Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

生きているんだ、愛せるか

日頃、あらゆる鎖を自分にかけている。それは自分がどう生きたいかという信念に基づいた、対外的なものである場合もあるけれど(たとえば差別を容認しないだとか、他者を断罪しないだとか)、もっと個人的なものであることが多い。漢字表記にする文字と、ひらがな表記にする文字を使い分けるとか、「この言い回しを使ったら言語化への敗北だ」と思うようなフレーズは使わないだとか、たぶん、他者からは理解できないかもしれない、される必要もない、そういう些細な制約だ。とくに言葉に対しては一定の矜持があるので、こういう細々とした自分への律法がある。
 
鎖と表現したのは、それらが「~する」という意志の形ではなく、「~しない」という否定形をとるからである。私はこれをする人間だ、よりも、私はこれをしない人間だ、のほうが、自分がどういう人間であるかを説明するうえで有用だと思っている節がある。他人もそれで判断することが多いかもしれない。自分に課しているものを、必ずしも守りきれるわけではない。それでも、自分の可動域を狭めていると、自分の輪郭がはっきりするような気がして、安心する。それはつまり、自分で定めた輪郭からはみ出てしまったとき、私は自分のことをゆるせないということでもある。
 
そういう生き方をストイックだとか真面目すぎるだとか評されることもあるけれど、気遣う体で考えすぎだ、というひとを私は信用しない。考えすぎることなどないし、考えないでいるよりもずっと良い。考えて苦しいのと、考えずに楽になるのとだったら、迷いなく前者をとるし、そういう人間でありたい。だけどそれにしたって、もうすこし肩の力を抜く方法を学んだほうがいいのかもしれない、とようやく最近になって思うようになってきた。自分をゆるせる時間があまりにも少なすぎる。自分のその性格のせいで、大事にしたいはずのものまで疎かになっているからだ。そんなのは本末転倒だと思う。
 
5月の連休明けにはじまったプロジェクトは、それはもう目が回るほどの忙しさで、振り落とされないように必死で食いついた。25年半生きて、はじめて、自分がちゃんと頑張れていると思った。でも渾身の力を振り絞るような働き方に、当然持続力なんかあるはずもなかった。6月も半ばになってプロジェクトの折返しに入ってからは、ほとんど燃え尽きて、また頑張れていない自分を責める感覚がじわじわと蝕んでいくようになった。上司は、5月に頑張ったのだからバランスをとっているだけだと私を諭してくれたけれど、やっぱりゆるせない。頑張れない日が1日あると、次の日に2日分頑張らないといけないような気がする。もちろんそんなことはできなくて、2日分どころか、その日も半日分しか頑張れなかったような気がして、そうやって罪悪感の負債が重なっていく。その負債を精算せずに息を抜こうとしても、どうしても怠惰に思えて気が休まらない。だけど負債はあっという間に嵩んで、もうとっくに返済できない。そうでなくたって支払い能力が低いのだ。諦めるだけの豪傑さがあれば、そもそもこんなことにもならないわけで、めそめそしながらそれでも利子を返すのが精一杯、みたいなそんな毎日。
 
だから、アイドルを追いかけるところまで、とてもじゃないけど気持ちがとっておけなかった。それでなくても、だいぶ疲れていた。間断なく流れてくる情報に翻弄されて、その中で彼らのスケジュールを把握したり、自分の都合をつけたり、お金の工面をしたり、申込みをしたり、入金したり、飛行機や宿をとったり、際限なく提供されるコンテンツに目を通したり、もうそういうのに疲れていた。彼らの世界は速すぎて、どんどん置いていかれて、もっと自分の速度で歩きたくなっていた。彼らは私の希望で、光で、だけど気晴らしにそういうものに縋ってみようとしたところで、自分の立っている場所が暗闇であることに変わりはないのだ。その光を手にしたいのなら自分でここから歩き出さなくてはいけないのに、もっと暗闇を味わわないと、前に進む資格すら自分にはないような気がしていた。
 
だから、セブンティーンの新曲も、毎月楽しみにしていた月末のジノのカバー企画も、公開当日に観ることはなかった。もともと、会社員になってからは、カムバックでもなんでも、公開の瞬間に視聴するということはあまりしていなかった。それよりも、その日自分がやるべきことを終わらせて、心を軽くした状態で向き合うことに重心を置いていた。そのほうが彼らの新しい姿で自分をぜんぶ満たすことができるような気がしたし、それが彼らの芸術に対して真摯でいるために自分ができることだという気がしたからだ。だけどそのうち、やるべきことが終わらない状態がふつうになった。負債を返したり、あるいは増やしたりしながら時間だけ過ぎて、罪悪感を抱えたまま、彼らの姿を目にするのが後ろめたくて、そのうちに熱が引いていくのを感じていた。寂しかったけれど、まだゆるされないと思っていた。まだ彼らに向き合えるだけの自分になっていない。ふさわしくない。
 
それでも、一括返済とかできなくても、報われる日というのは来るみたいだ。最後の最後、佳境に差し掛かった頃によりによってパソコンの電源がつかなくなって修理しなくちゃいけなくなったり、そのせいでめちゃくちゃ観たかった演劇を観に行けなかったりと災難に見舞われて、なんでこんな目に合わなくちゃいけないんだと悲しくて泣いたりしたけど、今週の後半になってようやく、5月から続いた怒涛のような日は一区切りがついた。忙しい時は死ぬほど忙しいけれど、終わってみればあっけないほどに暇なのがプロジェクトベースのしごとの特徴である。次のプロジェクトが始まるのは9月の頭なので、8月いっぱいは残業なしの8時間労働だ。うれしい。めちゃくちゃにうれしい。労働というものは本来そういうものでしょうと言われてしまえばそのとおりで、定時あがりとか仕事をしなくても平気な土曜日とか日曜日とか、そういうものに涙が出そうなくらい嬉しくて、嬉しいことが悲しい。それほどまでに、私は私の時間と生活を安売りすることに、すっかり飼いならされている。仕事はしたいけど、こんなにじゃない。ツイッターで見かけたその言葉がまさに至言だった。今のしごとをやめたいわけでもないし、ほかに行きたい場所もないし、ただもうすこしちゃんと生きたいだけなのになあと思う。
 
そんなこんなで、久しぶりに健康で文化的な最低限度の生活とやらにありつけて、昨日は一日家事をして、漫画を読んで、資産運用の計画を立てて、荒れっぱなしだった爪を整えて色を塗り直して、黒い侵入者を退治して、なんとなくやりたいなと思っていたことは全部終わらせることができた。それなのにまだなにかやり残したことがある気がして、まだゆるしてはいけない気がして怖かった。何度も終わった、ちゃんとやることはやったって自分に言い聞かせて、やっとセブンティーンの新曲を観た。
 
推しが、ばっちばちにセンターを張っていた。息をのんだ。好きだ!って強い感情がぶわあっと流れ出してきて、自分でびっくりした。無理に好きでいるものじゃないとは思うけど、私がひとりで歩けるようになったのはセブンティーンを好きになったからで、セブンティーンとずっと一緒に歩いてきたから、それを必要としなくなっていく自分が悲しいと思っていた。でも、好きだった。全然好きだった。惹かれた頃の、今にも消えてしまいそうな儚げな空気をまとっていた彼はすっかり鳴りを潜めて、勝ち気な表情の世界一美くて力強くて格好のいい男の子がそこにいた。王様だ、と思った。私の世界を統べる王様だった、ジュンくん。4月のコンサートで、コンサートに来てくれて、自分の名前を呼んでくれるだけで嬉しいんだって言ってた彼のことを思い出した。まだ会う元気はないかもしれないけど、でもこの先もやっぱり好きでいたいと思った。届かなくてもジュンの名前を呼んでいたいなあと思った。
 
それからジノのカバーを聴いた。しばらく見ないうちにすこしだけ丸くなったように思えた輪郭で、まっすぐにカメラを射抜いて、いろんな声音を使い分ける、私が好きになったボーカリストがそこにいた。ああ、会いたいなあと思った。このひとの歌を聴きたくて、あちこち追い回していた頃の体力は、今はもうないけど。お金はまえよりも手元にあるのに、引き換えに失ったものが大きすぎて、それが悔しくてたまらなくて、それを悔しいと思える自分に心底安堵した。ジノの歌声に感情をかき回されて、まだ自分の中に揺れるものがちゃんとあることを確認して、生きてるやって嬉しくなった。だって、生きようと思ったのはジノの歌があったからだったから。まだだ、まだ死んでない。
 
好きなものを好きだと思えることがこんなにも嬉しい、それが悲しい。ちゃんと好きなものを好きでいられるくらいの、息抜きの仕方は覚えたいと思った。ジュンくん、好きだ。大好きだ。ジノ、私は今でもやっぱりあなたと対等になりたい。まだ及ばないけど、ジノの生き方が好きだから、私も自分の生き方を愛したい。愛せるように生きたい。生きるんだ、生きるぞ。アイドルはやっぱり光だ。