Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

違和感の輪郭

自分がただのいれものにすぎないのでは、という恐怖にさいなまれて長い。否、いれものにすぎないのだろう、誰しも。それは必ずしも忌むべきことでもおそれるべきことでもない。すこしまえに流行った「神様が〇〇をつくるとき」というネットミームのように、注がれた要素の違い、濃度や量のわりあいが異なって、他者と異なる、ひとりの人間が形作られるのだろうと思っている。それでも、その私の中身を決定するのに、私の意思が介在していないかもしれないことが怖い。たとえば、私は自らを形容するのに「バイセクシャルの左翼フェミニスト」という表現をよく用いるけれど、実のところ、左翼という政治思想を自分が選んでいるのかと問われると、かなり自信がない。政治思想とは、社会で生きるうえで何を重んじるかであり、すなわち生き方の志向のことだ。自分が左翼である根拠に確信を持てないというのは、自分の生き方の正当性を、自分の中に見つけられないということでもある。両親ともにリベラルだし、そういう両親が選んだ教育を受けてきたから、教員も筋金入りの左翼ばかりの環境で育ってきた。私にとって左翼であることは、与えられたままにあたりまえに享受するものであり、思考停止であって自分で選びとった在り方ではなかった。そのことに引け目を感じてきた。

それでも、最近はすこしずつ、その感覚と折り合いをつけられるようになりつつある。親元を離れ、ひとりで生きていくようになって、見聞きするすべてを自分ひとりで選べる身になって、世界には思ったよりも、違和感をもたらすものが多いということを知ったからだ。私は守られていたのだ。親が正しいと信じる思想のうちがわで。今だって確証バイアスの効きまくった安全圏にとどまっている自覚はあるけれど、でも今の私は、それを捨てることだってできる。そうしないのは、私がこの生き方を能動的に選んでいるということにほかならない。

安全圏のうちがわでたゆたっているとき、私は同質の他者と同化していて、その境界は曖昧だ。違和感をもたらすものは、だから、私の輪郭を教えてくれる。違和をおぼえるということは、そこが私にとって安全ではないということだ。おまえはこれを許容できない人間なのだ、と教えてくれる。自分が何を好きだと思うか、という命題と同じくらい、自分が何を好きでないと思うかを考えることは、自分を知ることだ。

どうしてこんなことを考えているかというと、このひと月弱、それなりの時間をつぎこんでいるヒプノシスマイクという作品が、どうしても肌になじまないからだ。女尊男卑の世界観にわだかまりが残るというのもそうだが、キャラクター設定にも、なんだか釈然としないものを感じる。

二面性とか表裏とか、そういう落差のある特性を、わかりやすさの程度はあれど、どのキャラクターもなんらかの形で付与されている。そして、その二面性と切り離せないかたちで、大きな痛みをかかえていることが多い。私が引っかかっているのは、作品をとおして、その痛みが軽んじられているように感じることだ。はじめにそれを感じたのは一二三の女性恐怖症のあつかいだったが、十四のいじめや左馬刻の家庭内暴力と母の自死、山田兄弟の境遇なんかも、そんなノリで消費させないでくれ、と思いたくなる。戦争の位置づけも軽薄。キャラクターや世界に奥行きを出すために、ちょっとばかり重たい設定を付加してやるか、という匂いがする。搾取といいかえてもいい。女尊男卑の設定の話をしたときにも書いたが、「ぜったいにこうでなくてはいけない、この物語はこうでしかありえない」と思わせる説得力がたりないから、よけいにそう感じるのかもしれない。そういう雑さ、甘さを考えるとさもありなんという感じではあるけれど、フィクションだからという開き直りを感じるというか、たとえば自死遺族だったり、大事なひとを亡くしていたり、トラウマをかかえていたり、そういうものを単なる設定として利用するという作品の姿勢には、「こちら側」にも同じような問題を経験した当事者が存在しうるということを考慮されていない、無神経な無邪気さがあるように思う。それぞれが抱える問題の残酷さや、それによって苦しむ彼らの弱さといった部分に、作品として真摯に向き合うでもなく、「皆いろいろあったけど、それぞれ今たくましくやっている」という賛美の仕方で回収する。傲慢だし、不誠実だと思う。設定として使いやすいところだけをうまく使っているな、という感じ。たとえばイケブクロとヨコハマの"WAR WAR WAR"の冒頭で左馬刻が「てめえの遺言聞かせてみろ」と啖呵を切るのだけど、母親を自死で失った人が、たとえディスとしてでも、これを言えるものだろうか、と思ったりする。私の解釈違いといってしまえばそれまでだが、キャラクターを、それぞれの傷をほんとうに深く掘り下げようとしたら、こういうふうにはならないんじゃないか、と思ってしまうような、そういうのが随所にある(でもこれは一方で、「性被害にあった人は笑えないはず」というような言説と同質の、私の中にあるスティグマの問題でもあるかもしれないので、自省は続けたい)。

サブスクリプションに出ているドラマトラックを完走して、コミカライズには手を出していない(ネタバレ記事はいくつか読んだ)時点での感想なので、もうすこし踏み込んだらまた違う感じ方をするようになるのかもしれないけれど、今の自分がこういう違和感を感じとったというのは残しておきたかった。

答え合わせ

ヒプノシスマイクにからめとられた。Netflixが今月末に配信終了だよ!というので、安易な気持ちでアニメに手を出したのが九月上旬のこと。私の主戦場まほやくの推しであるオーエンの声を務める浅沼晋太郎と、好きな声の斉藤壮馬が出ているというところに興味を惹かれたところが大きい。それに、別の作品の二次創作で文章に惚れ込んだ人の現ジャンルがここで、その人の書くものを理解してみたい、という動機もあった。規模の大きいコンテンツなら教養として通っておこうかな、という下品きわまりない下心もすこし。あとは、絵が好みだったり。

難読漢字の名前のキャラクターがたくさんいる、特殊なマイクを武器にラップで戦う、というくらいの事前知識で臨んで、ワクチン接種の副反応で発熱して手持ち無沙汰でいるあいだに観たので、荒唐無稽な印象は高熱のもたらした酩酊ゆえかと思ったのだけど、体調が戻ってから見返してもわりと破天荒な作品だった。違法マイクをダイナマイトみたいにずらりと腰に巻き付けているテロリストには笑ってしまった。

アニメの視聴と前後してリズムゲームもインストールして、曲が好きだとわかったのと、キャラクターのことをもっと知りたくなって、ドラマトラックやゲームのメインストーリーにも手を出した。ところが、知れば知るほど、手放しで好意的に評価できる作品ではないなという印象は次第に強まった。女が支配し、男は重税を課されるという、いわゆる「女尊男卑」の世界設定の必然性がまったく見えてこないことにわだかまりが残るのだ。反骨精神をアイデンティティにもつヒップホップという音楽ジャンルを活かすために、男性を相対的に弱者の立場に置きたい、みたいな意図があることは察するけれど、それにしてはミラーリングが甘すぎる。「女性が」敵でなくてはならないと思わせるような説得力がこれっぽっちもない。まして、男性声優メインの企画で、主要なターゲット層は女性のはずだからなおさらだ。物語の序盤で、自分の理解が甘いだけなのかとも思ったが、ひととおりドラマトラックやゲームのメインストーリーを進めても印象は変わらず、後味の悪さは消えなかった。数日顔を突っ込んだだけの私でも違和感を感じるものだから、同じようなことを言葉にしている人はけっこうたくさんいた。全体的な世界観設定だけじゃなくて、個々の台詞やリリックに顔をしかめたくなることもすくなくない。価値観の合わないものとは距離をおく生き方を選んできたので、こんなふうに怒りながら好きになる経験をあまりしたことはないように思う。とっくに嫌いになっていてもおかしくないのだが、不思議なことにそうはなっていないので、いっそいけるところまでキレちらかしてやることにした。

もっとも、曲がとにかく好きで、音楽って音を楽しむものだったなと思いだしたり、気になるキャラクターもできてしまったりで、愛したいものは愛することに決めた。批判することと愛することは両立する。乱数も「好きも嫌いもなんでもきみの自由さ」って歌っていることだし。

シブヤの三人に惹かれている。歌詞の好きな楽曲が多いことと、互いの生き方に過度に干渉をしない間柄がいいと思った。あとは、いろいろ触れたかぎりで、いちばん私の倫理に照らしてだいじょうぶだったからというのもある。他者も、あるいは自分をも煙に巻いてばかりいるような危うさと、それでいてしたたかさも、生身の人間らしい愛嬌もあわせもつ幻太郎だとか、他者の懐にはするりと入り込むくせに、他者を迎え入れることはどこか拒んでいるような諦念をときおり匂わせる帝統だとか、大事にしたいはずなのに自分の存在を許容できずに刹那の友だなんてチーム名にかまけてしまう乱数の不器用さだとか、それぞれ好きだ。何よりも、自らのいのちさえも抵当だと言い切る帝統の苛烈な生き方がまぶしくて憧れている。

このコンテンツにここまで深入りすることも想定していなかったけれど、さらに誤算だったのは、本格的に斉藤壮馬という声優に足をとられてしまったことだった。声が好きな人だという認識は以前からあったのだが、それは「声が好きな人」で、それ以上でも以下でもなかった。私が好きなのは、あくまで向こう側で生きるキャラクターであり、それをこちら側で誰が、どんな人が演じているかについて興味を持ったことは、これまではあまりなかったのだ。むしろ、キャラクターと相対するときに、声優の人格が干渉してくるような気がして、知ることを積極的に避けていたとすらいえる。

夢野幻太郎というキャラクターに惹かれたのが、彼が文章を書くことを生業とする人だったからなのか、それとも斉藤壮馬が演じていたからなのかは、いまだにわからない。ただ、曲を聴き込んでいくうちに、彼(この三人称が指すのが幻太郎なのか、斉藤壮馬なのかもわからない)の声が聞こえるごと心臓がかっと熱くなることを自覚した。声が好き、ということが、どういう機序で自分のなかに強い感情を呼び起こすのかわからぬまま、抗えないところまで踏み込んだことを知った。友人にいくつか曲をすすめられて、そのどれもが好きだったのもあるし、ブログ記事を幾つか読んでみて、好きな言い回しをする人だな、というのも追い打ちをかけた。

崖の縁で、それでも彼のことが好きだ、と認めるのをためらっていたのには、声優そのものに対する不信感がある。以前に一度だけ興味本位で観た声優のライブで、トーク中に出演者のひとりからホモフォビックな発言があったからだ。もちろんそれが全体ではないとわかっている。それでも、演じる側からそういう傷つけられ方をすることもあると知ったのは、信頼を失うに足る出来事だった。だから、知ることで、そういう思いをまた味わうことになるんじゃないかというおそれが、私を踏みとどまらせていた。

とどめの一撃はあっけなくて、でも鮮烈だった。私がかつてヴィジュアル系に身を浸していたことを知るインターネットの友人(この人もまたヴィジュアル沼の同郷である)から、「斉藤壮馬のヴィジュアル系歌唱を聴いてほしい」と勧められた楽曲が、よりによって、私の最初にして最長の推しことナイトメアの咲人が提供したものだったのだ。好きな音楽を作る男の作った曲を、好きな声の男が、好きな歌い方で歌うという因果を叩きつけられて、あえなく陥落した。それはまさしく答え合わせだった。内側にばらばらに散らばっていた破片に結び付けられた糸が、するすると引き寄せられ合ってひとつの形を成すような、解けてしまえばなんてことはなく、はじめからそこにあったんだと気づくような。咲人さんがあちこちに楽曲提供しているのは知っていたし、考えてみれば不思議なことではないのだけれど、これは必然だったんだなと思った。私はこの人を好きでいることにしよう、と決めた。

腹をくくって、ブログ記事やメディアの連載を読みはじめたら、どうして私はもっと早くこの人のことを好きになっていなかったのだろう、といっそ不思議になった。こと、出版社の選書フェアに寄せたエッセイにはあっけにとられた。言葉選びが好きというだけならばけっこう出会えるのだけれど、漢字のひらき方と読点の打ち方はわりあい自分がうるさいほうなので、他者の文章で好きだと感じることはすくない。だからこそ、言葉のえらび方、漢字のひらき方、読点の打ち方、何もかもがど真ん中に好みの文章を眼前につきつけられて、動揺すらあった。ブログのラフな文体で、好きかもしれない、と感じた自分の嗅覚は間違っていなかったらしい。たった今も、これを書きながら彼のラジオ番組を聴いていたが、「あまり改行するのを好まない」というようなことを言っていて、だから好きになったんだよなと思っておかしくて笑った。

かくして声が好きな人は、好きな人になった。好きを知覚した瞬間に世界はワントーン明るくなる。彼を好きになったことでこれからまた新しく出会うものが増えていくんだろうなと思うと、今、すごく楽しい。

心の声で呼びかけるんや

好きな俳優に手紙を書いたのに、感染症対策のため手紙の郵送はお控えいただいております、だってさ。俳優の健康を守るための方針に文句を言いたいわけでは全然ないどころか、公式がそういう姿勢でいてくれるのはありがたいことだけれど、手紙くらい送らせてくれよ!という気持ちはそれはそれとしてある。便箋に書いちゃったし封筒に切手貼っちゃったのに。書く前に確認しなかった自分がいけないとはいえ、これしか気持ちを伝える手段がないのになあ、とすごく悔しい。ファンレターなんて自己満足だし、読んでもらえる保証なんかもちろんない。読んでほしいけど、読んでもらうためじゃなくて、伝えたいから書くのだ。あなたの舞台に救われている人間がここにいるんですってこと。そういうわけで、気持ちが行き場をなくしたので、いっそブログにあげちゃう。心の声で届いたらいいなあ。その辺の木の枝に引っかからずに飛んでくといいな。

これはホタルギツネを演じる田中宣宗さんに宛てた3回めのお手紙です。

 

※舞台の内容についてのネタバレがあります。未鑑賞の方はご注意ください。

 

『はじまりの樹の神話』、東京公演おつかれさまでした。

終演した直後は伝えたいことがたくさんたくさんあったのですが、今こうして手紙にしようとすると、終わってしまったんだなあという感覚が強くて、さみしさで胸がいっぱいになっています。でも、すっごくすっごく楽しかったです。ホタルギツネを演じてくださって、ありがとうございました。

3月に初めてカシームを演じる田中さんを観てから5ヶ月近くが経ちます。実は、たった一度観ただけの方のことを、わかったつもりになって好きだと言い切ってしまうことは不誠実なのかもしれない、と思ったりもしました。でも、8/28(土)の配信2回、29(日)の東京千秋楽を観て、自分の感覚は間違っていなかったんだ、と再確認しました。演技も、歌唱も、踊り方も、まとう空気も、にじみ出るお芝居に対する真摯さのようなものも、ぜんぶひっくるめて、大好きでした。

すべてを記憶に留めておくことができなくて歯がゆいのですが、好きだったところを思い返せるかぎり書いてみます。

1幕
  • アケビとスグリの"座り聞き"のあと、皆が押しかけてきて、尻尾がひかるキツネについてスキッパーに尋ねるシーン。隠れているホタルが、スキッパーが疑われているのを聞いて、皆の前に出ていこうか逡巡するときの表情が好きでした。比較的外向的な性格をしたホタルが人間を避けるのは過去になにか嫌な思い出があるからではないかと思いますが、それを押してでもスキッパーを気遣って姿を見せることを選ぶホタルの情の深さに惚れ込みます。「ほな!」も好き。
  • アップテンポなハシバミの歓迎ナンバーで、ホタルギツネがお面を外してセンターで踊るシーン。あ、観客の心を射抜きに来てるな、と思いました。もちろん私もしっかり射抜かれました。これが私の好きになった人だ!って思って、目の奥がじんと熱くなる思いでした。下手の木から、スキッパーと言葉をかわしながらみんなを見守るときの優しい表情と、ハシバミが金のカブトムシを捕まえたときの「マジかよ」みたいな表情が印象に残っています。
  • スキッパーとのデュエット。このナンバーだけでも好きなところが100個くらいあって書ききれません。軽やかな足さばきや、ぴんと伸びた指先に目を奪われました。尻尾がふりふりと揺れるのが可愛らしかったです。何より歌声がほんとうに好きです。
  • スキッパーに「ホタルでええで」って言わせておいて、いざそう呼ばれると照れているホタルが愛おしかったです。
  • 「キツネ相手に照れんなや」のところ、きっとほんとうならふさふさした尻尾がふりふりと嬉しそうに揺れているんじゃないかな、と感じさせる、愛嬌のある仕草が素敵でした。
  • トワイエさんがスキッパーの家を尋ねてきて神話の読み聞かせをはじめるときに、ホタルが椅子にひらりと飛び乗るところ。きっと耳もぴんと立てているんだろうな、と思いました。ここ以外でも、ぴょこぴょこと動く耳が見えたような気がすることが何度かあって、キツネがいる!と思っていました。
2幕
  • ホタルが森の生活に戻って、樹と再び連絡がとれるシーン。「届いてくれ」と高らかに歌い上げるところが、遠吠えを感じさせて、野生の力を取り戻しているのが伝わってきました。
  • スキッパーとのデュエットリプライズ。寺元スキッパーとの声の重なりが美しくて酔いしれました。おたがいに大事な存在で、一緒にいると楽しくて、きっとホタル自身も、スキッパーとは離れがたい思いもあったはずだと思いますし、さみしそうにするスキッパーにすくなからず気持ちが揺れたようにも思えました。それでもホタルが選択を変えなかったことこそ、「いつか戻ってくる」という言葉をスキッパーならわかってくれる、という信頼の形なのかもしれない、と考えて、胸がじんとしました。
  • フィナーレのお面を外したあとの「ひとりじゃない」のパートと、そのあとの佇まいに歌や演技、作品に対する真摯さを感じて、観ているこちらも背筋が伸びた気持ちになりました。

大好きな場面がたくさんある、宝物のような作品に出会えて嬉しいです。

千秋楽、拍手を直接送ることができて嬉しかったです。全国公演はあいにく観に行けませんが、公演のある日には心の声が届くと信じて、称賛の気持ちを各地に送りますね。次に田中さんの姿を拝見できるのがいつになるかわからずさみしいですが、明日に希望をつないで生きのびようと思います。またお会いできる日を楽しみにしています。どうぞ体調にお気をつけて、無事に過ごされますように。

怒りについて

怒りは熱いうちに形にしておかなくてはいけない。もっとも、これが怒りなのか悲しさなのか悔しさなのかは判然としない。私が知っているのは、感情というのは理性に劣るものでも、軽んじるべきものでもないということだ。私がそういう紅々とした炎を今内側に持っていることは尊重されるべきことだということだ。

裁量労働制だなんて体のいい言葉で労働力を搾取するのがコンサルティングという業界だ。過労死ラインの残業はあたりまえ、適応障害が通過儀礼のようにあつかわれるところ。適材適所だとか人材育成だとか、あざ笑うかのように踏みにじって、同じ時間単価でいかに優秀な人間を使えるかですべてが決まるところ。人間を生産性で評価し、基準に適う者だけが価値ある存在とされる最悪の世界。ついてこれない奴は残念でした。ここは相模原障害者施設殺傷事件の前日譚。優生思想を悪と思わない世界。

上司のことは好きだし、仕事がおもしろいと思うこともあるけれど、だからといって私がこの仕組みを肯定することは今までもこれからも絶対にないし、加担している自分の欺瞞をゆるすこともない。人間がただ人間であることを否定する資本主義を、私は憎悪する。

働き方改革という言葉に縁遠いこの業界でも、すこしずつ変わりつつある。上司が新人だったころのように、徹夜でやることを想定した量の課題を新入社員研修で課されるような時代ではない。有給休暇に嫌な顔をされることも、体調を崩して文句を言われることもない。それでも、とくにかく死ぬ気で働くことを正義とする価値観を新人の頃に叩き込まれた世代が今のマネジメント層を構成しているから、それが次世代に継承されてゆくことは避けられない。虐待の構図と同じだ。そもそもこの業種が激務だというのはコンサル志望者ならば知っていることで、入社してくる側もそれをわかっていても入ってくるわけだから、是正すべきものとすらみなされていない可能性がある。そういう文化だから仕方がない、とか言っちゃうようなひとびとは、たしかにいる。

私は上の世代から見たら「新しい」人間なのだろうと思う。好きなことのためにお金を稼ぐ手段として労働しているのであって、働くことは好きではない、昇進も昇給もこれ以上は望まない、そういう姿勢を隠そうともしない。もっとも、価値がないと思われることには耐えられないので、なんだかんだ言いながらもそこそこ働いてしまうのが私の気の小ささである。

私の力量ではこなしきれないタスクを、契約で決められた期間のあいだにどうにかこなそうと躍起になって、抱え込んで、からまわって、睡眠を削って、簡単に死にたくなったのは、ほんの半年前のことだ。そして、私がつぶれたことで被害をいちばんに受けたのはほかでもない上司だ。文句ひとつ言わずに救世主みたいにぜんぶを解決していったこと、今でも感謝しているし、尊敬している。丸四年、私が会社をやめずにここでやっていってもいいかなと思えてこれたのは、この人が上にいてくれたからだ。この人の下で働いていたいと思える人が上司で幸運だった、という話を他人にしたことも一度や二度ではない。ぜんぶ本音のつもりだった。

ただの上司と部下にしてはあまりに踏み込みすぎたんだろう。心をゆるしすぎた。信頼しすぎた。そういうふうに思うしか、この気持ちの行き場はない。

夜、仕事の相談を終えたところまではよかった。求めていたアドバイスをもらえて、悩んでいたことが解決する道筋も立てることができて、やっぱりこの人に相談してよかったと心底思っていた。

そのあとの他愛ない話の流れで、どうしても今やっていることに価値が見いだせないと口にしたのは私だ。この手のことを言うのはけして初めてではないし、そのたびに上司がやや機嫌を損ねることも経験則で知っている。上司からすればこれまで自分が積み重ねてきたキャリアを否定されるようなことを、その道数年のひよっこに言われるのだから、いい気分になるはずがない。ほんとうは、僕らのやっていることはこの世界にとって意義のあることだよ、無意味でも無価値でもないよ、たぶんそういうふうに言い切ってほしいだけなのだと思う。駄々をこねているだけのことだ。幼稚だ。おとななんだから仕事のわりきりくらい自分の中でつけられるようになるべきだ、そう思う。私の重んじるものは資本主義の中にないとわかっていながら今営利企業に身を置くことを選んでいるのはほかでもない自分で、だから意義とか価値とか、そんなことはそもそも考えるべきことじゃない。やらなくちゃいけないことがそこにあるだけだ。それをわかっていてもなお上司に救いを求めてしまうのは、まぎれもなく私の甘さであり弱さである。

私が専門とするのは、会社として比較的新しい領域だ。経験知はすこしずつ蓄積しつつあるけれど、まだ汎用的な手法として確立できたとは言い難く、実際の業務では個々人のスキルに依存するところが多い。経験者が多くはないからこそ、私のような若手でもリーダーをまかされることも少なくはない。成長機会といえば聞こえはいいけれど、実力にしては重すぎる立場を負うことになるのが実態だ。私はそういう圧力をはねのけるような頑強さは持ち合わせていなかったから、ぺちゃんこになった。

でも、じゃあ、あの時私以外にリーダーをできる人間がいたか、と言われたら、やっぱりいなかっただろうと思う。同じ時期に工数を割くことのできる人員がいなかったという物理的な側面が強い。あの時組織が出せるカードの中で、私が一番マシだった。それで無理だったんだから、それはもう、ビジネスモデルとして破綻しているということだ、それが私の視点だ。いつだって最良のカードを揃えられるわけじゃないんだから、それを見越してスケジュールや人員計画を立てるのが道理じゃないのか、そう思う。そんな簡単な話ではないのはわかっている。スケジュールを伸ばしたり、人を増やしたりするということはそれだけ費用がかさむということだ。それは顧客への売値に直結するわけで、端的に言って市場での競争力を失うことと変わりない。でも、提案の質を落とさずに、メンバーのスキルと残業をあてにして計画を立てるということは、正当な対価を得ることを諦めているということだ。それで損をするのは会社ではない。買い叩かれているのは私たち末端の労働者だ。私が営業を蛇蝎のごとく嫌うのは、顧客のためなどと言って社内の人間をないがしろにすることをいとわないからである。

雑談の流れではあったけれど、感覚的にあのプロジェクト計画は非現実的だったと感じていることを上司に率直に伝えたのは、改善してほしいと要求することは社員の権利であり、それを改善するのが管理職の仕事だと思うからだ。なおのこと親身に聞いてくれる人だという信頼があった。

とっくに業務時間外(そんな概念が今さらあるわけでもないが)の夜、しかも雑談の文脈で話す内容としては不適切だ、と言われれば返す言葉はない。部下として後輩として可愛がられている自覚も、その立場を利用している自覚もある。必要以上に率直になってしまっている部分もあるだろう。

礼儀や文脈を軽視したいわけではないけれど、私はそれなりの切実さを持って言ったつもりだった。それを、ただの愚痴だからそういうのは好きじゃない、って切り捨てられて、ああそうなんだって思った。段取り不足だっただけで、計画自体に無理があったわけではないと思っている、と苛立った口調で言われたことが思った以上にこたえている。だって、その段取りをうまくできなかったのはリーダーである私の力不足だ。ぺしゃんこに潰れるまで考えこんで悩んでもどうすることもできなかった、私の力不足だ。結果がすべての世界で、頑張ったから仕方ないよなんて言ってもらえるとまでは思わないにしても、おまえじゃなきゃちゃんとやれてた、に近いことを宣告されるのは落ち込む、人間だから。

でも、と思う。現実的な計画だった、というのは、私よりも優秀な、その計画を現実にできる力のあるプロジェクトメンバーを揃えられるだけの人員確保してから言うことじゃないんですか。完璧なカードを揃えられないなら、弱いカードでの勝ち方を、戦略を立てるのが組織であり上司じゃないんですか。愚痴あつかいされるんだなあ。そっか。それはつまり私の言葉は傾聴するに値しないという態度の表明であり、私が潰れたのは私が弱くて力不足だっただけで組織として改善する必要はないと考えているという態度の表明であり、私の味わった苦しみを軽んじるという態度の表明だと私は感じた。

心を明け渡したのが間違いだった、と思うしかない。私は仕事を愛さない。私の愛するものはここにないのだから、価値も意義も求めたらいけない。機械になってみせようじゃないか。その外側で、私は私のことを愛してやる。

だけど、そうして従順な奴隷に甘んじていたら誰も守れない。私は、激務で体調を崩すのが当然視されるこの構造を壊したい。そんなのはおかしいって言い続けていたい、誰かが文句を言わないと変わらないから。この業界にしぶとく根を張る、人権と尊厳を蹂躙する価値観をゆるしたくない。悲しい。

四月の栄養

映像作品はfilmarks、本と漫画はブクログでそれぞれ雑多に記録を残してきたけれど、どうにも自分を分割する感覚があまり愉快ではなくて、ひとところにまとめたいという気持ちが強くなりつつあったので、思い切ってブログに残す試みをしてみようと思う。感想を書くのがとかく苦手だから、そこを練習したいというのもある。今月のごちそうたち。

仕事がとにかく慌ただしくて、日記を書く余裕すらなかったけれど、出張で移動時間が長かったりしたぶん、インプットは思ったよりもとれた気がする。これはすなわち私が生きようとしている記録そのものである。

本/漫画

中村文則『銃』

圧の強い作品だけど、没入感が強くてよかった。主人公がミソジニックなところは鼻につくものの、こういう人物設定でなければこういう物語はできないだろうなという説得力のある作品だった。ほんとうに現実に存在する人間の物語だと思わされるような、明瞭な心情描写が凄かった。好きかといわれれば好きではないけれど、愛されるために書かれた作品じゃないということは筆者もあとがきに書いていて、それが良いなと思った。

長野まゆみ『ユーモレスク』

ながらく気になっていながら手にとったことのなかった作家。淡々とした傍観者の視点で語られていく恋愛の空気感が好きだった。

円城塔『Boy's Surface』

伊藤計劃を崇拝する人間が円城塔を読まずにいていいのか?という根拠のない問いはずっとあって、その答えはいつだっていいはずがないというところに落ちていた。何度か開いてみたことはあるのだけど、ばか真面目にあの文体に向き合おうとすると消耗してしまって挫折していたのだ。これを読んでみて、ようやく楽しみ方がすこしわかった気がする。わからなさに翻弄されるくらいがいいのかもしれない。理解するためのものでも、共感するためのものでもない、こういう読者を突き放す作品が文学として存在するのはある意味救いというか解放なのかも、と思ったりした。ブクログで他の人の感想を読んでみたけど、皆必死に何かを言おうとしている感じがして面白かった(もしかしたら本当に私だけがわかっていないのかもしれない、それはそれでSF的で愉快だ)。わからないことをわからないと大の字になって言えるくらいの豪胆さが身についたことは成長だと思う。

沢木耕太郎『無名』

沢木耕太郎が自身の父を亡くす前後の日々を淡々と綴った作品。そう多くの文章を読んできたわけではないけれど、この人以上に好きな文章を書く人間をほかに知らない。この人の文章がこの世界に存在する限り、自分が文章を書く意味がないのではないかと思うほどに、何度読んでも打ちのめされる(もちろんそんなはずはないので、私が書くのをやめることはないが)。語彙も、句読点の打ち方も、語尾の結び方も、何もかもが、とにかく好きだ。酔いしれるというのではないが、この文章はこうでしかありえない、という説得力が凄まじい。私は自分の書く文章が好きではあるけれど、いつか沢木耕太郎よりも好きだといえる文章を書けるようになりたい、と思う。

 もしかしたら、私は父を畏れていたのかもしれない。畏れていたのは、もちろん体力とか暴力とかの肉体的な力ではなかった。金とか権力とかの世俗的な力でもない。父はそうしたものから最も遠いところにある人だった。私が畏れていたのは、その膨大な知識にいつか追いつくことができるのかということだった。父には、何を訊いてもわからないということがなかった。この人といつか対等にしゃべることのできる日が来るのだろうか。そう思うと絶望的になることがあった。

(略)

しかし、永遠に追いつかないと思っていた私が、気がつくと、いつの間にか父の知識の全体をある程度まで俯瞰できるようになっていた。どのようなことについての知識が厚く、どのようなところの知識が薄いか。だから、私は、自分がわからないことを電話で父に訊ねるときも、答えてもらえそうなことを選んで質問していたような気もする。そこでも私は父を守ろうとしていたのだ。

 たぶん私は父をいつまでも畏怖する対象でありつづけさせておきたかったのだろう。しかし、実際はそう思ったとき、すでに父は畏怖する対象ではなくなっていたのだ。

祖父が死んだ時のこと、顔を合わせるたびに老いを感じるようになった両親のこと、自分にも覚えのある感覚にぎりぎりと身を絞られるような気持ちで読んでいた。

太宰治『ア、秋』

沢木を読んだら、なんだかその淡々とした筆致にむしょうにさみしくなってしまって、もっと情景がまとわりついてくるものが欲しくなった。それで青空文庫で太宰治のいちばん上にあったこれを読んだ。呼吸を取り戻したような気持ちになった。

秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯ちょうちんも捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。

文章から匂いがする。太宰の書き留める景色を私が目にしたことはないのに(だって牛乳の空き瓶なんて銭湯以外で見やしない)、むせかえるような潮の匂いが鼻腔を満たす。砂に埋れる屑が鮮やかにまぶたのうらに浮かぶ。そういう文章にずっと憧れてきている。

太宰治『I can speak』

これも『ア、秋』に続けて青空文庫で読んだもの。

謂わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。

私ももっと書き続けてゆけば文学のすすむべき路が見えてくるのだろうか。書きたいという思いだけが急いて、空回りするばかりの日々だ。十二時間労働があたりまえの生活をしていたらとうぶんだめなんだろうな。生活のつぶやきを見失わないでいたい。140字に押し込めた断片ではなく。

『新編 日本のフェミニズムⅠ リブとフェミニズム』

日本のフェミニズムの興隆からの歴史を財産目録としてまとめあげる意図で刊行された全12巻のフェミニズムにまつわるアンソロジー。第1巻の『リブとフェミニズム』は、1970年代のリブ運動時代に書かれた文章が収録されている。リブの女たちの言葉の熱量にはとにかく圧倒された。

私は私でありつづけるためには、あらゆる排外主義と闘うことにしか私の未来は有り得ないことを知っている。今までの、全生活が、こう言いきるための闘争であり、これからもそうであることを知っている。私にとって入管体制とは私の日常のことであり、入管体制との闘いは、"女らしさ" との闘いである。男への同化との闘い、"女らしさ" への同化との闘い、"女らしさ" に屈服し自分を失うことの危機感に追われ続けた毎日、今もつづく毎日、自分を裏切っていくことのもつ存在感の喪失。そこに、つき落とされてはじめて、同化と闘う、入管体制と闘う私の必然性が生まれてくる。長く耐える術を知らない私にとって、革命とは待つものではない。我々女はもう待てない。男を待てないのだ。自分を取り戻すのを待てない。(「全学連第30回定期全国大会での性の差別=排外主義と戦う決意表明」より)

このほかにも、田中美津「わかってもらおうと思うは乞食の心」、深見史「産の中間総括」、金伊佐子「在日女性と解放運動」も胸に来るものがあった。この言葉たちに出会えてよかった。私が今日実践しようとするフェミニズムの源流に触れることのできる、価値ある書籍だったと思う。

シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』

先月読んだ鷲田清一『だれのための仕事』に出てきて、これは読まねばいけないなと思っていた矢先、図書館に行ったらちょうど目が合った本。人間を生産性という記号ではかり、人格を忘却するマルクス理論への批判に根ざして、個々の労働者と労働に真摯に向き合う記録は、淡々としていながらものすごい生々しさを伴っていた。

あまりに疲れはて、自分が工場にいるほんとうの理由を忘れてしまい、こうした生がもたらす最大の誘惑に、もはやなにも考えないという誘惑に、ほとんど抗えなくなる。それだけが苦しまずにすむ、たったひとつの手立てなのだ。かろうじて土曜の午後と日曜に、記憶や思考の切れ端がもどってきて、このわたしもまた、考える存在だったのだと思いだす。自分がいかに外的状況に左右されるかを思い知るとき、戦慄を禁じえない。

ちょうど感染拡大防止のために午後八時以降は消灯などという支離滅裂極まりない政策(とよぶのも馬鹿馬鹿しい)が出たり、この土地に生きるひとびとの生活よりもオリンピックを優先しようとするような現実の見えていない馬鹿どもが為政の場で闊歩していたり、とにかく政治と社会にキレ散らかしたい案件が毎日どんどん積み重なるクソみたいな国に、私は生きている。そしてそれらに対してじゅうぶんに怒りを発露できない自分に失望と無力感をおぼえるとき、科学的根拠も合理性もない悪夢のような政策が次々に打ち出される社会になったのは、労働者が言葉を持つことを学ばなかった(学ぶ機会を与えられなかった)/忘れたからではないか、と思う。プロレタリア革命に懐疑的だった孤高の左翼たるヴェイユもまた、今の私とそう遠くない感覚を持っていたのではないか。時代を超えても、工場がオフィスに変わっても、労働者の感じることや置かれる立場なんてそうかわらないのだということがよくわかってうんざりしてしまった。

バスに乗ろうとしたとき、奇妙な感慨をおぼえた。なぜわたしが、奴隷であるこのわたしがこのバスに乗れるのか。ほかの人とおなじように12スーでバスを利用できるのか。とてつもない恩恵ではないか!こんな便利な交通手段はおまえにはもったいない、おまえなんか歩けばよいといわれて、荒々しくバスから引きずりおろされても、いたって当然だと思える。隷属状態にあるせいで、自分にも権利があるのだという感覚をすっかり失ってしまった。人からいっさい荒っぽい扱いをうけずにすむ瞬間は、まるで望外の恩恵と思える。

一方で、工場就労を通して「死ぬまで消えない奴隷の刻印」を背負いながらも、よりよくあるためにどうするかという思考をやめなかったヴェイユに、絶望ばかりしてもいられないと身の引き締まる思いも覚えた。隷属状態に身を置くことで思考が奪われている、そういう実感をともにする人がいるのだという救いと、尊厳を守りぬく戦いを、ともにする人がかつていたのだというよろこびを、この本に見た。ヴェイユの経験した肉体労働と、いわゆる知能労働に従事する私とでは経験していることはまるきり同じではないけれど、それでも、これを読めたのは良かったと思う。若くから卓越した哲学者であったヴェイユにとって、工場での就労は自身の思考を証明するための実地試験だったということらしいので、この工場日記の礎となった彼女の思想をもっと読みたいと思った。ともあれ、資本主義なんておファックですわ。

和山やま『カラオケ行こ!』『女の園の星』

いずれもDMMの70%オフクーポンにて。『カラオケ行こ!』、すごく良かった。すごく、良かった。あれこれ言葉にするほうが野暮な気がするので、ここに留める。『女の園の星』のほうは、涙が出るほどひいひい笑いながら読んだ。教員に変なあだなをつけるのは女子校あるある。私は女子校があまり好きになれず中高一貫を途中で出て共学の高校に進学したが、こうして十数年前のこととして振り返るとそう悪いものでもなかった気がしてくるから記憶というのは勝手なものだ。

はらだ『ハッピークソライフ』『やじるし』

これもDMMの70%オフクーポンで買った。商業BLをあまり積極的に読んでこなかった私が、唯一作家買いする人。『ハッピークソライフ』ははらだ作品にしてはコメディに振り切った作品だった。『やじるし』の方はあいかわらずのはらだ節。この人の作品は人におすすめすることはできないし、読みたいと思う自分の欲については常に自省的であらねばならないと思うけれど、一定の支持を受けるだけの理由がある人だというのも確かだ、といつも思わされる。

林田球『ドロヘドロ』

信頼する友人の愛する作品ならば読まない理由はない、とDMMセールで真っ先にカートに全巻放り込んだのがこれ。途中で自分が何を読んでいるのかわからなくなって、ドロヘドロって検索窓に打ち込んでみたら、ダークファンタジーとかスプラッターホラーとか説明されていて、言われてみればたしかにそうだと納得する一方で、読んで受けていた印象とはいまひとつそぐわなかったのでなんだかびっくりしてしまった。今のところ、カイマンとニカイドウのほんわかした友愛の物語として読んでいる。男と女というだけで軽率に異性愛に回収されない物語はありがたい。大葉餃子が食べたい。アニメも良いと元恋人が言っていたので、原作を読んだら見る。楽しみだ。

ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』

数年前、まだ商業BLをほとんど読んだことがなかった頃に誰かに勧めてもらったものの、読む機会を逸していた作品。すさまじく良かった。出てくる人間ひとりひとりがそれぞれもがいていて泥臭いのがたまらない。ちょうど数日前にメイン性癖を熟語で表す遊びというのが話題になっていて、私は「不理解・諦念・惰性」を挙げたところだったのだけど、まさにあちこちにそれらが散りばめられた作品で、とにかく最高だった。

 

アニメ

約束のネバーランド(2期)

ときどき台詞が説明的すぎるように感じることがあるのと、人物の心情描写に物足りなさをおぼえることから、心酔するとまではいかないのだけど、それでも観るのをやめないのは絵がきれいだから。ふだんあまり自覚的であるわけではないのだけど、こういうとき自分が耽美主義の色が濃い人間であることを知る。物語の展開はおもしろいけれど、私の中でそこの優先順位ってそこまで高くないみたいだ。EDの作画はどことなくアール・ヌーヴォーの気配を感じてとても好きな空気感。呪術廻戦、チェンソーマン、鬼滅の刃にならんでここでも人外vs人間の構図だけれど、人間の方が悪に反転する描写があるところが良かった。善悪なんて恣意的だ。

ワールドトリガー (2期)

OPのTXTの曲がすごくいい。登場人物の関係性とかぐちゃぐちゃした心理を描き出す物語に惹かれるたちなので、こういう、どちらかといえば淡々とした作品に魅せられることはけっこう珍しいのだけど、理屈の精密さと、地に足のついた人物設定がいい。ひとつひとつの動きにきちんと動機があって、すごく緻密に話が練られているから、観ていて引っかからないというか、「なんでそうなった?」みたいなストレスがすくない作品。ただしどの台詞にも動きにも意味がある分、生半可に目を離すと一瞬で置いていかれる。オペレーターが全員女性なことだけが納得がいかない(並行処理が女性のほうが得意だから、ということらしいけれど、統計的な性差がないとは言えないにしても、個人差を考慮して男性が数人いたっていいのでは、と思ってしまう)けれど、実戦ではない、仮想空間での演習に過ぎないB級ランク戦をあそこまで面白くできるということに、なんだかこれまで知らなかった物語の在り方を学んだ気がする。3期も楽しみ。原作もきちんと読もうと思って買った。

Free!

もう何周目かわからないけど、ときどき戻ってきたくなってはつまみ食いのようにところどころ見返している。私のたましいの輝きを取り戻す戦いのために、いつだって背中を押してくれる作品。凛の真摯さに背筋が伸びるし、遙の瞳に宿る光の強さに奮い立つし、真琴の柔らかさに優しさをもらうし、渚の天真爛漫さに気持ちが洗われるし、怜の実直さに引き締まる。歩いていられないと思った時に立ち返る、透き通った作品。私は日頃さまざまな律法を自分に課していて、そうして自分の輪郭が定まることに安心しているけれど、この世界の彼らが、それぞれ何かから自由になってゆく姿を見ていると、生きることが輪郭を狭めていくことであってはならないな、と思う。劇場版もとうとう公開日が告知されて、九月まで生き延びる理由がひとつ増えた。

呪術廻戦

最初の頃は毎週リアタイ視聴するくらいに楽しみにしていたのだけど、あの異性装を揶揄した最悪なじゅじゅさんぽで熱ががくんと落ち着いてしまったのが悲しかった。あと1クールのOPEDがすっごく好きだったのが大きくて、それが終わってしまって気持ちが遠のいたのもある。やっぱり最初の方で五条悟に入れ込みすぎたのがいけなかったのかなあ、にしても本編ですらないところで傷つけられるとは思わなくて、未だにそのショックをひきずっている。それでも原作を読むとやっぱり好きだと思うし、引き込まれるし、完結までは見守り続けたいと思う気持ちがあるのもほんとうだから、そこにはまだ素直でいたい。この作品にはたくさん救われているのだ。悠仁、伏黒、野薔薇の対等な関係がとても好き。女性が "少年漫画" の中で欲望の対象として客体化されないことのすばらしさ。守る側と守られる側ではなく、互いの背を預けて戦う間柄であること。最終話、すっごく胸が熱くなった。野薔薇や真希さんが「女性らしい」振る舞いをしない人々であること、伏黒の名前が恵という一般的には女性に割り当てられることの多いものであること、男女ともに睫毛が描かれること(長い睫毛は有徴化される女性の記号として扱われることが多いから)、そういう些細なところからすこしずつ男性性と女性性の境界線を撹乱することにはぜったいに意味があると思うから、この作品にまだ希望を見るのだ。

SK∞

今月だけで三周観た。私がボーイズラブを愛好する立場ゆえにそういう読みをしがちなことは否定しないけれど、ランガと暦のあいだに滲む、友愛という言葉だけではこぼれおちてしまうやわらかな愛情が丁寧に掬いあげられた作品だった。ブルーノ・マーズを彷彿とさせるOP曲が大好き。荒唐無稽に振り切った迫力満点のスケートシーンも良かったけれど、何よりも台詞のないシーンが印象的な作品だったなあと思う。二話の後半でランガがスケートにぐんと魅せられていくところとか、六話の宮古島のビーチではしゃぐシーンとか。カナダ時代と、現在を対比させるような表現は随所に出てくるけれど、そういうところから、カナダにいた頃のランガの世界は閉じたものだったんだろうというのがわかる。死んだ父親とスノボと雪で構成されていた世界。父親が死んだことも、雪が消えるものであることも、スノボは雪がないとできないことも、ぜんぶ有限の描写だ。だからこそ、タイトルの通りスケートの無限さがひときわランガにとって輝いて映るのだろう。経験こそ長いけれど、なんとなく、ランガはスノボのことをそこまで好きじゃなかったんじゃないかという気がする。楽しさを何よりも大事にする暦に出会って、ランガは楽しいことの楽しみ方をちゃんとわかるようになったんじゃないだろうか。限りのある世界からランガを連れ出したのが暦だったのだ。無限というのは、続きが、未来があるということで、すなわち、暦に出会ってランガは生きることをはじめたと言ってもいい。ところで、スケートシーンの荒唐無稽さといえば、観ているときの無秩序な楽しさは血界戦線に通じるものがあると思っていたのだけど、そういえば血界戦線も制作がボンズだったのでした。納得。

少女★歌劇 レヴュースタァライト

昨年末だったか、知人に熱烈に勧められた作品。ずっと観ようと思いつつ、同性の人物が主体の物語があまり得意ではないので(この理由を私はちゃんと考えなくてはいけない)二の足を踏んでいた、の、だけど。舞台を愛する人間の必修科目だ、というのは、観てみてよくわかった。私は舞台に立つ側ではなく、享受する側であり続けてきたから、どうしても舞台の中の世界は、舞台が終わったら消えるものとして観ている。その刹那の世界を味わいたくて劇場に足を運ぶのだし。でも、演じる人はその世界が終わっても存在し続けるし、舞台は有限ではなくて現実と接続した世界なのだということに焦点を当てた作品だったのかなと思った。現実と舞台の二層構造、そこを行き来する彼女たち。劇中にしか存在しない架空の、別個の人格の生産ではなくて、彼女たちの再生産の物語。きらめきは再生産できるってめちゃくちゃ希望だなと思った。舞台に立つたびに、舞台を見に行くたびに、きらめきは生まれるうるということ、この作品のすべてが私たちが舞台を愛する理由だ。劇中歌がとても良いのと、多用される左右対称の構図が気持ちのいい作品でした。この作品を(というか古川知宏監督を)語るにあたって必ず引き合いに出される幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』をちゃんと観てからもういちど戻ってきたい。

BLACK LAGOON

祈れ。生きているあいだにおまえができるのはそれだけだ。

これは先月観たものだけど、残しておきたかった。出てくる女がことごとく強いのが最高。レヴィに恋をせずにいられるはずがなかった。いのちの軽さをこれでもかと見せつけてくる重たい作品だけど、こういう作品でしか癒せない喉の乾きがあるのは確かだ。ちょっと気障な台詞回しもいい。今まで目にしてきたどんな直接的な性描写よりも、相互不理解の果てにあるレヴィとロックのシガーキスがいちばん官能的だと思った。ロックはレヴィの希望だったのに、希望であることを演じきれずにあっち側に行ってしまったことが悲しくて見終わってからしばらく落ち込んだけれど、でも何度考えたってああなるしかなかったのだろうなと思う。ロックはずっと「おまえはこっち側の人間じゃない」と一線を引かれ続けてきたし、実際彼の言葉は徹底的に空虚だ。どんなに彼が本心を言葉に込めても、あの世界ではどこか浮いて白々しく聞こえてしまう(それでも私が共感するのはやっぱりロックのほうで、だからこの作品を観ている時は居心地がわるい。たぶんロックが感じる居心地の悪さと同じ)。それを特に感じたのは双子編の最後で「世界は本当は君を幸せにするためにあるんだよ。いいかい、血と闇なんか世界のほんの欠片でしかないんだ!全てなんかじゃないんだ!」と叫ぶ場面で、あまりに深い断絶に言葉が出なかった。希望を持てること自体が特権的なんだなと思うし、たぶんロックはそういう自分をゆるせなかったんだろう。だからどっちつかずの夕暮れから夜に一歩踏み入れることを選んだ。しばらく耳の奥から銃声が消えなかった。片渕須直監督って聞き覚えがあると思ったら『この世界の片隅に』の人だった。あれは全然好きではなかったのだけど、これはこの先も絶対にまたどこかで喉が乾いたら戻ってきてしまう作品だな。

COWBOY BEBOP

BLACK LAGOONを観たら、同じくハードボイルドなアニメとして引き合いに出されることの多いこちらも観ないわけにはいかないだろうということで。というか、高校生だった十年前から私の人生の必修課題だった作品だ、この期に及んで観ていなかったことのほうがおかしいくらい。なにせ、シートベルツの曲には部活時代にさんざんお世話になったのだ。Tank!も、BAD DOG NO BUSICUITSもTOO GOOD TOO BADも演奏した。そうしてようやく十年越しに出会ったこの作品は、なんというか、ど真ん中に最高だった。まずオープニングを一生見ていられる。音楽がべらぼうに良い。地球ではない惑星の物語なのに、掻き立てられる郷愁に胸がじくじくとする。どうしてもっと早く観ておかなかったんだろう、と思う反面、これを最高だと思える感覚が十年前の自分にあったかどうか自信はないので、やはり作品との出会いには時期が重要だな、とも思った。なんだかこれを書きながら、見終わってしまったら、カウボーイ・ビバップをまだ見ていない自分には戻れないのだということにふと思い当たって、突然見終わるのが嫌になってしまった。それでもやっぱり、観てしまうんだな、だっておもしろいから。心が静かに凪いだときに全身で楽しみたい作品なので、ゆっくりゆっくり見進める。

ACCA

二年ぶりに再会した大事な友人にすすめられた作品。OPの曲でぐっと心をつかまれ、二話のジーンがニーノに対して「あれ、おまえ俺以外に友達いる?」とからかう場面で射止められてしまった。それに対して「つるんでる時間がないんだよなあ。余暇はバイクを走らせたいし、あとはおまえとの飲みだろ?」って平然と返すニーノもニーノだ。王国内の13の自治区を視察でまわる、やわらかな色合いの淡々とした旅作品かと思いながら見ていたら、すこしずつ不穏な様相が滲んでいく。冒頭の「俺以外に友達いる?」という伏線が思いがけない方向に回収されて、そのあとしばらくはずっとニーノのことばかり考えて心を乱されていた。抜群の色彩感。モーヴ本部長が知的でめちゃくちゃセクシーで素敵。衝撃で息もできない、というような引き込まれ方をする作品ではないけれど、質量のある人間関係が軽やかに描かれているバランス感が好きだった。

 

観劇

アラジン

先月に引き続き、今月頭に二度目を観に行った。来月にも一度、七月にさらに一度行く予定を入れている。手放しで評価できる作品ではない。ミソジニックでホモフォビックな脚本に文句をつけることをやめることはない(せっかくこんなにもフェミニズムが息づくエンパワメント作品なのに、それを台無しにしていて本当にもったいない)けれど、それと作品を心から愛することは両立するから。たぶん千秋楽を迎えるまで、何度も観に行くことになるんだろう。血が沸く、というのはああいう作品のためにある言葉だ。アラジンとジャスミンが市場で出会って、追手から逃げおおせたあとに歌う、『行こうよ どこまでも』という、ふたりの距離がぐっと近づく曲がほんとうに大好きで大好きで、家で歌いながらいつも感極まって声が詰まってしまう。ありのままでいることを否定され続けて、ジャスミン自身が懐疑的になっている彼女の可能性を疑わず、馬鹿にもせず、「自由に飛び立ってみたいなら、そうしない?」と空想の世界に連れ出すアラジンのなんと格好いいことか。それに後押しされて「船の旅はどう?」って空想を広げるジャスミンに、アラジンが「君が舵を取るんだ」って軽々とついていくところも好きだ。ジャスミンの言葉に、想いに、きちんと耳を傾けたやりとりだと思う。アラジンのすごいところは、これを空想で終わらせないところだ。ただ囚われのお姫様の慰みに夢を見せるだけじゃなく、その願いを叶える選択をする。市場で追手から逃げるときに彼が口にした「僕を信じて」という言葉はあまり根拠のあるものではなく軽薄に聞こえるし、ジーニーの力を借りて宮殿で再会したときにも言葉選びを誤って、一度はジャスミンに愛想を尽かされている。それでも魔法のじゅうたんにジャスミンを乗せて旅に連れ出すときに、もう一度「僕を信じて」と言うことで、アラジンは「僕はきみに信じてもらえるための努力を惜しまない」という姿勢を示しているのだ。そこには、対話を諦めない誠実さがある。「なぜだかわからないけど、信じるわ!」とそこに飛び込むジャスミンの豪胆さもまぶしい。信頼というのは、信じてもらおうとする選択と、信じようとする選択のうえに成り立つんだな、とふたりを見ていると思う。しょせん運命の相手を見つけるにすぎないとロマンティック・ラブ・イデオロギーの文脈に回収してしまうには惜しい物語だ。

キャッツ

三度目の緊急事態宣言発令の前日、二十四日に観に行った。学生時代にいちど、ミュージカルサークルの公演で観たきりで、物語についての知識はかなりおぼろげな状態で臨んだら、ラム・タム・タガーという猫にすっかり魅せられてしまった。この日ラム・タム・タガーを演じていたのは上川一哉さんで、別の日に観に行った友人が「上川さんが良かった!」と言っていたので楽しみにしていたのだが、登場まもなく、舌をぺろりと出してみせるあざとさに、なるほどあっという間に心を持っていかれた。彼のような猫と暮らせたらどんなにか楽しいことだろう。それからミストフェリーズ役の押田柊さんのダンスが圧巻だった。美しいターン、息をのむような軽やかな跳躍(ワイヤーでもついているのかと思うほどの滞空時間だった)、そして音のしない着地。素人目にもバレエの経験の豊富な人なんだろうというのはすぐにわかった。あとから94年生まれだと知って仰天した。卓越した技術を持つことは年齢にかかわらず尊敬に値することだけど、自分と同じだけの時間を生きてきた人が、自分と交わることのない世界で輝いている姿を見るとどきどきする。幾つの分岐を違えてお互いが今いる場所に立つのだろう、と考えるときの果てしなさに浸る感覚はきらいではない。

ところで、作品自体はとっても楽しんだのだけど、この日の観劇には苦い気持ちも残った。私は作品の内容にかかわらず、熱量の込められたパフォーマンスを肌で感じると涙腺がゆるむ体質だから、序盤の『ジェリクルソング』からぐずぐずと鼻をすすっていた。その涙に誘発される形で、だんだん自分の中で感情の収拾がつかなくなった。政治が無策だったばかりに、この素晴らしい舞台が明日からまた上演できなくなってしまうことを思ったら悔しくてやりきれなくて、涙が止まらなくなってしまった。そのあと舞台のうえの世界に引き込まれて一度は落ち着いたけれど、幕間でまたその想いがこみ上げてきて、休憩時間はほとんどずっと、ぼろぼろ泣きながら悔しさをツイッターにたたきつけていた。両隣の親子連れとカップルは、ひとりで幕間に号泣する女にさぞ面食らったことだろう。為政の場にいる人間が、こんなにも愚かで悪意のあるクソバカどもじゃなければ、この人らは、仕事の場を奪われることもなかったのに。私の、この気持ちをいろどる輝きを、たましいが震えるような喜びを奪われることもなかったのに。この舞台のうえで軽やかに舞う人びと、この舞台を創り上げる人びとすべての生活が蔑ろにされて踏みにじられていることに、視界がくらむほどの怒りをおぼえた。レヴュースタァライトのところで「きらめきが再生産できるって希望だ」と書いたけれど、ならば舞台が上演できない今の世界は、そのきらめきの生まれる場所を奪っていることにほかならない。私が観に行けるかどうかとかじゃなくて、世界に存在する希望の総量がその分だけ減るのだ。どうか、彼らがこの人災を(だってそうだろう)乗り切ってくれることを祈る。気持ちを折られないでいてほしい、なんていうのはいち観客の傲慢な願いだけど、推し俳優にまた手紙を書こうと思って、友人と行った文具屋で新しい便箋を買った。行けるかどうかも定かではないけれど、宣言明けの14日、15日にもそれぞれチケットをとった。チケットをとることはほとんど祈りに近い。

 

自分が何を感じたかを記録するというのは、考えるよりもずっと難しいことだ。日常の出来事についてのことなら、それは私だけが経験していることだから、何を書いたっていいと思える。だけど、ほかの誰かも読んだり観たりしている既存作品について言葉を見つけようとするとき、どうしても正解を探してしまう自分がいる。こう感じるのが正しいのではないか、という思考に引っ張られないように気をつけながら自分の心の動きを見きわめるということは、訓練していないとできるようなことではない。私はもうおとなだから、表彰されるための読書感想文なんかもう書かなくたっていいのだ。だから自分の感情の動きをとらえる練習というのをしてゆくぞ、と今は思っている。

ハイ・アドベンチャー

幸せな日曜日について話そう。前の日の嵐が嘘のような、抜けるような青空だった。起きだしたのは十時すぎ。干しっぱなしの洗濯物を畳み、皿を洗い、水回りを磨いて、掃除機をかけた。家を出たのは正午すこし前だったと思う。時間には余裕があると思っていたのに、服がなかなか決まらなかったせいでけっきょくばたばたした。髪の内側にピンクを入れたので、色の合う服を選ぶのに困るようになったのだ。クローゼットとにらめっこしながら、けっきょく濃い緑のタートルネックに、白のワイドパンツという格好にした。緑とピンクの組み合わせが案外悪くないというのは発見だった。先月大奮発して購入した日長石のリングと、母のお下がりのリングを着けて、せっかくの髪の明るい部分が目立つようにハーフアップにした。アイシャドウも髪に合わせてスモーキーグレーの上にピンクを重ねた。ひさしぶりにちゃんとめかしこんだ自分の姿がなかなか良くて、嬉しくて鏡の前でちょっとにやにやしてしまった。

すこし気合の入った服装をしたのは、行き先が劇場だったからだ。こどもの頃、年に一度くらいこういう公演に連れて行ってもらうときがあって、そういうときにはきまってよそゆきの服を着せられていた。だから、それから二十年以上が経って、好きな時に好きなものが観られるようになっても、劇場という場所は私にとって特別なところなのだ。ふだんよりすこし良い服を着て、背筋を伸ばした自分が行く場所。公演というのは、非日常であり特別であり、そうしてもたらされる特別に見合う自分でいたいような気がするんだと思う。家に帰るまでが遠足というフレーズがあるけれど、公演を観るという行為も、上演時間だけじゃなくて、起きた瞬間からはじまっているものだよなあと思う。

行けなくなってしまった友人にチケットを譲ってもらって、汐留の電通四季劇場で、開幕六年目?のロングラン公演『アラジン』を観た。このあたりは仕事で一時期頻繁に通っていたので、休日に訪れるのはなんだか夜中に学校に忍び込んでいるみたいなわくわくがあった(学校に忍び込んだことはないけれど)。劇団四季の公演は、去年好きだった女の子と一緒に観た『ライオンキング』以来二度目だ。

もう最高に楽しかった。純度の高いエンターテイメントを浴びた時の人間が味わう幸福がこんなにも強烈だったこと、忘れていた。私がこういうエンターテイメントに心惹かれるのは、この数時間を作り上げるために裏で心血を注ぐひとびとの熱量を、作品を介して受け取れるからである。凄まじい熱量に殴られることは麻薬的な快感をともなう。演劇にかかわったのは、大学時代の最後の方の、ほんのすこしの期間だけれど、あの期間があってほんとうに良かったと思う。物語だけではなく、舞台装置や大道具、小道具、衣装、照明、音響、演出、そのひとつひとつの技術について私は無知だけれど、すくなくともあらゆるプロフェッショナルが集って作り上げる作品という視点で公演をとらえることを学べて良かった。実に凄まじかった。豪華絢爛な衣装の数々にも、壮大な優美なセットにも、照明も、何もかもに圧倒されっぱなしだった。ずっとわくわくしていた。小道具は1000点以上、衣装は300着といずれも四季の演目史上最多であることをあとから知って、納得した。学生演劇はどうしたって予算に大きな制約を受ける。あの頃の私たちが泣く泣く諦めたことを、飽かずに徹底的に追い求めたらこうなるのか、というじりじりとした憧憬もあいまって、ずっと胸におおきな感情の塊が詰まっていた。

ふたつ、この公演について絶対に書いておきたいことがある。

とっても楽しかったし、大好きになったからこそ、手放しで何もかも良かったと言えるわけではない、ということを強調しておきたい。王位を狙っていて、そのために願いを叶える魔法のランプを手に入れようとしているジャファーが、ランプのある洞窟に入れるのがアラジンだと知って彼を探しだした時に「おまえのことをずっと探していたんだ」みたいなことを言うシーンで、ジャファーの家来のイアーゴが「変な意味じゃないよ!」と茶々を入れる台詞があった。話の流れからしたら明らかに不要な、笑いをとるためだけに挿入された台詞だ。「変な意味」というのが「男が男を好きになる」ことを意味している以上、それを笑いどころとして扱った脚本は残念に思った。「男が男を恋愛の文脈で見る」ことは「変な」ことなんかではないし、そういうの、ぜんぜん面白くない。観客がそれに笑ってるのも最悪だったけれど、何よりもしんどかったのは、小さなこどもの笑い声がその中に混じっていたことだ。姿は見ていないけれど、声の印象だけでいうと小学校低学年か、もしかしたら未就学児くらいかもしれない。そのくらいの年齢でもあれを笑いどころだと思える価値観が醸成されていることに、ホモフォビアはこうやって再生産されていくんだなというのを実感させられて落ち込んでしまった。一緒にいた友人はすでにこの公演を六回ほど見ている人で、開演前に「たぶん二、三回はアウトなシーンがあると思う」と予告されていたけれど、終演後すぐに、どちらからともなく「あのシーンでこどもが笑ってたのきつかったよね」という話になった(友人が友人たる理由である)。これ以外にもイアーゴの台詞にはきつめのミソジニーが匂っていて、何度かすっと真顔になってしまった。もったいないなあ、と思う。真摯に創られた作品だというのはよく伝わってきたから、そういうところでケチがついてしまうのは悲しい。誰かを傷つけたり踏みつけたり馬鹿にしたりせずに人を笑わせる方法はかならずあるはずだと思いたいし、私はそういうものが見たい。エンターテイメントってそういうものであってほしい。

もうひとつは、新しい推しを見つけてしまった話。アラジンの友人のズッコケ三人組のひとり、カシームを演じる田中宣宗さんである。かなり序盤から、舞台上に彼がいるときは、視線が自然とそちらに引き寄せられていた。何がそんなに自分に刺さったのかよくわからずにいるのだけど、彼がいなければ、私は終演後すぐに四季の会に入って来月のチケットをとったりはしていなかったと思う。なんだかよくわからない熱に駆られたまま、月曜は仕事の合間にファンレターを書いて、そのまま郵便局に切手を買いに行って投函したりしていた。特定の誰かを推すという行為を生活の中心において五年近くが経って、いろんな人を推してきたけれど、ファンレターを書いたことは一度もない。ジノには何度か書こうと思ったことがあるけれど、自分が流暢に使えない言語で書いて伝えたいことを取りこぼすのも、相手に不自由な言語で書くことも、自分に気づいてほしいというファンの肥大化した自意識に飲まれて手紙を送る愚かさも嫌だったから、けっきょく実行に移したことがなかった。ずっと自分の中で幸福を味わって浸って満足していた。だから、自分でも驚いている。こんなふうに、あなたの舞台を見て楽しくて嬉しくで幸福だったよ、というのを伝えたくなる気持ちって、あんまりなかった気がする。何が自分をそうさせたのだろう、と思うから、早くまた観に行きたい。次は4月3日だ。その日のカシームのキャストが田中さんかどうかはわからないけれど、そうだったらいいなあと思う(でも、あの舞台をもう一度観られるだけでもとても楽しみ)。こうやって勢いよく坂を転がり落ちてのめり込んでいく瞬間がいちばん楽しいかもしれない。友人には「目の前で沼落ちしていく人間、おもしろかった」と愉快がられた。

この三、四年はアイドルのコンサートばかりだったけれど、今年に入って幾つか舞台を観て、久しぶりにこちらの楽しさも思い出したので、今年はもっといろいろ観たい。チケットを譲ってくれた友人も、この日一緒に観に行った友人も、学生時代一緒に演劇をやっていた間柄だ。今年の年明けには三人で宝塚を観に行った。ひとりは東宝や四季、もうひとりが宝塚と、ジャンルの異なるオタクでもあるので、いろいろ連れて行ってくれるように頼んでいる。終演後にふたりと飲む酒が楽しいというのもある。来月にもまた三人で観劇して酒を飲む会をやろうと話している。

魔法使いと音楽

年明けから『魔法使いの約束』(まほやく)というゲームをはじめた。信頼する友人が心臓をがっちりとつかまれている様子をツイッターで見ていて、自分もやりたくなったのだ。『IDOLiSH7』にしてもそうだけど、大事にしたいものとゆるせないものの基準が似通うひとびとが心酔しているコンテンツは安心して飛び込むこともできるし、高い確率でたましいに刺さる。そうやって出会わせてもらった作品がたくさんある。それでいて、彼らと推しが重なることはめったにないから、おもしろいなと思う。人がなにかに惹かれるとき、惹かれるという行為にもたましいが宿るのかもしれない。誰かを、何かを好きになることの代替不可能性。

昨年の後半に熱を上げていたハイキュー!!やFree!も、二次創作の断片をぽろぽろと生み出してはいたのだが、昨日、ほんとうに数年ぶりに、短編をひとつ完成させた。終わらせることがひとつの才能である、というのは同人の世界ではよく言われることだけど、私はほんとうにその才能がない。創作に限った話ではなくて、仕事でもそうだ。とにかく完璧を求めてしまうのがいけない。その短編にしても、たかだか七千字を書くのに二週間以上かかっている。もっとも、そのうちの一週間以上は行き詰まって進捗も何もあったものではなかった。九割がた書けたかな、というところで何を書き足してもしっくりと来なくなってしまい、ああまたこれも終わらせられないのか、と半ばあきらめていたものだから、昨夜、何かのつかえが外れたように最後の数百文字がさらさらと書けたときには、思わず自分は夢を見ているのかと疑ってしまった。書けた。書けた!!!

さておき、そのまるで書けなかった一週間のあいだに、魔法使いたちと音楽のことを考えていた。それがものすごく楽しかったので、書き残しておくことにした。後述するけれど、私自身はクラシック音楽に造詣が深いとは言い難い。中学の部活ですこしかじったくらい。音楽の教科書に取り上げられるような有名どころばかりだし、曲について書いてあることのほとんどは、インターネットで聞きかじった知識にすぎない。その道の人が見たら鼻で笑い飛ばされてしまうような稚拙なものかもしれないけれど、それでも、好きだから、言葉に残しておきたい。これは私のための戦いのひとつ。

すっかり楽しくなってしまったので、Apple Musicでプレイリストも作ったりして、ここ数日はずっと聴いている。楽しくてたまらない。オーケストラや指揮者によっても曲の表情は変わると聞くので、ゆくゆくは好きな演奏を見つけられたらいい。

music.apple.com

中央の国

オズ

ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68 第1楽章
ブラームスの第1は、第4楽章が一番好き。初めて聴いた中学生のときは「なんだこの長くてつまんねえ曲は」と思った記憶があるのだけど、いつのまにかドヴォルザークの『新世界より』とならんで好きな交響曲のひとつになっている。ブラームスの第1は、広いな、と感じる。海みたい。スケールの大きな自然の造形を前に神の存在を思わず感じてしまうような、ああいう感覚を聴いているとおぼえる。でも、第4楽章は、オズにはちょっと穏やかすぎるかなと思って、もうすこし理不尽さを求めたら、第1楽章に落ち着いた。雄大で強大で、理不尽で、不穏で、そびえたつ姿におもわず畏怖の念が湧いてしまうような印象が、世界最強の魔法使いの雰囲気にはふさわしいように思った。荒々しさを求めるときはまずアレグロをあたれ。オズとアーサーの愛に満ちた穏やかな日々として第4楽章を聴くのも味わいがあって好きだけれど。

アーサー

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92 第1楽章
弱冠十代の彼が背負うものは、あまりに大きすぎやしないかと心配ばかりしているけれど、こういう華やかで明るい曲を彼に結びつけてしまうような悪意のない期待こそが、背負わせている側なんだろうか、と選んでからはたと気が付いた。それでも、彼のしなやかな強靭さは、虚勢じゃない。オズへの信頼に裏打ちされた、地に足のついたものだ。愛とは双方向性の中でしか築きえないもので、アーサーはそれをよく知ったうえで、オズの愛を疑わない。それができることが強さだ。王子としての役割を理解し、それでいて傀儡にならない利発さを兼ね備え、君主としての器を存分に開花させる聡明な君に幸あれ。これは祝福の音楽だと思うから。

カイン

メンデルスゾーン 劇音楽《真夏の夜の夢》作品61 第9番 結婚行進曲
実は、はじめアーサーと同じベートーヴェンの第7番の第4楽章を選ぼうか迷った。華やかさはカインに合っているし、中央の主従をそこでつなげるのもありだと思ったから。それと、この交響曲というのはワーグナーに「舞踏の聖化」と言わしめた(これは褒め言葉らしい)ほどにリズム感の強い楽曲で、年に百回は踊るという踊り好きの男にはぴったりじゃないか、と思っていたのもある。それでも、この結婚式の定番曲を、ひとたびカインだ!と思ってしまったら、もうこれしか考えられなくなってしまった。華やかなファンファーレから幕を開ける、底抜けの明るさ。気圧されてしまうくらいの、まじりけのない、まばゆさ。ともすれば息が止まりそうなほどの、心臓のど真ん中を撃ち抜いてくる直球の甘やかさ。それがカイン・ナイトレイという魔法使いではないか。

リケ

チャイコフスキー バレエ音楽《くるみ割り人形》 第12曲 ディヴェルティスマン 1. チョコレート
賢者の魔法使いに選ばれるという出来事は、リケの少年性に強制的に終止符を打つようなものだ。教えられるもの、与えられるものを享受していればよかった時代の終焉は、夢の終わりと似ている。目が覚めれば、自分で思考し、自分で選択し、正義を懐疑することを迫られる。典型的な夢オチ、とくくってしまうにはあまりに魅力的な物語だけど、だからくるみ割り人形を選んだ。このバレエ音楽の曲はほんとうにどれも可愛らしいので、どれにするかでかなり迷ったのだけど、イベント料理でチョコレートを渡したら「僕を誘惑しないでください」と葛藤するリケが記憶に新しくて、これに落ち着いた。リケはまだ危ういなと感じることも多いけれど、自分がこれまで信じてきた正しさ以外の正しさが世界には存在する、ということはちゃんとわかっていて、その怖さときちんと向き合おうとする逞しさもあるので、この先どんな聡明な人になってゆくのだろうと楽しみに思う。と同時に、なんだかこちらまで背筋がのびる気がする。

北の国

スノウ

ベートーヴェン 交響曲第5番《運命》 ハ短調 作品67 第1楽章
この交響曲が語られるとき、避けては通れないのが第1楽章から第4楽章までかけての物語性だ。絶望から希望、暗から明、苦悩から歓喜。「運命動機」とよばれるジャジャジャジャーンのフレーズを、ベートーヴェン自身は「運命が扉を叩く音」と形容したそうだ。望んでもいないのに突然踏み込んできた運命のせいで自分の半身を殺めてしまったスノウのこれからにおいて、第4楽章は訪れるのだろうか。希望めいたものはあるかもしれないけれど、希望が存在することはあるんだろうか。激情と不条理。愛憎、という称号は、この双子にこそふさわしいのでは、とたまに思う。スノウの音楽だと思って第1楽章を聴いてから第4楽章まで聴くと、ものすごく虚無感に襲われる。襲われている。

ホワイト

ショパン 即興曲第4番 嬰ハ短調 遺作 作品66 幻想即興曲
中学でいちばん仲の良かった友人はピアノがすごく上手な人だった。音楽の授業の前や部活が始まる前の音楽室で、私はいつも演奏をせがんでいた。中でもいちばん私が好きだったのがこの幻想即興曲で、彼女の指がめまぐるしく鍵盤のうえを走る様は何度見てもどうなっているかわからなくて、ただ見とれているのが楽しかった記憶がある。人間の指が、あんなふうに音を紡ぎ出せるんだ、というのは何度味わっても新鮮な驚きをもたらすけれど、その魅力をはじめて知ったのがこの曲だったのかもしれない。中学生にしてこの曲を弾きこなしていた彼女は、音楽大学の指揮科を卒業したと風のたよりで聞いた。ホワイトにこの曲をあてたのは他でもない、彼が幽霊だから。降り積もった雪にすべての音がすいこまれてしまうような静寂の音、白の世界にあってスノウと作るステンドグラスが日に透けるときの彩り、スノウとじゃれあう言葉遊びの軽快さ、そのうしろに隠れる孤独感。雪と氷の結晶にきらめく光のような音の粒が並んでいる曲だと思う。

ミスラ

ホルスト 組曲《惑星》 作品32 第1楽章 火星-戦争をもたらす者
ミスラはいちばん最後まで決まらなかった。陰鬱さの濃い音を求めてシベリウスの交響曲を幾つか聴いてみたのだけど、それだと彼の荒っぽさも、底の知れない魅力も、それでいて人懐こい甘さがあるところも足りなくてしっくり来なかった。後回しで考えるつもりで、ほかの魔法使いにつかえないかなと思ってアルバムで流し聴いていたホルストの組曲《惑星》で、不穏で強そうなのが流れてきて、ミスラっぽいな、と思ったのがこれだった。曲名の『火星-戦争をもたらす者』という文字を見た瞬間、暗い緋色の髪と酸化鉄で赤茶けた星の地表、強大な魔力を持つ魔法使いと軍神マルスがさっと重なって、これだ!と思った。ミスラが得意とする空間転移の魔法が、違う惑星という「異世界」に通じるのもあるのかもしれない。ちなみに、『木星』のシャイロックとか『天王星』のムルもちょっと悩んだ。

オーエン

ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲第2番《夏》 ト短調 第3楽章
ヴィヴァルディの四季といえば、頭に残るフレーズが印象的な春が定番だけど、景色が鮮やかに目に浮かぶこの夏の第3楽章がいっとう好きだ。オーエンにはやや生命力旺盛すぎるだろうかと思わないでもなかった、というかはじめは冬の第3楽章を選ぶつもりだった。でも、魂を隠してまで死を避け続ける生への執着が生命力でなくてなんなのか。それと、気まぐれに雷鳴を轟かせる夕立みたいな印象も合うと思った。他者を支配したがる彼が、それでも自分の抱えるままならなさ(厄災の傷もそうだし、カインの目を奪ったことも、死ねないことも、オーエン自身が心から望んだことというよりは、ある種の不可抗力でそうなってしまったように見える印象が強いので)に振り回されてしまうところなんかがそれっぽいような気がした。冬の第3を選ばなかったのは、ぜんぶがきれいすぎて、オーエンの思い通りになっているように思えるところに物足りなさを感じたから。ちなみに春のほうは「春だよ!楽しい季節がはじまるよ!暗い季節は終わりだよ!楽しいでしょ?嬉しいでしょ?」という押し付けがましさを感じるのでちょっと苦手。

ブラッドリー

ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》 ホ短調 作品95 第4楽章
クラシックでひとつ好きな楽曲を挙げよ、と問われれば迷わず『新世界より』を選ぶ。いちばん好きなのは第1楽章なのだけど、この第4楽章の雄大さと華やかさも心をとらえて離さない。鈍く重たい曇天がぱっと裂けて、光が差し込むような粗忽な優雅さ。財宝を手にするために、新天地を暴力と権力と人望で切り開く、盗賊団を率いる男の物語。「運命の脱獄者」たるブラッドリーだからたどり着ける新世界。

東の国

ファウスト

リスト ファウスト交響曲 第1楽章 ファウスト
もともとは神経質ななかにも優しさを感じるシベリウスの交響曲第1番第1楽章を考えていたのだけど、インターネットの波をさまよっているあいだに出会ってしまったのがこれだった。名前の通り、ゲーテの戯曲『ファウスト』をテーマにした交響曲。おもしろいと思ったのは、物語の流れを音で再現しようとするものではなく、ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスという主要人物の性格像をそれぞれの楽章で表現する試みだったこと。まほやくのファウストがゲーテのファウストに着想を得ているというのは疑いようがないと思っているけれど、そういう視点で聴いてみると、いくつかの主題で表現しているとされる生命への懐疑、英雄時代の情熱と闘争心、探究心と知識欲、みたいなところは、なるほど重なる部分があるように思える。ゲーテのファウスト、おおまかなあらすじを知ってるだけでちゃんと読んだことがないので、必修課題だなあ。フィガロがメフィストフェレスっぽいって解釈している人も何人か見かけたので(たしかにわかる)、掘り下げてみたらぜったい面白い。今読んでる度会好一の『魔女幻想 -呪術から読み解く中世ヨーロッパ』という新書ではマーロウの『フォースタス博士』についても言及があるので、そちらと読み比べて見ても面白そう。というかまほやく、必修課題本がたくさんある。楽しい。

シノ

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18 第1楽章
この少年のことがずっとわからなかった。ヒースも、ファウストも、ネロも、人付き合いがそれぞれ下手くそなところに愛着をおぼえたし、自分と重なる部分を感じてゆるされたような気持ちにもなった。だから東の国推しになるのはほとんど私にとっては必然で、なのにシノだけはどうしてもわからなかった。愛など自分にふさわしくないと思っていそうなヒース、愛を信じることをやめたファウスト、愛が何か知っているけど知らないことにしたいネロ、そのなかにあって、主君たる友人への愛をためらいなく口にする少年。そのまっすぐさが、眩しくて、羨ましくて、なんならすこし苦手ですらあった。やっとすこしわかったような気がしたのは、雑誌でシノの過去について触れた都志見先生のショートストーリーを読んだときだ。シノの世界は、ヒースをはじめとするブランシェット家と、それ以外とできっぱりと断ち切られている。そしてシノは、自分は「あちら側」にはいけないのだと思っている。優しさ、高貴さ、温もり、汚れをけっして知らぬこの世界のありったけの美しいもの全部を詰め合わせたのがブランシェット家だと思っているから、そしてそれは血と泥と罪にまみれた自分には望むことすらかなわない別世界のものだから、だからあんなにもまっすぐな称賛と敬愛を表明できるのだ。ヒースとシノの会話には、いつだって徹底した相互不理解が横たわる。ヒースは見上げられるよりも、隣に肩を並べて同じ方向をともに見通すことを望んでいるけれど、たぶんそれはかなわない。だってヒースは、シノにとっての太陽だから。たぶん、この短編を読まなかったら、この曲選にはなっていなかっただろう。救貧院から逃げ出した裸足にまとわりついてくる死神の気配も、おなじようにまとわりつく、善意に見せかけた不愉快な支配も、善も悪も問わずに生き抜くことを優先した意志の強さも、それでもほんとうは傷ついていたことも、容赦のないシャーウッドの森の厳しさと荒々しさも、ブランシェットの人と出会って紛い物ではない愛と優しさに光を見たことも、それでもどこかに残る寂寥感も、音に見る。泣きたくなる。

ヒースクリフ

ドビュッシー 版画 雨の庭
上原ひろみというジャズピアニストの、Hazeという曲が大好きだ。音から景色を描き出せるひとが実在することをこの曲で知った。悲しいことに、この音の雫が私に見せる景色を、その美しさを、言葉に落とし込む術を私は持たない。立ち込める靄に曖昧になっていく景色の輪郭だとか、気付かぬ間にしっとりと濡れる肌や髪だとか、雲の合間から差す陽だとか、ひかりをうける雨粒のきらめきだとか、水滴をまとった草木の鮮やかなみどりだとか、そういうものが鮮やかにまぶたの裏に想起される。ヒースのことを好きになったばかりの頃から、その曲がヒースらしいなあと思っていた。それで、同じような空気感をまとった曲を探そうと思って、すくない知識で最初に思い当たったのがドビュッシーの月の光だった。それでドビュッシーの曲を聴きあさっていたら、雨、という曲名が目に留まった。導かれるように再生したら、雲の立ち込める朝、ベッドに身を横たえたまま雨音に耳を澄ますヒースの姿が浮かんできて、あまりに思い描いたとおりの音だったから思わず口元が緩んでしまった。シノにまとわりつく灰色の悪魔を、ヒースの雨が洗い流せてやれたらいいのにな。

ネロ

ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》 ホ短調 作品95 第1楽章
『新世界より』をネロとブラッドリーで揃えてしまったのは、言い逃れのしようもない元相棒シッパーの業である。華やかな第4楽章に対して、この第1楽章はもっと穏やかで陰鬱な印象が強い。盗賊団から足を洗って東の国に住み着くあたりの音がこんな雰囲気じゃなかろうか、と思って選んだ。ふたりにとっての「新世界」はけっして重なるものじゃないのだ、という考えがうしろにある。 "元" 相棒はどこまでいっても "元" でしかいられないんである。そしてたぶんそれは、重なっていたものがあるとき離れてしまったわけでもなく、相棒として肩を並べ合っていた頃から、きっと。そういう元相棒が好きだっていう私の性癖による曲選でお届けしています(最初から最後までそう)

西の国

シャイロック

ハチャトゥリアン 組曲《仮面舞踏会》 ワルツ
仮面舞踏会は部活でやった曲だから、中1だか中2だかの時に初めて聴いたんだと思う。その時から十数年後の今に至るまで、この曲の印象は一貫して「怖い」というのがもっとも強い。こんなにも華やかできらびやかで楽しげなのに。印象が一貫しているといえば、シャイロックのこともずっと怖いと思っている。こちらがシャイロックに純粋な好意を向けたとき、彼にとってはそれが何の意味も持たない感情なのであろうことがわかるから、怖い。他者をムルとそれ以外で分けているのだろうと感じる時がしばしばあって、おそらくシャイロック自身がそれに自覚的なんだろうと思うから、怖い。本編第1章で、肌にまとわりつく風を「後腐れた情人の指先のよう」と形容してしまえるこの人は、いったいどれだけの「ムル以外」を切り捨ててきたのだろう、と読み返した時鳥肌が立ったくらい。彼の前に存在する私は、ときどき「その他大勢」でしかなくて、それを思うと、足元の地面がすとんと抜けて、どこまでも落ちてゆくような気持ちになる。仮面舞踏会というのは、自分を隠す場所だ。誰もが、自分以外であり、その他大勢のひとりになる場所。

ムル

ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
私がこの曲をちゃんと聴いたのは、高校でビッグバンドジャズの部活に入ってからだ。それも、ごりごりのジャズバンドで思いっきりスウィングを効かせた音源で。だから、これがどちらかといえばクラシックと類型されることには、いまだに違和感がある。それくらいにボーダーレスな楽曲。幾つもの肩書をもって越境していく、突拍子のなさを持つムルはこれしかない!と思った。ゲームのプレイ開始から50日とすこしが経った今、魔法使いたちのことは考えれば考えるほどわからなくなっていくけれど、ムルという人はその最たるものだ。何もわからない。どんなムルを考えても正解にならない。でもそれこそがムルなんだろうな、と思わされるところが、クラシックとジャズの境界を軽々と行き来するこの曲に似通っていると思う。類型など無意味だ、どちらかに収まる俺じゃなくても愛して!と人差し指で花火を生みながら彼は言う、だろうか。

クロエ

メンデルスゾーン 交響曲第4番《イタリア》イ長調 第1楽章
ひさしぶりにこの曲を聴いていて、西の人って長調って感じだなあと考えたのが、この遊びのすべての発端だった。この曲は明るくて、優しくて、楽しげで、派手過ぎない華やかさがクロエらしいなあと思う。デザインを考えながらスケッチブックに真剣な顔で向き合う姿、丁寧にミシンに布を走らせる器用な指、できあがった素敵な服のたもとが風にひらりと舞う様子、そういうものがぱっと浮かんでくる気がして。

ラスティカ

ブラームス ハンガリー舞曲第7番 ヘ長調
ワルツのリズムというのはどうしたって陽気になるものなんだろうか。明るさと優美さ、陽だまりのような柔らかさと、ときおり驚かされる茶目っ気を音から感じるところが、ラスティカらしいかなと思った。天気の良い午後の日、美しいティーカップと、香りの良い紅茶と、上品な甘さの茶菓子の似合う曲だ。バッハあたりからチェンバロの曲を選んでこれたらいいなと思ったんだけど、あまりしっくり来る音源がなくて残念。また探してみたい。

南の国

フィガロ

ショパン 革命のエチュード
二千年という時間を生きてきたフィガロには、もっと壮大な交響曲を選ぶんだろうな、と漠然と思っていた。そのはずだったのに、口直しがてら流していたショパンのアルバムで偶然『革命のエチュード』が流れた瞬間、一音目で「あ、これだ」と思ってしまった。考えてみれば、孤独と切り離して語ることのできない魔法使いの音楽が独奏曲になるのは必然かもしれないな、とあとから納得した。私はフィガロのこともしょっちゅう怖いと思っているのだけど、彼におぼえる怖さは、底が見える類のものだ。深い、深い、光の届かない海の底のような。そこには果てのないさみしさが同居している。フィガロのことを考えるとき、孤独について考えずにはいられないし、そのまま自分の孤独と向き合わされるのがわかっているから怖いんだと思う。フィガロにとって他者はフィガロを存在させるために必要で、だから彼のまえで私も存在できるのだけど、そのことがどうしようもなく悲しい。革命の音楽なのに、ピアノの音しか聞こえない。革命はひとりではできないのに。

ルチル

ドビュッシー アラベスク第1番
群像劇が好きだ。すなわち、クラシックなら交響曲が好き、ジャズならビッグバンドが好き。それぞれ別々の動きをしているものたちが織りあげられてひとつの景色を描き出すようなものが好き。そんなわけで、これまでは協奏曲も、独奏曲もほとんど聴いたことがなかったのだけど、ドビュッシーの音って、真摯だ。というのを、この遊びをやってみて新しく知った。ヒースクリフもそうだけど、ルチルもまた、真摯さというのをよく実践している人だなあと思う。穏やかで優しくて、それでいて、有無をいわさぬ芯の強さがある人。守りたいもの、愛したいものをまっすぐと見据えることのできる人。

レノックス

スメタナ 連作交響詩《我が祖国》 第2曲 ヴルタヴァ
友人が以前、レノックスのことを「ずっとすこやかなんだけど、何も考えないから能天気にすこやかなのではなく、考えてすこやかな人」と評していたのにすごく納得した。同じことを、私なりに言い換えるとするなら、川みたいな人だと思う。悠々と、滔々と水をたたえ、静かに流れる大河は、いつの日もそこに在ることを疑わせない。レノックスはそういう人だ。プラハは、数年前に訪れたことがある。どこを切りとっても絵になる、美しい街だった。美しすぎて、すこし息が詰まるくらいだったのだけど、カレル橋からヴルタヴァ川を眺めたとき、水面はどこも同じだな、とずいぶん気が抜けたのを覚えている。きらびやかに飾り立てるのはいつだって人間の作り出す街並みのほうで、川はきっとずっと前からその姿を変えずにその時代ごとのひとびとの生活に寄り添ってきたのだろうな、と考えたことを思い出しながら、この曲を選んだ。

ミチル

デュカス 交響詩 《魔法使いの弟子》
どうしても本編で回収されていないミチルの不穏さを匂わせる伏線に引きずられて、あんなにも愛らしい少年にはおよそそぐわない曲選びをしてしまう。第2部でそのあたりは解き明かされるのかな。この曲は、魔力をまだうまくつかいこなせない魔法使いの弟子が師匠の見ていないところで魔法を使おうとして失敗してしまう、という内容のゲーテの詩がもとになっているそうだけど、そういうところもミチルらしい。詩の意味をわかってから聴くとシーンがおぼろげに想像できるのも楽しい。

 

こんなにいろいろ書くつもりではなかったのに、魔法使いたちに対する思いまで筆にのせていたら想像以上の分量になってしまった。七千字の短編に半月かかったわりに、一万字のこれは一日で書けてしまうのだから、自分のことがわからない。楽しかったから良いけど。

この遊びをとおして、ずっと考えていたことがあるので、それを最後に書き残して終わりにする。

クラシックは、中学の部活で初めて触れた。なんらかの部活・同好会への所属は校則で必須だったのだが、とにかく運動部は嫌というくらいで、とりたててやりたいこともなかった私は、知り合ったばかりのクラスメイトと一緒に見学に行ったオーケストラに、深く考えずに入部を決めた。その前年だかに『のだめカンタービレ』のドラマが放映されたばかりだったこともあって、入部希望者は多かった。かくして、それまでピアノを弾いたこともなければ、五線譜の読み方も知らなかった私はトロンボーンという楽器に出会うことになった。

楽器は、中高の6年間は楽器をやめないこと、というのを条件に買ってもらった。ずっとオーケストラをやっていくのだろうと思っていたけれど、結局、せっかく中学受験して入った中高一貫校でエスカレーター進学を蹴って、外の高校を受験した。中学の3年間でクラシック音楽におけるトロンボーンの出番の少なさに物足りなさをおぼえていた私は、高校ではビッグバンドジャズにのめり込んだ。その頃の話もすこしずつ振り返ることができるくらいには過去になったし、いずれまた書きたいと思うけれど、そんなわけで、この27年のなかで、私が「クラシックに触れていた」といえる期間はたったの2年半だけだ。何も知らないというに等しいけれど、でも、今でも時おり聞き返す曲のほとんどは、その頃に出会ったものだ。

学校というのは、そういう場なのだよなと思う。学生期間で学んだことのうち、学生を終えてからの生活で直接的に活用できるものの割合なんて、たかが知れている。とくに積極的な意欲もなく触れたクラシックに、十数年後の今、好きな作品と結びつけて遊ぶという楽しみ方ができることを、あの頃の私は知るよしもなかった。当時は意味を見いだせないまま出会ったものたちが、今の私を形作っていたりする。数式の美しさが救いになるひともいる。絵を描くことが、本を読むことが、化学式を知ることが、救いになる人がいる。多くの生徒には届かない何かが、たったひとりの誰かにとっては光になりうる。だから学校教育というのは、なるべく多くの人に、それぞれの救いのいとぐちを見つけられるよう手助けする場なんだと思っている(もちろん学校以外で光を見出すことだってできる。それはそのまま、学生じゃなくなった私たちが学びたいと思う理由だ)。それは、誰かを救えるはずのない私が教員という職業を選ばなかった理由でもあると同時に、その仕事にいいまだに諦めをつけきれない理由でもある。人を救いたい、だなんて大層なものじゃないけれど、でも。

魔法使いと○○シリーズ、友人とそれぞれで考えた鉱物編も楽しかったから、あれもそのうち文に残したい。