぼえるとき、科学的根拠も合理性もない悪夢のような政策が次々に打ち出される社会になったのは、労働者が言葉を持つことを学ばなかった(学ぶ機会を与えられなかった)/忘れたからではないか、と思う。プロレタリア革命に懐疑的だった孤高の左翼たるヴェイユもまた、今の私とそう遠くない感覚を持っていたのではないか。時代を超えても、工場がオフィスに変わっても、労働者の感じることや置かれる立場なんてそうかわらないのだということがよくわかってうんざりしてしまった。

バスに乗ろうとしたとき、奇妙な感慨をおぼえた。なぜわたしが、奴隷であるこのわたしがこのバスに乗れるのか。ほかの人とおなじように12スーでバスを利用できるのか。とてつもない恩恵ではないか!こんな便利な交通手段はおまえにはもったいない、おまえなんか歩けばよいといわれて、荒々しくバスから引きずりおろされても、いたって当然だと思える。隷属状態にあるせいで、自分にも権利があるのだという感覚をすっかり失ってしまった。人からいっさい荒っぽい扱いをうけずにすむ瞬間は、まるで望外の恩恵と思える。

一方で、工場就労を通して「死ぬまで消えない奴隷の刻印」を背負いながらも、よりよくあるためにどうするかという思考をやめなかったヴェイユに、絶望ばかりしてもいられないと身の引き締まる思いも覚えた。隷属状態に身を置くことで思考が奪われている、そういう実感をともにする人がいるのだという救いと、尊厳を守りぬく戦いを、ともにする人がかつていたのだというよろこびを、この本に見た。ヴェイユの経験した肉体労働と、いわゆる知能労働に従事する私とでは経験していることはまるきり同じではないけれど、それでも、これを読めたのは良かったと思う。若くから卓越した哲学者であったヴェイユにとって、工場での就労は自身の思考を証明するための実地試験だったということらしいので、この工場日記の礎となった彼女の思想をもっと読みたいと思った。ともあれ、資本主義なんておファックですわ。

和山やま『カラオケ行こ!』『女の園の星』

いずれもDMMの70%オフクーポンにて。『カラオケ行こ!』、すごく良かった。すごく、良かった。あれこれ言葉にするほうが野暮な気がするので、ここに留める。『女の園の星』のほうは、涙が出るほどひいひい笑いながら読んだ。教員に変なあだなをつけるのは女子校あるある。私は女子校があまり好きになれず中高一貫を途中で出て共学の高校に進学したが、こうして十数年前のこととして振り返るとそう悪いものでもなかった気がしてくるから記憶というのは勝手なものだ。

はらだ『ハッピークソライフ』『やじるし』

これもDMMの70%オフクーポンで買った。商業BLをあまり積極的に読んでこなかった私が、唯一作家買いする人。『ハッピークソライフ』ははらだ作品にしてはコメディに振り切った作品だった。『やじるし』の方はあいかわらずのはらだ節。この人の作品は人におすすめすることはできないし、読みたいと思う自分の欲については常に自省的であらねばならないと思うけれど、一定の支持を受けるだけの理由がある人だというのも確かだ、といつも思わされる。

林田球『ドロヘドロ』

信頼する友人の愛する作品ならば読まない理由はない、とDMMセールで真っ先にカートに全巻放り込んだのがこれ。途中で自分が何を読んでいるのかわからなくなって、ドロヘドロって検索窓に打ち込んでみたら、ダークファンタジーとかスプラッターホラーとか説明されていて、言われてみればたしかにそうだと納得する一方で、読んで受けていた印象とはいまひとつそぐわなかったのでなんだかびっくりしてしまった。今のところ、カイマンとニカイドウのほんわかした友愛の物語として読んでいる。男と女というだけで軽率に異性愛に回収されない物語はありがたい。大葉餃子が食べたい。アニメも良いと元恋人が言っていたので、原作を読んだら見る。楽しみだ。

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』

数年前、まだ商業BLをほとんど読んだことがなかった頃に誰かに勧めてもらったものの、読む機会を逸していた作品。すさまじく良かった。出てくる人間ひとりひとりがそれぞれもがいていて泥臭いのがたまらない。ちょうど数日前にメイン性癖を熟語で表す遊びというのが話題になっていて、私は「不理解・諦念・惰性」を挙げたところだったのだけど、まさにあちこちにそれらが散りばめられた作品で、とにかく最高だった。

 

アニメ

約束のネバーランド(2期)

ときどき台詞が説明的すぎるように感じることがあるのと、人物の心情描写に物足りなさをおぼえることから、心酔するとまではいかないのだけど、それでも観るのをやめないのは絵がきれいだから。ふだんあまり自覚的であるわけではないのだけど、こういうとき自分が耽美主義の色が濃い人間であることを知る。物語の展開はおもしろいけれど、私の中でそこの優先順位ってそこまで高くないみたいだ。EDの作画はどことなくアール・ヌーヴォーの気配を感じてとても好きな空気感。呪術廻戦、チェンソーマン、鬼滅の刃にならんでここでも人外vs人間の構図だけれど、人間の方が悪に反転する描写があるところが良かった。善悪なんて恣意的だ。

ワールドトリガー (2期)

OPのTXTの曲がすごくいい。登場人物の関係性とかぐちゃぐちゃした心理を描き出す物語に惹かれるたちなので、こういう、どちらかといえば淡々とした作品に魅せられることはけっこう珍しいのだけど、理屈の精密さと、地に足のついた人物設定がいい。ひとつひとつの動きにきちんと動機があって、すごく緻密に話が練られているから、観ていて引っかからないというか、「なんでそうなった?」みたいなストレスがすくない作品。ただしどの台詞にも動きにも意味がある分、生半可に目を離すと一瞬で置いていかれる。オペレーターが全員女性なことだけが納得がいかない(並行処理が女性のほうが得意だから、ということらしいけれど、統計的な性差がないとは言えないにしても、個人差を考慮して男性が数人いたっていいのでは、と思ってしまう)けれど、実戦ではない、仮想空間での演習に過ぎないB級ランク戦をあそこまで面白くできるということに、なんだかこれまで知らなかった物語の在り方を学んだ気がする。3期も楽しみ。原作もきちんと読もうと思って買った。

Free!

もう何周目かわからないけど、ときどき戻ってきたくなってはつまみ食いのようにところどころ見返している。私のたましいの輝きを取り戻す戦いのために、いつだって背中を押してくれる作品。凛の真摯さに背筋が伸びるし、遙の瞳に宿る光の強さに奮い立つし、真琴の柔らかさに優しさをもらうし、渚の天真爛漫さに気持ちが洗われるし、怜の実直さに引き締まる。歩いていられないと思った時に立ち返る、透き通った作品。私は日頃さまざまな律法を自分に課していて、そうして自分の輪郭が定まることに安心しているけれど、この世界の彼らが、それぞれ何かから自由になってゆく姿を見ていると、生きることが輪郭を狭めていくことであってはならないな、と思う。劇場版もとうとう公開日が告知されて、九月まで生き延びる理由がひとつ増えた。

呪術廻戦

最初の頃は毎週リアタイ視聴するくらいに楽しみにしていたのだけど、あの異性装を揶揄した最悪なじゅじゅさんぽで熱ががくんと落ち着いてしまったのが悲しかった。あと1クールのOPEDがすっごく好きだったのが大きくて、それが終わってしまって気持ちが遠のいたのもある。やっぱり最初の方で五条悟に入れ込みすぎたのがいけなかったのかなあ、にしても本編ですらないところで傷つけられるとは思わなくて、未だにそのショックをひきずっている。それでも原作を読むとやっぱり好きだと思うし、引き込まれるし、完結までは見守り続けたいと思う気持ちがあるのもほんとうだから、そこにはまだ素直でいたい。この作品にはたくさん救われているのだ。悠仁、伏黒、野薔薇の対等な関係がとても好き。女性が "少年漫画" の中で欲望の対象として客体化されないことのすばらしさ。守る側と守られる側ではなく、互いの背を預けて戦う間柄であること。最終話、すっごく胸が熱くなった。野薔薇や真希さんが「女性らしい」振る舞いをしない人々であること、伏黒の名前が恵という一般的には女性に割り当てられることの多いものであること、男女ともに睫毛が描かれること(長い睫毛は有徴化される女性の記号として扱われることが多いから)、そういう些細なところからすこしずつ男性性と女性性の境界線を撹乱することにはぜったいに意味があると思うから、この作品にまだ希望を見るのだ。

SK∞

今月だけで三周観た。私がボーイズラブを愛好する立場ゆえにそういう読みをしがちなことは否定しないけれど、ランガと暦のあいだに滲む、友愛という言葉だけではこぼれおちてしまうやわらかな愛情が丁寧に掬いあげられた作品だった。ブルーノ・マーズを彷彿とさせるOP曲が大好き。荒唐無稽に振り切った迫力満点のスケートシーンも良かったけれど、何よりも台詞のないシーンが印象的な作品だったなあと思う。二話の後半でランガがスケートにぐんと魅せられていくところとか、六話の宮古島のビーチではしゃぐシーンとか。カナダ時代と、現在を対比させるような表現は随所に出てくるけれど、そういうところから、カナダにいた頃のランガの世界は閉じたものだったんだろうというのがわかる。死んだ父親とスノボと雪で構成されていた世界。父親が死んだことも、雪が消えるものであることも、スノボは雪がないとできないことも、ぜんぶ有限の描写だ。だからこそ、タイトルの通りスケートの無限さがひときわランガにとって輝いて映るのだろう。経験こそ長いけれど、なんとなく、ランガはスノボのことをそこまで好きじゃなかったんじゃないかという気がする。楽しさを何よりも大事にする暦に出会って、ランガは楽しいことの楽しみ方をちゃんとわかるようになったんじゃないだろうか。限りのある世界からランガを連れ出したのが暦だったのだ。無限というのは、続きが、未来があるということで、すなわち、暦に出会ってランガは生きることをはじめたと言ってもいい。ところで、スケートシーンの荒唐無稽さといえば、観ているときの無秩序な楽しさは血界戦線に通じるものがあると思っていたのだけど、そういえば血界戦線も制作がボンズだったのでした。納得。

少女★歌劇 レヴュースタァライト

昨年末だったか、知人に熱烈に勧められた作品。ずっと観ようと思いつつ、同性の人物が主体の物語があまり得意ではないので(この理由を私はちゃんと考えなくてはいけない)二の足を踏んでいた、の、だけど。舞台を愛する人間の必修科目だ、というのは、観てみてよくわかった。私は舞台に立つ側ではなく、享受する側であり続けてきたから、どうしても舞台の中の世界は、舞台が終わったら消えるものとして観ている。その刹那の世界を味わいたくて劇場に足を運ぶのだし。でも、演じる人はその世界が終わっても存在し続けるし、舞台は有限ではなくて現実と接続した世界なのだということに焦点を当てた作品だったのかなと思った。現実と舞台の二層構造、そこを行き来する彼女たち。劇中にしか存在しない架空の、別個の人格の生産ではなくて、彼女たちの再生産の物語。きらめきは再生産できるってめちゃくちゃ希望だなと思った。舞台に立つたびに、舞台を見に行くたびに、きらめきは生まれるうるということ、この作品のすべてが私たちが舞台を愛する理由だ。劇中歌がとても良いのと、多用される左右対称の構図が気持ちのいい作品でした。この作品を(というか古川知宏監督を)語るにあたって必ず引き合いに出される幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』をちゃんと観てからもういちど戻ってきたい。

BLACK LAGOON

祈れ。生きているあいだにおまえができるのはそれだけだ。

これは先月観たものだけど、残しておきたかった。出てくる女がことごとく強いのが最高。レヴィに恋をせずにいられるはずがなかった。いのちの軽さをこれでもかと見せつけてくる重たい作品だけど、こういう作品でしか癒せない喉の乾きがあるのは確かだ。ちょっと気障な台詞回しもいい。今まで目にしてきたどんな直接的な性描写よりも、相互不理解の果てにあるレヴィとロックのシガーキスがいちばん官能的だと思った。ロックはレヴィの希望だったのに、希望であることを演じきれずにあっち側に行ってしまったことが悲しくて見終わってからしばらく落ち込んだけれど、でも何度考えたってああなるしかなかったのだろうなと思う。ロックはずっと「おまえはこっち側の人間じゃない」と一線を引かれ続けてきたし、実際彼の言葉は徹底的に空虚だ。どんなに彼が本心を言葉に込めても、あの世界ではどこか浮いて白々しく聞こえてしまう(それでも私が共感するのはやっぱりロックのほうで、だからこの作品を観ている時は居心地がわるい。たぶんロックが感じる居心地の悪さと同じ)。それを特に感じたのは双子編の最後で「世界は本当は君を幸せにするためにあるんだよ。いいかい、血と闇なんか世界のほんの欠片でしかないんだ!全てなんかじゃないんだ!」と叫ぶ場面で、あまりに深い断絶に言葉が出なかった。希望を持てること自体が特権的なんだなと思うし、たぶんロックはそういう自分をゆるせなかったんだろう。だからどっちつかずの夕暮れから夜に一歩踏み入れることを選んだ。しばらく耳の奥から銃声が消えなかった。片渕須直監督って聞き覚えがあると思ったら『この世界の片隅に』の人だった。あれは全然好きではなかったのだけど、これはこの先も絶対にまたどこかで喉が乾いたら戻ってきてしまう作品だな。

COWBOY BEBOP

BLACK LAGOONを観たら、同じくハードボイルドなアニメとして引き合いに出されることの多いこちらも観ないわけにはいかないだろうということで。というか、高校生だった十年前から私の人生の必修課題だった作品だ、この期に及んで観ていなかったことのほうがおかしいくらい。なにせ、シートベルツの曲には部活時代にさんざんお世話になったのだ。Tank!も、BAD DOG NO BUSICUITSもTOO GOOD TOO BADも演奏した。そうしてようやく十年越しに出会ったこの作品は、なんというか、ど真ん中に最高だった。まずオープニングを一生見ていられる。音楽がべらぼうに良い。地球ではない惑星の物語なのに、掻き立てられる郷愁に胸がじくじくとする。どうしてもっと早く観ておかなかったんだろう、と思う反面、これを最高だと思える感覚が十年前の自分にあったかどうか自信はないので、やはり作品との出会いには時期が重要だな、とも思った。なんだかこれを書きながら、見終わってしまったら、カウボーイ・ビバップをまだ見ていない自分には戻れないのだということにふと思い当たって、突然見終わるのが嫌になってしまった。それでもやっぱり、観てしまうんだな、だっておもしろいから。心が静かに凪いだときに全身で楽しみたい作品なので、ゆっくりゆっくり見進める。

ACCA

二年ぶりに再会した大事な友人にすすめられた作品。OPの曲でぐっと心をつかまれ、二話のジーンがニーノに対して「あれ、おまえ俺以外に友達いる?」とからかう場面で射止められてしまった。それに対して「つるんでる時間がないんだよなあ。余暇はバイクを走らせたいし、あとはおまえとの飲みだろ?」って平然と返すニーノもニーノだ。王国内の13の自治区を視察でまわる、やわらかな色合いの淡々とした旅作品かと思いながら見ていたら、すこしずつ不穏な様相が滲んでいく。冒頭の「俺以外に友達いる?」という伏線が思いがけない方向に回収されて、そのあとしばらくはずっとニーノのことばかり考えて心を乱されていた。抜群の色彩感。モーヴ本部長が知的でめちゃくちゃセクシーで素敵。衝撃で息もできない、というような引き込まれ方をする作品ではないけれど、質量のある人間関係が軽やかに描かれているバランス感が好きだった。

 

観劇

アラジン

先月に引き続き、今月頭に二度目を観に行った。来月にも一度、七月にさらに一度行く予定を入れている。手放しで評価できる作品ではない。ミソジニックでホモフォビックな脚本に文句をつけることをやめることはない(せっかくこんなにもフェミニズムが息づくエンパワメント作品なのに、それを台無しにしていて本当にもったいない)けれど、それと作品を心から愛することは両立するから。たぶん千秋楽を迎えるまで、何度も観に行くことになるんだろう。血が沸く、というのはああいう作品のためにある言葉だ。アラジンとジャスミンが市場で出会って、追手から逃げおおせたあとに歌う、『行こうよ どこまでも』という、ふたりの距離がぐっと近づく曲がほんとうに大好きで大好きで、家で歌いながらいつも感極まって声が詰まってしまう。ありのままでいることを否定され続けて、ジャスミン自身が懐疑的になっている彼女の可能性を疑わず、馬鹿にもせず、「自由に飛び立ってみたいなら、そうしない?」と空想の世界に連れ出すアラジンのなんと格好いいことか。それに後押しされて「船の旅はどう?」って空想を広げるジャスミンに、アラジンが「君が舵を取るんだ」って軽々とついていくところも好きだ。ジャスミンの言葉に、想いに、きちんと耳を傾けたやりとりだと思う。アラジンのすごいところは、これを空想で終わらせないところだ。ただ囚われのお姫様の慰みに夢を見せるだけじゃなく、その願いを叶える選択をする。市場で追手から逃げるときに彼が口にした「僕を信じて」という言葉はあまり根拠のあるものではなく軽薄に聞こえるし、ジーニーの力を借りて宮殿で再会したときにも言葉選びを誤って、一度はジャスミンに愛想を尽かされている。それでも魔法のじゅうたんにジャスミンを乗せて旅に連れ出すときに、もう一度「僕を信じて」と言うことで、アラジンは「僕はきみに信じてもらえるための努力を惜しまない」という姿勢を示しているのだ。そこには、対話を諦めない誠実さがある。「なぜだかわからないけど、信じるわ!」とそこに飛び込むジャスミンの豪胆さもまぶしい。信頼というのは、信じてもらおうとする選択と、信じようとする選択のうえに成り立つんだな、とふたりを見ていると思う。しょせん運命の相手を見つけるにすぎないとロマンティック・ラブ・イデオロギーの文脈に回収してしまうには惜しい物語だ。

キャッツ

三度目の緊急事態宣言発令の前日、二十四日に観に行った。学生時代にいちど、ミュージカルサークルの公演で観たきりで、物語についての知識はかなりおぼろげな状態で臨んだら、ラム・タム・タガーという猫にすっかり魅せられてしまった。この日ラム・タム・タガーを演じていたのは上川一哉さんで、別の日に観に行った友人が「上川さんが良かった!」と言っていたので楽しみにしていたのだが、登場まもなく、舌をぺろりと出してみせるあざとさに、なるほどあっという間に心を持っていかれた。彼のような猫と暮らせたらどんなにか楽しいことだろう。それからミストフェリーズ役の押田柊さんのダンスが圧巻だった。美しいターン、息をのむような軽やかな跳躍(ワイヤーでもついているのかと思うほどの滞空時間だった)、そして音のしない着地。素人目にもバレエの経験の豊富な人なんだろうというのはすぐにわかった。あとから94年生まれだと知って仰天した。卓越した技術を持つことは年齢にかかわらず尊敬に値することだけど、自分と同じだけの時間を生きてきた人が、自分と交わることのない世界で輝いている姿を見るとどきどきする。幾つの分岐を違えてお互いが今いる場所に立つのだろう、と考えるときの果てしなさに浸る感覚はきらいではない。

ところで、作品自体はとっても楽しんだのだけど、この日の観劇には苦い気持ちも残った。私は作品の内容にかかわらず、熱量の込められたパフォーマンスを肌で感じると涙腺がゆるむ体質だから、序盤の『ジェリクルソング』からぐずぐずと鼻をすすっていた。その涙に誘発される形で、だんだん自分の中で感情の収拾がつかなくなった。政治が無策だったばかりに、この素晴らしい舞台が明日からまた上演できなくなってしまうことを思ったら悔しくてやりきれなくて、涙が止まらなくなってしまった。そのあと舞台のうえの世界に引き込まれて一度は落ち着いたけれど、幕間でまたその想いがこみ上げてきて、休憩時間はほとんどずっと、ぼろぼろ泣きながら悔しさをツイッターにたたきつけていた。両隣の親子連れとカップルは、ひとりで幕間に号泣する女にさぞ面食らったことだろう。為政の場にいる人間が、こんなにも愚かで悪意のあるクソバカどもじゃなければ、この人らは、仕事の場を奪われることもなかったのに。私の、この気持ちをいろどる輝きを、たましいが震えるような喜びを奪われることもなかったのに。この舞台のうえで軽やかに舞う人びと、この舞台を創り上げる人びとすべての生活が蔑ろにされて踏みにじられていることに、視界がくらむほどの怒りをおぼえた。レヴュースタァライトのところで「きらめきが再生産できるって希望だ」と書いたけれど、ならば舞台が上演できない今の世界は、そのきらめきの生まれる場所を奪っていることにほかならない。私が観に行けるかどうかとかじゃなくて、世界に存在する希望の総量がその分だけ減るのだ。どうか、彼らがこの人災を(だってそうだろう)乗り切ってくれることを祈る。気持ちを折られないでいてほしい、なんていうのはいち観客の傲慢な願いだけど、推し俳優にまた手紙を書こうと思って、友人と行った文具屋で新しい便箋を買った。行けるかどうかも定かではないけれど、宣言明けの14日、15日にもそれぞれチケットをとった。チケットをとることはほとんど祈りに近い。

 

自分が何を感じたかを記録するというのは、考えるよりもずっと難しいことだ。日常の出来事についてのことなら、それは私だけが経験していることだから、何を書いたっていいと思える。だけど、ほかの誰かも読んだり観たりしている既存作品について言葉を見つけようとするとき、どうしても正解を探してしまう自分がいる。こう感じるのが正しいのではないか、という思考に引っ張られないように気をつけながら自分の心の動きを見きわめるということは、訓練していないとできるようなことではない。私はもうおとなだから、表彰されるための読書感想文なんかもう書かなくたっていいのだ。だから自分の感情の動きをとらえる練習というのをしてゆくぞ、と今は思っている。

ハイ・アドベンチャー

幸せな日曜日について話そう。前の日の嵐が嘘のような、抜けるような青空だった。起きだしたのは十時すぎ。干しっぱなしの洗濯物を畳み、皿を洗い、水回りを磨いて、掃除機をかけた。家を出たのは正午すこし前だったと思う。時間には余裕があると思っていたのに、服がなかなか決まらなかったせいでけっきょくばたばたした。髪の内側にピンクを入れたので、色の合う服を選ぶのに困るようになったのだ。クローゼットとにらめっこしながら、けっきょく濃い緑のタートルネックに、白のワイドパンツという格好にした。緑とピンクの組み合わせが案外悪くないというのは発見だった。先月大奮発して購入した日長石のリングと、母のお下がりのリングを着けて、せっかくの髪の明るい部分が目立つようにハーフアップにした。アイシャドウも髪に合わせてスモーキーグレーの上にピンクを重ねた。ひさしぶりにちゃんとめかしこんだ自分の姿がなかなか良くて、嬉しくて鏡の前でちょっとにやにやしてしまった。

すこし気合の入った服装をしたのは、行き先が劇場だったからだ。こどもの頃、年に一度くらいこういう公演に連れて行ってもらうときがあって、そういうときにはきまってよそゆきの服を着せられていた。だから、それから二十年以上が経って、好きな時に好きなものが観られるようになっても、劇場という場所は私にとって特別なところなのだ。ふだんよりすこし良い服を着て、背筋を伸ばした自分が行く場所。公演というのは、非日常であり特別であり、そうしてもたらされる特別に見合う自分でいたいような気がするんだと思う。家に帰るまでが遠足というフレーズがあるけれど、公演を観るという行為も、上演時間だけじゃなくて、起きた瞬間からはじまっているものだよなあと思う。

行けなくなってしまった友人にチケットを譲ってもらって、汐留の電通四季劇場で、開幕六年目?のロングラン公演『アラジン』を観た。このあたりは仕事で一時期頻繁に通っていたので、休日に訪れるのはなんだか夜中に学校に忍び込んでいるみたいなわくわくがあった(学校に忍び込んだことはないけれど)。劇団四季の公演は、去年好きだった女の子と一緒に観た『ライオンキング』以来二度目だ。

もう最高に楽しかった。純度の高いエンターテイメントを浴びた時の人間が味わう幸福がこんなにも強烈だったこと、忘れていた。私がこういうエンターテイメントに心惹かれるのは、この数時間を作り上げるために裏で心血を注ぐひとびとの熱量を、作品を介して受け取れるからである。凄まじい熱量に殴られることは麻薬的な快感をともなう。演劇にかかわったのは、大学時代の最後の方の、ほんのすこしの期間だけれど、あの期間があってほんとうに良かったと思う。物語だけではなく、舞台装置や大道具、小道具、衣装、照明、音響、演出、そのひとつひとつの技術について私は無知だけれど、すくなくともあらゆるプロフェッショナルが集って作り上げる作品という視点で公演をとらえることを学べて良かった。実に凄まじかった。豪華絢爛な衣装の数々にも、壮大な優美なセットにも、照明も、何もかもに圧倒されっぱなしだった。ずっとわくわくしていた。小道具は1000点以上、衣装は300着といずれも四季の演目史上最多であることをあとから知って、納得した。学生演劇はどうしたって予算に大きな制約を受ける。あの頃の私たちが泣く泣く諦めたことを、飽かずに徹底的に追い求めたらこうなるのか、というじりじりとした憧憬もあいまって、ずっと胸におおきな感情の塊が詰まっていた。

ふたつ、この公演について絶対に書いておきたいことがある。

とっても楽しかったし、大好きになったからこそ、手放しで何もかも良かったと言えるわけではない、ということを強調しておきたい。王位を狙っていて、そのために願いを叶える魔法のランプを手に入れようとしているジャファーが、ランプのある洞窟に入れるのがアラジンだと知って彼を探しだした時に「おまえのことをずっと探していたんだ」みたいなことを言うシーンで、ジャファーの家来のイアーゴが「変な意味じゃないよ!」と茶々を入れる台詞があった。話の流れからしたら明らかに不要な、笑いをとるためだけに挿入された台詞だ。「変な意味」というのが「男が男を好きになる」ことを意味している以上、それを笑いどころとして扱った脚本は残念に思った。「男が男を恋愛の文脈で見る」ことは「変な」ことなんかではないし、そういうの、ぜんぜん面白くない。観客がそれに笑ってるのも最悪だったけれど、何よりもしんどかったのは、小さなこどもの笑い声がその中に混じっていたことだ。姿は見ていないけれど、声の印象だけでいうと小学校低学年か、もしかしたら未就学児くらいかもしれない。そのくらいの年齢でもあれを笑いどころだと思える価値観が醸成されていることに、ホモフォビアはこうやって再生産されていくんだなというのを実感させられて落ち込んでしまった。一緒にいた友人はすでにこの公演を六回ほど見ている人で、開演前に「たぶん二、三回はアウトなシーンがあると思う」と予告されていたけれど、終演後すぐに、どちらからともなく「あのシーンでこどもが笑ってたのきつかったよね」という話になった(友人が友人たる理由である)。これ以外にもイアーゴの台詞にはきつめのミソジニーが匂っていて、何度かすっと真顔になってしまった。もったいないなあ、と思う。真摯に創られた作品だというのはよく伝わってきたから、そういうところでケチがついてしまうのは悲しい。誰かを傷つけたり踏みつけたり馬鹿にしたりせずに人を笑わせる方法はかならずあるはずだと思いたいし、私はそういうものが見たい。エンターテイメントってそういうものであってほしい。

もうひとつは、新しい推しを見つけてしまった話。アラジンの友人のズッコケ三人組のひとり、カシームを演じる田中宣宗さんである。かなり序盤から、舞台上に彼がいるときは、視線が自然とそちらに引き寄せられていた。何がそんなに自分に刺さったのかよくわからずにいるのだけど、彼がいなければ、私は終演後すぐに四季の会に入って来月のチケットをとったりはしていなかったと思う。なんだかよくわからない熱に駆られたまま、月曜は仕事の合間にファンレターを書いて、そのまま郵便局に切手を買いに行って投函したりしていた。特定の誰かを推すという行為を生活の中心において五年近くが経って、いろんな人を推してきたけれど、ファンレターを書いたことは一度もない。ジノには何度か書こうと思ったことがあるけれど、自分が流暢に使えない言語で書いて伝えたいことを取りこぼすのも、相手に不自由な言語で書くことも、自分に気づいてほしいというファンの肥大化した自意識に飲まれて手紙を送る愚かさも嫌だったから、けっきょく実行に移したことがなかった。ずっと自分の中で幸福を味わって浸って満足していた。だから、自分でも驚いている。こんなふうに、あなたの舞台を見て楽しくて嬉しくで幸福だったよ、というのを伝えたくなる気持ちって、あんまりなかった気がする。何が自分をそうさせたのだろう、と思うから、早くまた観に行きたい。次は4月3日だ。その日のカシームのキャストが田中さんかどうかはわからないけれど、そうだったらいいなあと思う(でも、あの舞台をもう一度観られるだけでもとても楽しみ)。こうやって勢いよく坂を転がり落ちてのめり込んでいく瞬間がいちばん楽しいかもしれない。友人には「目の前で沼落ちしていく人間、おもしろかった」と愉快がられた。

この三、四年はアイドルのコンサートばかりだったけれど、今年に入って幾つか舞台を観て、久しぶりにこちらの楽しさも思い出したので、今年はもっといろいろ観たい。チケットを譲ってくれた友人も、この日一緒に観に行った友人も、学生時代一緒に演劇をやっていた間柄だ。今年の年明けには三人で宝塚を観に行った。ひとりは東宝や四季、もうひとりが宝塚と、ジャンルの異なるオタクでもあるので、いろいろ連れて行ってくれるように頼んでいる。終演後にふたりと飲む酒が楽しいというのもある。来月にもまた三人で観劇して酒を飲む会をやろうと話している。

魔法使いと音楽

年明けから『魔法使いの約束』(まほやく)というゲームをはじめた。信頼する友人が心臓をがっちりとつかまれている様子をツイッターで見ていて、自分もやりたくなったのだ。『IDOLiSH7』にしてもそうだけど、大事にしたいものとゆるせないものの基準が似通うひとびとが心酔しているコンテンツは安心して飛び込むこともできるし、高い確率でたましいに刺さる。そうやって出会わせてもらった作品がたくさんある。それでいて、彼らと推しが重なることはめったにないから、おもしろいなと思う。人がなにかに惹かれるとき、惹かれるという行為にもたましいが宿るのかもしれない。誰かを、何かを好きになることの代替不可能性。

昨年の後半に熱を上げていたハイキュー!!やFree!も、二次創作の断片をぽろぽろと生み出してはいたのだが、昨日、ほんとうに数年ぶりに、短編をひとつ完成させた。終わらせることがひとつの才能である、というのは同人の世界ではよく言われることだけど、私はほんとうにその才能がない。創作に限った話ではなくて、仕事でもそうだ。とにかく完璧を求めてしまうのがいけない。その短編にしても、たかだか七千字を書くのに二週間以上かかっている。もっとも、そのうちの一週間以上は行き詰まって進捗も何もあったものではなかった。九割がた書けたかな、というところで何を書き足してもしっくりと来なくなってしまい、ああまたこれも終わらせられないのか、と半ばあきらめていたものだから、昨夜、何かのつかえが外れたように最後の数百文字がさらさらと書けたときには、思わず自分は夢を見ているのかと疑ってしまった。書けた。書けた!!!

さておき、そのまるで書けなかった一週間のあいだに、魔法使いたちと音楽のことを考えていた。それがものすごく楽しかったので、書き残しておくことにした。後述するけれど、私自身はクラシック音楽に造詣が深いとは言い難い。中学の部活ですこしかじったくらい。音楽の教科書に取り上げられるような有名どころばかりだし、曲について書いてあることのほとんどは、インターネットで聞きかじった知識にすぎない。その道の人が見たら鼻で笑い飛ばされてしまうような稚拙なものかもしれないけれど、それでも、好きだから、言葉に残しておきたい。これは私のための戦いのひとつ。

すっかり楽しくなってしまったので、Apple Musicでプレイリストも作ったりして、ここ数日はずっと聴いている。楽しくてたまらない。オーケストラや指揮者によっても曲の表情は変わると聞くので、ゆくゆくは好きな演奏を見つけられたらいい。

music.apple.com

中央の国

オズ

ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 第1楽章
ブラームスの第1は、第4楽章が一番好き。初めて聴いた中学生のときは「なんだこの長くてつまんねえ曲は」と思った記憶があるのだけど、いつのまにかドヴォルザークの『新世界より』とならんで好きな交響曲のひとつになっている。ブラームスの第1は、広いな、と感じる。海みたい。スケールの大きな自然の造形を前に神の存在を思わず感じてしまうような、ああいう感覚を聴いているとおぼえる。でも、第4楽章は、オズにはちょっと穏やかすぎるかなと思って、もうすこし理不尽さを求めたら、第1楽章に落ち着いた。雄大で強大で、理不尽で、不穏で、そびえたつ姿におもわず畏怖の念が湧いてしまうような印象が、世界最強の魔法使いの雰囲気にはふさわしいように思った。荒々しさを求めるときはまずアレグロをあたれ。オズとアーサーの愛に満ちた穏やかな日々として第4楽章を聴くのも味わいがあって好きだけれど。

アーサー

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92 第1楽章
弱冠十代の彼が背負うものは、あまりに大きすぎやしないかと心配ばかりしているけれど、こういう華やかで明るい曲を彼に結びつけてしまうような悪意のない期待こそが、背負わせている側なんだろうか、と選んでからはたと気が付いた。それでも、彼のしなやかな強靭さは、虚勢じゃない。オズへの信頼に裏打ちされた、地に足のついたものだ。愛とは双方向性の中でしか築きえないもので、アーサーはそれをよく知ったうえで、オズの愛を疑わない。それができることが強さだ。王子としての役割を理解し、それでいて傀儡にならない利発さを兼ね備え、君主としての器を存分に開花させる聡明な君に幸あれ。これは祝福の音楽だと思うから。

カイン

メンデルスゾーン 劇音楽《真夏の夜の夢》作品61 第9番 結婚行進曲
実は、はじめアーサーと同じベートーヴェンの第7番の第4楽章を選ぼうか迷った。華やかさはカインに合っているし、中央の主従をそこでつなげるのもありだと思ったから。それと、この交響曲というのはワーグナーに「舞踏の聖化」と言わしめた(これは褒め言葉らしい)ほどにリズム感の強い楽曲で、年に百回は踊るという踊り好きの男にはぴったりじゃないか、と思っていたのもある。それでも、この結婚式の定番曲を、ひとたびカインだ!と思ってしまったら、もうこれしか考えられなくなってしまった。華やかなファンファーレから幕を開ける、底抜けの明るさ。気圧されてしまうくらいの、まじりけのない、まばゆさ。ともすれば息が止まりそうなほどの、心臓のど真ん中を撃ち抜いてくる直球の甘やかさ。それがカイン・ナイトレイという魔法使いではないか。

リケ

チャイコフスキー バレエ音楽《くるみ割り人形》 第12曲 ディヴェルティスマン 1. チョコレート
賢者の魔法使いに選ばれるという出来事は、リケの少年性に強制的に終止符を打つようなものだ。教えられるもの、与えられるものを享受していればよかった時代の終焉は、夢の終わりと似ている。目が覚めれば、自分で思考し、自分で選択し、正義を懐疑することを迫られる。典型的な夢オチ、とくくってしまうにはあまりに魅力的な物語だけど、だからくるみ割り人形を選んだ。このバレエ音楽の曲はほんとうにどれも可愛らしいので、どれにするかでかなり迷ったのだけど、イベント料理でチョコレートを渡したら「僕を誘惑しないでください」と葛藤するリケが記憶に新しくて、これに落ち着いた。リケはまだ危ういなと感じることも多いけれど、自分がこれまで信じてきた正しさ以外の正しさが世界には存在する、ということはちゃんとわかっていて、その怖さときちんと向き合おうとする逞しさもあるので、この先どんな聡明な人になってゆくのだろうと楽しみに思う。と同時に、なんだかこちらまで背筋がのびる気がする。

北の国

スノウ

ベートーヴェン 交響曲第5番《運命》 ハ短調 作品67 第1楽章
この交響曲が語られるとき、避けては通れないのが第1楽章から第4楽章までかけての物語性だ。絶望から希望、暗から明、苦悩から歓喜。「運命動機」とよばれるジャジャジャジャーンのフレーズを、ベートーヴェン自身は「運命が扉を叩く音」と形容したそうだ。望んでもいないのに突然踏み込んできた運命のせいで自分の半身を殺めてしまったスノウのこれからにおいて、第4楽章は訪れるのだろうか。希望めいたものはあるかもしれないけれど、希望が存在することはあるんだろうか。激情と不条理。愛憎、という称号は、この双子にこそふさわしいのでは、とたまに思う。スノウの音楽だと思って第1楽章を聴いてから第4楽章まで聴くと、ものすごく虚無感に襲われる。襲われている。

ホワイト

ショパン 即興曲第4番 嬰ハ短調 遺作 作品66 幻想即興曲
中学でいちばん仲の良かった友人はピアノがすごく上手な人だった。音楽の授業の前や部活が始まる前の音楽室で、私はいつも演奏をせがんでいた。中でもいちばん私が好きだったのがこの幻想即興曲で、彼女の指がめまぐるしく鍵盤のうえを走る様は何度見てもどうなっているかわからなくて、ただ見とれているのが楽しかった記憶がある。人間の指が、あんなふうに音を紡ぎ出せるんだ、というのは何度味わっても新鮮な驚きをもたらすけれど、その魅力をはじめて知ったのがこの曲だったのかもしれない。中学生にしてこの曲を弾きこなしていた彼女は、音楽大学の指揮科を卒業したと風のたよりで聞いた。ホワイトにこの曲をあてたのは他でもない、彼が幽霊だから。降り積もった雪にすべての音がすいこまれてしまうような静寂の音、白の世界にあってスノウと作るステンドグラスが日に透けるときの彩り、スノウとじゃれあう言葉遊びの軽快さ、そのうしろに隠れる孤独感。雪と氷の結晶にきらめく光のような音の粒が並んでいる曲だと思う。

ミスラ

ホルスト 組曲《惑星》 作品32 第1楽章 火星-戦争をもたらす者
ミスラはいちばん最後まで決まらなかった。陰鬱さの濃い音を求めてシベリウスの交響曲を幾つか聴いてみたのだけど、それだと彼の荒っぽさも、底の知れない魅力も、それでいて人懐こい甘さがあるところも足りなくてしっくり来なかった。後回しで考えるつもりで、ほかの魔法使いにつかえないかなと思ってアルバムで流し聴いていたホルストの組曲《惑星》で、不穏で強そうなのが流れてきて、ミスラっぽいな、と思ったのがこれだった。曲名の『火星-戦争をもたらす者』という文字を見た瞬間、暗い緋色の髪と酸化鉄で赤茶けた星の地表、強大な魔力を持つ魔法使いと軍神マルスがさっと重なって、これだ!と思った。ミスラが得意とする空間転移の魔法が、違う惑星という「異世界」に通じるのもあるのかもしれない。ちなみに、『木星』のシャイロックとか『天王星』のムルもちょっと悩んだ。

オーエン

ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲第2番《夏》 ト短調 第3楽章
ヴィヴァルディの四季といえば、頭に残るフレーズが印象的な春が定番だけど、景色が鮮やかに目に浮かぶこの夏の第3楽章がいっとう好きだ。オーエンにはやや生命力旺盛すぎるだろうかと思わないでもなかった、というかはじめは冬の第3楽章を選ぶつもりだった。でも、魂を隠してまで死を避け続ける生への執着が生命力でなくてなんなのか。それと、気まぐれに雷鳴を轟かせる夕立みたいな印象も合うと思った。他者を支配したがる彼が、それでも自分の抱えるままならなさ(厄災の傷もそうだし、カインの目を奪ったことも、死ねないことも、オーエン自身が心から望んだことというよりは、ある種の不可抗力でそうなってしまったように見える印象が強いので)に振り回されてしまうところなんかがそれっぽいような気がした。冬の第3を選ばなかったのは、ぜんぶがきれいすぎて、オーエンの思い通りになっているように思えるところに物足りなさを感じたから。ちなみに春のほうは「春だよ!楽しい季節がはじまるよ!暗い季節は終わりだよ!楽しいでしょ?嬉しいでしょ?」という押し付けがましさを感じるのでちょっと苦手。

ブラッドリー

ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》 ホ短調 作品95 第4楽章
クラシックでひとつ好きな楽曲を挙げよ、と問われれば迷わず『新世界より』を選ぶ。いちばん好きなのは第1楽章なのだけど、この第4楽章の雄大さと華やかさも心をとらえて離さない。鈍く重たい曇天がぱっと裂けて、光が差し込むような粗忽な優雅さ。財宝を手にするために、新天地を暴力と権力と人望で切り開く、盗賊団を率いる男の物語。「運命の脱獄者」たるブラッドリーだからたどり着ける新世界。

東の国

ファウスト

リスト ファウスト交響曲 第1楽章 ファウスト
もともとは神経質ななかにも優しさを感じるシベリウスの交響曲第1番第1楽章を考えていたのだけど、インターネットの波をさまよっているあいだに出会ってしまったのがこれだった。名前の通り、ゲーテの戯曲『ファウスト』をテーマにした交響曲。おもしろいと思ったのは、物語の流れを音で再現しようとするものではなく、ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスという主要人物の性格像をそれぞれの楽章で表現する試みだったこと。まほやくのファウストがゲーテのファウストに着想を得ているというのは疑いようがないと思っているけれど、そういう視点で聴いてみると、いくつかの主題で表現しているとされる生命への懐疑、英雄時代の情熱と闘争心、探究心と知識欲、みたいなところは、なるほど重なる部分があるように思える。ゲーテのファウスト、おおまかなあらすじを知ってるだけでちゃんと読んだことがないので、必修課題だなあ。フィガロがメフィストフェレスっぽいって解釈している人も何人か見かけたので(たしかにわかる)、掘り下げてみたらぜったい面白い。今読んでる度会好一の『魔女幻想 -呪術から読み解く中世ヨーロッパ』という新書ではマーロウの『フォースタス博士』についても言及があるので、そちらと読み比べて見ても面白そう。というかまほやく、必修課題本がたくさんある。楽しい。

シノ

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18 第1楽章
この少年のことがずっとわからなかった。ヒースも、ファウストも、ネロも、人付き合いがそれぞれ下手くそなところに愛着をおぼえたし、自分と重なる部分を感じてゆるされたような気持ちにもなった。だから東の国推しになるのはほとんど私にとっては必然で、なのにシノだけはどうしてもわからなかった。愛など自分にふさわしくないと思っていそうなヒース、愛を信じることをやめたファウスト、愛が何か知っているけど知らないことにしたいネロ、そのなかにあって、主君たる友人への愛をためらいなく口にする少年。そのまっすぐさが、眩しくて、羨ましくて、なんならすこし苦手ですらあった。やっとすこしわかったような気がしたのは、雑誌でシノの過去について触れた都志見先生のショートストーリーを読んだときだ。シノの世界は、ヒースをはじめとするブランシェット家と、それ以外とできっぱりと断ち切られている。そしてシノは、自分は「あちら側」にはいけないのだと思っている。優しさ、高貴さ、温もり、汚れをけっして知らぬこの世界のありったけの美しいもの全部を詰め合わせたのがブランシェット家だと思っているから、そしてそれは血と泥と罪にまみれた自分には望むことすらかなわない別世界のものだから、だからあんなにもまっすぐな称賛と敬愛を表明できるのだ。ヒースとシノの会話には、いつだって徹底した相互不理解が横たわる。ヒースは見上げられるよりも、隣に肩を並べて同じ方向をともに見通すことを望んでいるけれど、たぶんそれはかなわない。だってヒースは、シノにとっての太陽だから。たぶん、この短編を読まなかったら、この曲選にはなっていなかっただろう。救貧院から逃げ出した裸足にまとわりついてくる死神の気配も、おなじようにまとわりつく、善意に見せかけた不愉快な支配も、善も悪も問わずに生き抜くことを優先した意志の強さも、それでもほんとうは傷ついていたことも、容赦のないシャーウッドの森の厳しさと荒々しさも、ブランシェットの人と出会って紛い物ではない愛と優しさに光を見たことも、それでもどこかに残る寂寥感も、音に見る。泣きたくなる。

ヒースクリフ

ドビュッシー 版画 雨の庭
上原ひろみというジャズピアニストの、Hazeという曲が大好きだ。音から景色を描き出せるひとが実在することをこの曲で知った。悲しいことに、この音の雫が私に見せる景色を、その美しさを、言葉に落とし込む術を私は持たない。立ち込める靄に曖昧になっていく景色の輪郭だとか、気付かぬ間にしっとりと濡れる肌や髪だとか、雲の合間から差す陽だとか、ひかりをうける雨粒のきらめきだとか、水滴をまとった草木の鮮やかなみどりだとか、そういうものが鮮やかにまぶたの裏に想起される。ヒースのことを好きになったばかりの頃から、その曲がヒースらしいなあと思っていた。それで、同じような空気感をまとった曲を探そうと思って、すくない知識で最初に思い当たったのがドビュッシーの月の光だった。それでドビュッシーの曲を聴きあさっていたら、雨、という曲名が目に留まった。導かれるように再生したら、雲の立ち込める朝、ベッドに身を横たえたまま雨音に耳を澄ますヒースの姿が浮かんできて、あまりに思い描いたとおりの音だったから思わず口元が緩んでしまった。シノにまとわりつく灰色の悪魔を、ヒースの雨が洗い流せてやれたらいいのにな。

ネロ

ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》 ホ短調 作品95 第1楽章
『新世界より』をネロとブラッドリーで揃えてしまったのは、言い逃れのしようもない元相棒シッパーの業である。華やかな第4楽章に対して、この第1楽章はもっと穏やかで陰鬱な印象が強い。盗賊団から足を洗って東の国に住み着くあたりの音がこんな雰囲気じゃなかろうか、と思って選んだ。ふたりにとっての「新世界」はけっして重なるものじゃないのだ、という考えがうしろにある。 "元" 相棒はどこまでいっても "元" でしかいられないんである。そしてたぶんそれは、重なっていたものがあるとき離れてしまったわけでもなく、相棒として肩を並べ合っていた頃から、きっと。そういう元相棒が好きだっていう私の性癖による曲選でお届けしています(最初から最後までそう)

西の国

シャイロック

ハチャトゥリアン 組曲《仮面舞踏会》 ワルツ
仮面舞踏会は部活でやった曲だから、中1だか中2だかの時に初めて聴いたんだと思う。その時から十数年後の今に至るまで、この曲の印象は一貫して「怖い」というのがもっとも強い。こんなにも華やかできらびやかで楽しげなのに。印象が一貫しているといえば、シャイロックのこともずっと怖いと思っている。こちらがシャイロックに純粋な好意を向けたとき、彼にとってはそれが何の意味も持たない感情なのであろうことがわかるから、怖い。他者をムルとそれ以外で分けているのだろうと感じる時がしばしばあって、おそらくシャイロック自身がそれに自覚的なんだろうと思うから、怖い。本編第1章で、肌にまとわりつく風を「後腐れた情人の指先のよう」と形容してしまえるこの人は、いったいどれだけの「ムル以外」を切り捨ててきたのだろう、と読み返した時鳥肌が立ったくらい。彼の前に存在する私は、ときどき「その他大勢」でしかなくて、それを思うと、足元の地面がすとんと抜けて、どこまでも落ちてゆくような気持ちになる。仮面舞踏会というのは、自分を隠す場所だ。誰もが、自分以外であり、その他大勢のひとりになる場所。

ムル

ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
私がこの曲をちゃんと聴いたのは、高校でビッグバンドジャズの部活に入ってからだ。それも、ごりごりのジャズバンドで思いっきりスウィングを効かせた音源で。だから、これがどちらかといえばクラシックと類型されることには、いまだに違和感がある。それくらいにボーダーレスな楽曲。幾つもの肩書をもって越境していく、突拍子のなさを持つムルはこれしかない!と思った。ゲームのプレイ開始から50日とすこしが経った今、魔法使いたちのことは考えれば考えるほどわからなくなっていくけれど、ムルという人はその最たるものだ。何もわからない。どんなムルを考えても正解にならない。でもそれこそがムルなんだろうな、と思わされるところが、クラシックとジャズの境界を軽々と行き来するこの曲に似通っていると思う。類型など無意味だ、どちらかに収まる俺じゃなくても愛して!と人差し指で花火を生みながら彼は言う、だろうか。

クロエ

メンデルスゾーン 交響曲第4番《イタリア》イ長調 第1楽章
ひさしぶりにこの曲を聴いていて、西の人って長調って感じだなあと考えたのが、この遊びのすべての発端だった。この曲は明るくて、優しくて、楽しげで、派手過ぎない華やかさがクロエらしいなあと思う。デザインを考えながらスケッチブックに真剣な顔で向き合う姿、丁寧にミシンに布を走らせる器用な指、できあがった素敵な服のたもとが風にひらりと舞う様子、そういうものがぱっと浮かんでくる気がして。

ラスティカ

ブラームス ハンガリー舞曲第7番 ヘ長調
ワルツのリズムというのはどうしたって陽気になるものなんだろうか。明るさと優美さ、陽だまりのような柔らかさと、ときおり驚かされる茶目っ気を音から感じるところが、ラスティカらしいかなと思った。天気の良い午後の日、美しいティーカップと、香りの良い紅茶と、上品な甘さの茶菓子の似合う曲だ。バッハあたりからチェンバロの曲を選んでこれたらいいなと思ったんだけど、あまりしっくり来る音源がなくて残念。また探してみたい。

南の国

フィガロ

ショパン 革命のエチュード
二千年という時間を生きてきたフィガロには、もっと壮大な交響曲を選ぶんだろうな、と漠然と思っていた。そのはずだったのに、口直しがてら流していたショパンのアルバムで偶然『革命のエチュード』が流れた瞬間、一音目で「あ、これだ」と思ってしまった。考えてみれば、孤独と切り離して語ることのできない魔法使いの音楽が独奏曲になるのは必然かもしれないな、とあとから納得した。私はフィガロのこともしょっちゅう怖いと思っているのだけど、彼におぼえる怖さは、底が見える類のものだ。深い、深い、光の届かない海の底のような。そこには果てのないさみしさが同居している。フィガロのことを考えるとき、孤独について考えずにはいられないし、そのまま自分の孤独と向き合わされるのがわかっているから怖いんだと思う。フィガロにとって他者はフィガロを存在させるために必要で、だから彼のまえで私も存在できるのだけど、そのことがどうしようもなく悲しい。革命の音楽なのに、ピアノの音しか聞こえない。革命はひとりではできないのに。

ルチル

ドビュッシー アラベスク第1番
群像劇が好きだ。すなわち、クラシックなら交響曲が好き、ジャズならビッグバンドが好き。それぞれ別々の動きをしているものたちが織りあげられてひとつの景色を描き出すようなものが好き。そんなわけで、これまでは協奏曲も、独奏曲もほとんど聴いたことがなかったのだけど、ドビュッシーの音って、真摯だ。というのを、この遊びをやってみて新しく知った。ヒースクリフもそうだけど、ルチルもまた、真摯さというのをよく実践している人だなあと思う。穏やかで優しくて、それでいて、有無をいわさぬ芯の強さがある人。守りたいもの、愛したいものをまっすぐと見据えることのできる人。

レノックス

スメタナ 連作交響詩《我が祖国》 第2曲 ヴルタヴァ
友人が以前、レノックスのことを「ずっとすこやかなんだけど、何も考えないから能天気にすこやかなのではなく、考えてすこやかな人」と評していたのにすごく納得した。同じことを、私なりに言い換えるとするなら、川みたいな人だと思う。悠々と、滔々と水をたたえ、静かに流れる大河は、いつの日もそこに在ることを疑わせない。レノックスはそういう人だ。プラハは、数年前に訪れたことがある。どこを切りとっても絵になる、美しい街だった。美しすぎて、すこし息が詰まるくらいだったのだけど、カレル橋からヴルタヴァ川を眺めたとき、水面はどこも同じだな、とずいぶん気が抜けたのを覚えている。きらびやかに飾り立てるのはいつだって人間の作り出す街並みのほうで、川はきっとずっと前からその姿を変えずにその時代ごとのひとびとの生活に寄り添ってきたのだろうな、と考えたことを思い出しながら、この曲を選んだ。

ミチル

デュカス 交響詩 《魔法使いの弟子》
どうしても本編で回収されていないミチルの不穏さを匂わせる伏線に引きずられて、あんなにも愛らしい少年にはおよそそぐわない曲選びをしてしまう。第2部でそのあたりは解き明かされるのかな。この曲は、魔力をまだうまくつかいこなせない魔法使いの弟子が師匠の見ていないところで魔法を使おうとして失敗してしまう、という内容のゲーテの詩がもとになっているそうだけど、そういうところもミチルらしい。詩の意味をわかってから聴くとシーンがおぼろげに想像できるのも楽しい。

 

こんなにいろいろ書くつもりではなかったのに、魔法使いたちに対する思いまで筆にのせていたら想像以上の分量になってしまった。七千字の短編に半月かかったわりに、一万字のこれは一日で書けてしまうのだから、自分のことがわからない。楽しかったから良いけど。

この遊びをとおして、ずっと考えていたことがあるので、それを最後に書き残して終わりにする。

クラシックは、中学の部活で初めて触れた。なんらかの部活・同好会への所属は校則で必須だったのだが、とにかく運動部は嫌というくらいで、とりたててやりたいこともなかった私は、知り合ったばかりのクラスメイトと一緒に見学に行ったオーケストラに、深く考えずに入部を決めた。その前年だかに『のだめカンタービレ』のドラマが放映されたばかりだったこともあって、入部希望者は多かった。かくして、それまでピアノを弾いたこともなければ、五線譜の読み方も知らなかった私はトロンボーンという楽器に出会うことになった。

楽器は、中高の6年間は楽器をやめないこと、というのを条件に買ってもらった。ずっとオーケストラをやっていくのだろうと思っていたけれど、結局、せっかく中学受験して入った中高一貫校でエスカレーター進学を蹴って、外の高校を受験した。中学の3年間でクラシック音楽におけるトロンボーンの出番の少なさに物足りなさをおぼえていた私は、高校ではビッグバンドジャズにのめり込んだ。その頃の話もすこしずつ振り返ることができるくらいには過去になったし、いずれまた書きたいと思うけれど、そんなわけで、この27年のなかで、私が「クラシックに触れていた」といえる期間はたったの2年半だけだ。何も知らないというに等しいけれど、でも、今でも時おり聞き返す曲のほとんどは、その頃に出会ったものだ。

学校というのは、そういう場なのだよなと思う。学生期間で学んだことのうち、学生を終えてからの生活で直接的に活用できるものの割合なんて、たかが知れている。とくに積極的な意欲もなく触れたクラシックに、十数年後の今、好きな作品と結びつけて遊ぶという楽しみ方ができることを、あの頃の私は知るよしもなかった。当時は意味を見いだせないまま出会ったものたちが、今の私を形作っていたりする。数式の美しさが救いになるひともいる。絵を描くことが、本を読むことが、化学式を知ることが、救いになる人がいる。多くの生徒には届かない何かが、たったひとりの誰かにとっては光になりうる。だから学校教育というのは、なるべく多くの人に、それぞれの救いのいとぐちを見つけられるよう手助けする場なんだと思っている(もちろん学校以外で光を見出すことだってできる。それはそのまま、学生じゃなくなった私たちが学びたいと思う理由だ)。それは、誰かを救えるはずのない私が教員という職業を選ばなかった理由でもあると同時に、その仕事にいいまだに諦めをつけきれない理由でもある。人を救いたい、だなんて大層なものじゃないけれど、でも。

魔法使いと○○シリーズ、友人とそれぞれで考えた鉱物編も楽しかったから、あれもそのうち文に残したい。

たましいの輝き

数日前に27になり、そのことについて思いを巡らせる間もなく、年が明けていた。27という数字にも、2020年が終わったことにも、これといって感慨があるわけではないのだけれど、こういうときでもなければ立ち止まってかえりみることもないだろう。世界はとつぜん様変わりした。これまでの戦い方が全然通用しなくなった。意図せずに開放してしまったゲームのステージで、こんなのありかよ!と悪態をつきながらがむしゃらにコントローラーを叩いて、唐突に立ちはだかる障害物をなんとか避ける。そんなふうに乗り切った年だったように思う。体ばかりが先行して、精神はずるずると引きずられて擦り傷だらけだ。でも、そうやってクリアしたところで、元の慣れ親しんだステージに戻れることはしばらくない。待ち受けているのは身を隠すところもない荒廃した世界だ。2ラウンド目はもうすこし器用に乗り切れるように、今の自分の立ち位置をたしかめたくて、文章にすることを試みている。

気づけば、会社員になってから丸三年が経過している。コンサートもない、旅行も行けない日々にあってはほとんど必然だったのかもしれないけれど、それにしても、よく働いた年だった。はじめてチームリーダーとして、複数人を率いる立場になったのが年明けすぐのことだ。当時は日々をこなすことに精一杯だったけれど、振り返ってみれば任せられる仕事の幅は着実に増えていて、それなりに力はついたと思える。朝起きて、きまった時間にきまった場所に行って、数時間を過ごすだけで心底疲労していた三年前と比べたら、今が嘘のようだ。12月にはとうとう昇格も決まった。嬉しさや達成感がないと言ったら嘘になる。

それでも、その嬉しさをはるかに上回って、しんどかった。3月末には完全に在宅勤務に切り替わったから、オフィスには8ヶ月近く足を踏み入れない日々が続いた。はじめこそ喜んだけれど、振り向けばすぐに布団が目に入り、他者の視線がいっさい存在しない空間で労働をするというのは、思っていたよりずっとつらかった。いつでも仕事できてしまって、いつでもサボれてしまうような環境で、まともな生活ができるはずがない。とくに新しいプロジェクトがはじまって、上司も忙しくてあまり頼れない状況になった9月以降は、ぼろぼろだった。仕事をする時間とそれ以外の時間の境目が曖昧になり、睡眠も食事も好きなものに費やす時間も、仕事で削り取られたものを補うための生命維持の活動に成り下がった。それにしたって差し引きでいえばマイナスで、そんなふうにしか愛するものと向き合えないこの生活には、心底、心底嫌気が差している。

死にたいとは思っていない。死ぬことばかり考えていた学生時代から考えれば、ずいぶんと「まっとうな」社会生活を送れるようになったものだ。生きるのがつらい、と思うことは、ほとんどなくなった。そして大抵の場合、それは祝福されるべきこととして扱われる。けれども安寧と引き換えに、私はたましいの輝きを失った。こんなふうに生きたかったわけじゃないという思いは、いつしか、こういうふうに生きるしかないのだという諦念にすり替わった。

何度もその諦念に飲み込まれながら、それでも抗おうとしたのが2020年だったのかもしれないと思う。あるいは、たましいの輝きを取り戻す戦いの元年だった、とも言える。

三島由紀夫や梶井基次郎の作品を読むとき、私がそうして彼らの文章を読むことができるのは、彼らが書く人間だったからであるということを、いつも不思議に思う。同じ時代には書かない人間がもっとたくさん生きていたであろうこと、そしてそのひとりひとりが何を考えて生きていたかを私が知る術はないことを考えると、足元が崩れていくような感じがする。後世に自分の名を残したいという欲求があるということではない。ただ、自分が生きていたことを、自分が死んだあとに誰も証明できないことが怖いのである。インターネットのある現代では、生きた痕跡が残らない人のほうがすくないだろうけれど、自分が代替可能なその他大勢であることに対する恐怖という意味では同じことだ。

たとえば床に落ちた髪の毛とか、惣菜ばかり食べているせいですぐにいっぱいになるビニールゴミの袋とか、私の名前が宛先になったメールが届くこととか、そういう事実から帰納的に自分が存在するらしいということはわかる。でも、それらは「私は生きている」という実感をもたらしてはくれない。自分のものだと思っている感情は、「こう感じるのが最適解だ」という演算結果に過ぎないのではないか。私の発言は、私の思考から導出されたものではなく、他者の思考を言い換えただけの受け売りの寄せ集めに過ぎないのではないか。インプットされる刺激を、一定のアルゴリズムにしたがって打ち返して人間っぽく振る舞っているだけの、ただの容れ物なんじゃないか。容れ物であるということは、代替可能であるということだ。容れ物をすげ替えても誰にも気づかれない。そういう浮遊感にずっと怯えてきた。

でも、書いているときだけは、私は容れ物ではないと思えた。無論、私の語彙や思考はこれまで自分が接してきた外界から培われたものではあるけれど、言葉におこすというのは、けっして単純な変換作業ではない。私の目に映る世界を解釈し、私の存在を織り込んだ世界を言語というツールで再構成すること、それが書くという行為だ。

だからこそ、日に日に書く力が衰えていくことに、ずっと焦燥感をおぼえていた。抗おうとすればするほど、思うように書けないことを思い知って惨めになるだけだった。もういっそ書く人間だった自分は過去にしてしまおうかと考えたことも幾度もある。

それでも、諦めきれなかった。一次創作でも、同人活動でも、日記でも、中身はなんだっていい。惨めでも無様でも下手くそでも論理だっていなくても独創的でなくてもいい。私の書く文章は私にしか書けなくて、そこに私のたましいがある。文章を書くことは、私自身に代替不可能な私の存在を証明するための手段なのだ。

生きたいから書きたい。さんざん堂々巡りしても、やっぱり戻ってくるのはいつもそこだったし、その火を灯し続けることが、私が私でいるための必要条件なんだなというのを再確認した。たましいの輝きを取り戻す戦いの一歩目。

文脈からは逸れるけれど、好きな男と別れなければ、この戦いははじめられなかった。彼との日々は、つきまとう生の実感の不在を忘れさせてくれるくらいには激烈に眩しかったけれど、それを望むのは、まやかしのいのちと引き換えに私の誇りを殺してゆくことだった。あるいは、まっすぐな恋情をぶつけられるあの恋愛は、自分が代替不可能な存在であるという夢を見せてくれるものだったのかもしれない。信頼すべき相手ではないことも、愛だと信じたいものがしょせん砂上に築いた紛いものにすぎないこともよくわかっていた。惹かれたことも、一緒にいたあいだに知った嬉しさや愛しさもまるきり虚構だったとは思わないけれど、死んだほうがましだとさえ思わせるほどに尊厳を踏みにじる関係の何が愛だったんだろう、と今は思う。最初に交際を解消したのが初夏、結果的に関係をきちんと清算できたのはそこから半年たったつい先日のことで、なんだかんだ、丸一年かかってしまったけれど、ようやくスタートラインに立てた。もう振り返って慈しむこともないだろう。

恋を断ち切る覚悟がかたまった下半期は、他者に依拠しない自分自身の輪郭を見極めることに意識を向けた。書くことに注力できるような状態ではなかったから、とにかく吸収するところからはじめようと思い立って、ここ数年の自分とは比較にならないほど大量の映像作品や書籍を摂取した。勉強したいという感覚にちかい。世界との接点を増やしたいのだ。自分が何を好きで、なぜ好きなのかを掘り下げることは、私という存在の足場をより強固にするために必要なことだと思った。好きなものを好きでいることは、この数年私の生き方の根幹を成すものだけど、2020年の後半はそれをよりストイックな形というか、自分の深いところに落としてできたように思う。

アニメ、ドラマ、本、漫画、ゲームと、あらゆる媒体に多くの時間を費やしてわかったのは、人間のたましいが生み出すきらめきこそ、私が何よりも愛するものなんだということである。何も初めて至った結論ではなくて、あらためてここに立ち返ってきた感じだ。そしてこの幾度めかの気づきは、同時に、今の仕事に対する嫌悪感をいよいよ無視できないものにしつつある。時間とエネルギーを暴力的に奪われることに対する憎しみももちろんあるが、それ以上に、生産性を正義として金儲けをする場所に所属していることへの違和感が強い。役に立つかどうかですべての価値が決まる世界では、人間さえも道具にすぎない。ゆえに感情は忌避され、機械のように動けることこそ望ましいとされる、そんな世界を私は唾棄したい。人間が人間であることだけで祝福されること、そういう世界をこそ愛していたい。くわえて『ハイキュー!!』を読んでからは、かつて捨てたはずの教員という道を諦めきれていない自分がいることにも気付かされていて、このあたりとどう折り合いをつけるかが、今年、あるいは今後数年の自分の課題になってゆくんだろうと思っている。

最後に、2020年に出会った中で深々と突き刺さった作品を三つ挙げておく。『ハイキュー!!』と『Free!』、そして『IDOLiSH7』だ。いずれにも共通するのは、徹底した人間賛歌の物語であるということである。

『ハイキュー!!』は、弱さの受容と意志の物語であり、肯定と見守りの物語であり、真摯と誠実の物語だった。作中交わされる会話のひとつひとつが、球のやりとりのように丁寧に拾われる優しい作品である。誰もがゆるぎない強さを持っていて、その強さの形はひとりひとり異なること。同時に誰もが弱さを持ち合わせていること。それらが丁寧に描かれていることに救いを見た。日向翔陽にはどれほど光をもらったかわからない。

『Free!』はタイトルどおり、自由の物語だ。心の中で触れないようにしているやわらかい部分にじくじくと刺さる、目をそむけたくなる衝動と愛おしさとでないまぜになる作品。ともすれば過剰なほどの美しさが、少年たちのじれったさを演出している。桜の花弁が一面に散ったプールと、松岡凛のオーストラリアでの朝の生活を描写したシーンは、きっとこの先、生きてゆくのが嫌になったときにきまって思い出すことになるだろうと思う。

『IDOLiSH7』は、誇りと尊厳と理不尽の物語であり、友人の言葉を借りるならば家父長制の破壊と家族の再構築の物語である。この数年、現実の世界のアイドルオタクをやってきて、どうしたって私たちは消費する側でしかいられなくて、それは彼らを人間としてではなく資本主義の駒として扱うことに他ならないのではないかという罪悪感を持ち続けてきたけれど、向こう側の彼らもちゃんと意思を持って動いている人間なのだというあたりまえのことを教えられたのがこのゲームだった。消費の対象だとみなして、人間扱いしていなかったのは私のほうじゃないか、と目のさめるような思いだった。

現実の人間が相手でなくなっただけで、虚構の世界の他者に生かされていることに代わりはないのかもしれない。安全地帯へ逃避している自覚はある。向こう側の彼らと私が双方向の人間関係を築くことはないのだから、楽に決まっている。自分の琴線を揺らす存在を求めてしまう自分本位さからはあいかわらず抜け出せていない。まあ、それならそれでいいか、とも思う。生身の人間と向き合うには、このところ大きな失敗をしすぎたし、リハビリの期間があってもいい。

この先もっといろんな物語を知ってゆくにつれ、まだ単一の点としてしか咀嚼できていないコンテンツが線でつながって、地図ができて、自分の立ち位置が見えてくるような気がしている。そしてそれを紐解くことは、きっと自分がこの先どう生きていきたいかの道しるべにもなるであろうことを期待している。

たましいの輝きを取り戻すための戦いはまだはじまったばかりだ。たくさん読んで、たくさん見て、たくさん書く。もっとまばゆくなる。

千種創一『千夜曳獏』

『砂丘律』ですっかり魅せられた千種創一の新刊。発売の知らせを本人のツイッターで見て、その日のうちにAmazonで予約をしたものの、発売日から一週間経っても手元に届かず、在庫も表示されないまま。倉庫には入荷されているはずなのになぜか反映されないとのことで、どうやらこの時世で処理が滞っている様子。せっかく予約したことだし気長に待とうと思っていたけれど、本屋とかで先に手に入れたひとのツイートを頻繁に見かけるようになって、羨ましさを募らせていた。そういうツイートのひとつに、「版元に直接注文したらすぐに対応してくれた」というのがあり、それならばと予約はキャンセルして、青磁社にメールをした。1時間も経たないうちに返事が来て、住所を伝えたらその日のうちに発送してくれた。週明け、郵便受けを覗いて青磁色の封筒が投函されているのを認めたときの、ああいう胸の高鳴りをいくつになっても大事にできたらいい。

短歌集を読む時間というのは、内省の時間に近い。だから、焦燥感に苛まれているときには読みたくない。心が凪いでいるときじゃないと、31文字なんて視線が滑って終わりだからだ。言葉の短い連なりをつかまえて、解釈して、心の中に描き出してみる。歌と歌のあいだの空白に、自分の風景が、感情がうかぶ。鏡のようでもあるし、会話のようでもあるなと思う。小説よりも短歌を読むことを好むようになったのは、体力がなくなってきているんだと思っていたけれど、たぶん、他者の作品でありながら、そのあいまに私が存在できる余地があるのが嬉しいのかもしれない。ゆるされているような感じがする。もっと自分のことについて考える時間が長かった頃は違ったけれど、今の私が私と向き合うためには手助けが必要で、短歌がその役割を担っているような気がする。

千種創一の短歌は、ふしぎな空気をまとっている。そこに描写された風景は、まるで自分が見たかのようにありありと描き出せるのに、すごく鮮明なのに、たぶん千種創一自身が描こうとしたものとはぜんぜん違うんだろうなという確信もある。 色彩だけじゃなく匂いまで感じとることができるのに、その匂いには馴染みがない。知っているのに、知らない。近いのに、遠い。同じ方向を向いているのに、違うものを見ている。向かい合っていても視線が合わない、そういうさみしさが、彼の詠む歌には滲んでいる。

いまの私の10選。たぶん、夏が終わったころに選んだらまた違う顔ぶれになるんだろう。

どうやっても悔やむであろうこの夏をふたりで生きる、花を撮りつつ
峠からみれば豪雨は天と地をつなぐかなしい柱 都よ
点けないで。月でいいから。 ブラインドずらすため伸びてく腕、僕の
駅前に来て手をほどく、ほどかれる、朝日は正しすぎる暴力
ことばとは思索の花弁 浅はかな桔梗を銀の網棚へ上げ
このアカウントは存在しません 桃は剝くとしばらく手から香るから好き
感情があなたへ流れていくときの中洲に鷺は立ち尽くすのみ
選ぶとは捨てること、じゃないだろう。夜、駅は舞台のように明るい
火。陽。日。正しい漢字を選びつつ老いていくことすごく正しい
雨季の庭に細いきのこがあるようなあなたの愛しい誤字を見つける

雨の匂いが濃い歌集だった。呼吸が深くなった。

無題

知らない番組に出演していたひとが亡くなったという知らせを見かけた。それにまつわるすべてがグロテスクだった。ハッシュタグがくっついた哀悼の言葉、「一番好きだったのに」とか「そこまで好きじゃなかったけど」とか好意の程度が付加された哀悼の言葉、哀悼の意と見せかけた自分語り、血走った目で犯人を叩きのめそうとする正義のひとびと、ぜんぶ気持ち悪い。

周囲でも見ていた人は少なくなかった。日頃嫌悪を示す範囲が似ている人でも楽しんでいるのは知っていたので、食わず嫌いなだけで、案外見てみたら自分も楽しめるのかもしれないと考えたこともあるけれど、けっきょく拒否感が勝った。バスに乗り込んで旅をする番組にしても、ひとりの高スペック男性を十数人の女性で奪い合う番組にしてもそうだけど、倫理的に正しくないと感じているし、ああいうものを面白いといえる人間になりたくない。あくまで私にとっての倫理観の表明なので、他者について糾弾する意図ではないです。

実在する人間の人生を、画面の外から面白がるというその構図は、ものすごく暴力的でグロテスクだ。アイドルを消費する立場だからこそ、その不均衡については考えざるを得ない。音楽やパフォーマンスだけではなく、存在そのものをコンテンツとして消費するからだ。それでもファンと彼らの関係を維持できる砦は、彼らが職業としてアイドルをやっているというところにあると思う。私が消費する彼らはある種の創作であり偶像であって、彼ら自身ではないし、そのことに、ファンも、彼ら自身も救いを見いだせると思っている。でも、素人恋愛バラエティに出演する「素人」は、そうじゃない。台本も脚本も創作もない(ということにしている)生身の人間がそのままコンテンツになること、それってものすごくおそろしいことに思える。(もちろん、アイドルであっても、その偶像と自身の境界がとても曖昧であるために苦しむことがあるのも現実だし、そこを軽視したいわけではない)

エンターテイメントというのは、人を楽しませるために人が創意工夫を凝らしたもののことをいうのであってほしい。それがお笑いだったり、音楽だったり、演劇だったり、映画だったり、小説だったりする。でも、人間の人生そのものが、人を楽しませるために使われるのは、それは、やっぱりゆるしてはいけないもののような気がする。というか、それって創作の放棄であり、エンターテイメントに対する冒涜じゃないか、という気もする。

あの番組の人気が出始めた頃から抱えていた違和感ではあったけれど、ここまで言葉に落とし込んだことはなかった。このタイミングで言うのは後出しジャンケンみたいだし、結果的に彼女に死に意義を持たせようとする行為になってしまうので、生きている者の傲慢だとも思うけれど、ああいう類のコンテンツがなくなることを、ほんとうに、切に望んでいる。

これを言うことが誠実なのかどうかわからないけれど、ご冥福をお祈りします。

愛する手段

最近書かないの、と尋ねられて、自分の文章を待ってくれるひとがいることの嬉しさを久しぶりに感じてちょっと泣きそうになった。創作をしていた頃から、誰かのために書くわけではない、私はいつだって私のためだけに書いている、そういうスタンスを失わないようにずっと意識してきた。誰かのために書こうとしたら、書きたいものを見失ってしまうであろうことも、自己顕示欲に飲まれることもわかっていた。もっともあの頃だって、今ふりかえるとけっこうじゅうぶんに欲に身を侵されていたと思うけれど、自分のために書く、というのをしつこく言い聞かせて、なんとか正気を保っていたような感じだった。だけどそのわずかな正気のせいで、自己顕示欲に塗れていく自分がことさら際立って見えてしまって、それで書けなくなってしまった。私は違う、そう思おうとするほど、ツイッターのフォロワー数に視線が行く自分が苦しかった。フォローありがとうございますなんて意地でも言いたくなくて、そのくせアカウントにはちゃっかり鍵をかけなかった。自家撞着に陥っていることなんて百も承知で、それを認めることができない自分に我慢ならなくなった。いっそ素直にその欲に身を投じていたら、今でも書き続けていただろうか、とも思うけど、そうしてできたものを今読み返して愛せたかと問えば否だから、まあ、なるようになったということなんだろう。でも、はじめはもっと単純なことだったはずなのだ。書くのが楽しかったし、読んでもらえるのが嬉しかった。

愛されたいけれど、愛されるのが怖い。自分の存在が、誰かにとって意味のあるものになることが怖くてたまらなかったし、だから好意を向けられると拒絶してばかりいた。それなのに文章に対する賛辞は素直に受け止めて喜ぶことができたのは、それが作り手である私の存在の肯定でありながら、私そのものではなく文章への肯定にすぎなかったからだ。文章が代わりに愛されてくれたから、自分で直接他者の好意に対峙する必要がなかったのだ。そんなことに今更思い至って、妙に納得している。それはけっして健全な状態ではないけれど、自分の文章を待ってくれるひとがいるというのは嬉しいことだし、嬉しいと思うことまで躍起になって否定することもないかもしれないなと、書かなくなって以来初めて思った。

書くというのは、私にとっては文字通り自分との戦いだった。けっして執筆速度が速い方ではないのは、ひとつの文章を完成させるまでに、百通りもの千通りもの否定や懐疑の声が聞こえていたからだ。自分の書こうとする言葉を疑って疑って疑い抜いて、その声をひとつずつ潰して、やっと納得のいく文章ができあがる。そんなことだから、書くのには膨大な集中力と体力を要する。

働くようになって、まずその体力が奪われた。四六時中仕事のことで気が休まらないから、集中力も落ちた。自分自身に対して批判的な視点を持てなくなって、思考の深度が如実に浅くなった。これじゃまずいと思って何度も書こうと思うのだが、書く持久力が落ちているのだから、自分の感情や思考をつかまえることもできやしないのである。自分のことなのに、わからなくなった。書くことは存在証明だったのに、それができないから、生きているのか自信がなくなりつつある。

先日、久しぶりに自分が書いた作品を読み返して、泣いた。読み返したときに自分を泣かせるような文章は今はもう書けないけど、いっときでも書けた自分が存在したことは、たぶんこれからも私にとっての救いであり続ける。過去の栄光にすがって生きるくらいはゆるしてやってもいいだろう。でも、そればかりだと、この先自分を愛せなくなるときがまた必ず訪れるだろうというのもわかる。だから、やっぱりきちんと文章は公開するようにしようと思う。書けなくなってからも何度も口にした決意だけど、懲りずに、恥ずかしがらずに、また掲げよう。まえみたいに1000人ものひとに読んでもらえるようなことはないけれど、外に出せるクオリティの文章を書き続けることは、何よりも私のために必要なことだ。愛される手段としてではなく、愛する手段として書く、という転換への挑戦をしてみようと思う。

リハビリとしての日記はこっちでも書いています
https://m00nwa1ker.hatenablog.com/