Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

190401 夜が明けて春

日付が変わった。多くのひとにとっては新しい一年のはじまりのようだ。私にとっては次の一週間、次の一ヶ月のはじまりに過ぎないけれど、周囲のどこか心もとない空気に感化されて、少しばかりうしろを振り返ってみることにする。ちょうど2年前、大学院を退学したときの文章を読み返して、良いことを書いていたなと思った。このときから自分はずいぶん変わった。変わりたくなかったと思うことも、失ってしまった感覚も、記憶も、信念もたくさんある。たとえば、まえほど優しい人間ではなくなってしまったように思うこと。感覚を蔑ろにして、惰性で日々を蔑ろにすることを受け入れ始めてしまったこと。それでも、変わらないものもある。そのことにすこしだけ、胸を張れるような気がする。

 

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今日付けで、大学院を退学した。退学届は先月既に提出していたけど、書類上学生という身分を名乗ることができるのも今日まで。明日から私はどこにも属していない人間になる。23年間生きてきて、所属がないのは初めてかもしれない。社会人や院生として立派に生きている周りと己を比較して溜息をつきたくなることもしばしばだし、不安はあるけれど、何か/どこかをrepresentするでもない「ただの私」としていられる期間は、もしかしたら貴重なのかもしれない。周囲のひとびとが新しい生活へ踏み出そうとしている姿を見ながら、私も前に進みたいなあと思っている。退学はその第一歩だ。

自分の存在価値を疑い、否定し続け、悩んで苦しんできた約3年間に、ようやく区切りをつけられそうな、そんな光が最近見える。

いつだって志高く生き続けることができるほど私は強くない。負の感情に飲まれることも、誰かを馬鹿にしたり敵意を抱いたりすることも、傷つけてしまうことも、きっとこれからもある。だからこそ人間は神にはなれないし、そういうぐちゃぐちゃした「人間くささ」こそが美しさであるということも、演劇に関わるようになってから感じたことである。それでもそういった負の面を持っていることは、他者を傷つけていいことの言い訳にはならない、というのがこの半年考え続けて辿りついたひとつの答えだ。たとえ理屈が通っていようと正論であろうと、誰かを傷つける権利だけは、誰にもない。傷つけられるに値する人なんて絶対にいない。

まわりまわって就職活動という選択をしてみて今思うのは、社会に望まれるのが強い人であるということだ。頭が良くて、はっきりと自己主張ができて、実行力があるような人たちだ。どこの企業も似たり寄ったり、チャレンジ精神だとか変化に適応できる柔軟性だとか、表現は違えど「強い人」を募集していることに違いはない。そりゃ、そうだよね。すぐに心折れて立ち上がれなくなってしまうような人を採用するメリットが企業にあるはずもないのだから。すなわち、私が生きていこうとする社会では、強さとは正しさであるらしい。

だからといって弱さが正しくないものであるということにはならない。はずなのに、弱さを抱える人たちは、やっぱり社会に必要とされていないような、見えない冷たい視線に晒されているような気持ちになる。強い人たちがひっぱっていく社会は、弱い人たちには生きにくい。ネットの海でたまたま見かけた赤の他人への誹謗中傷にでさえ、体がすくんで動けなくなる程度の精神力しかない自分など、社会には必要とされないんじゃないかと怖かった。歩けばそこら中に転がってる悪意に躓くような世の中で生きなきゃいけないのならばいっそ生きてるのをやめた方が、って考えたことは何度もある。

でも今死んだら、何もできなくなる。行きたい場所もある、学びたいことがある、飲みたいお酒も食べたいものも、聴きたい音楽も撮りたい写真も書きたい文章もある。なにより、愛している人たちにもう会えなくなる。生きたいと思う理由も、死にたい理由と同じくらいこの世界にある。本当は死にたいんじゃなくて、生きるのが怖いだけなのだと気が付いたとき、せめて同じように弱い人たちを否定することだけは、私は絶対にするまいと決めた。完璧に実践できなくとも、心に留めておこう、と。どれくらいそれが意味のあることなのかはわからないけれど、同じように生きるのが怖いと思う人が、少しでも減ればいいと。

「数で勝る」というのも、間違いなく強さの一つだ。或いは、数で勝ること自体が正しさの根拠とされているがゆえに強さを振りかざせるのか、どっちが先かは定かではないけれど。

強い人たちが率いていく社会の恩恵を享受して、私はこれからも生きていくのだろう。でもその後ろには、言いたいことを言うだけの強さを持てずに声にならなかった言葉や、マイノリティであるがためにかき消されてしまった言葉が必ずあるのだということを、私は絶対に忘れない。今どこかで傷ついていて、つらくてたまらない人たちがいることから、私は目をそらさない。

学ぶうえでの軸であり続けたこの言葉を、学生でもなんでもなくなる、ただひとりの人間として、問い直したいと思う。

世界人権宣言 第2条
全ての人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

世界のあちこちで降っている雨があがって、いつか虹がかかりますよう。

 

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このときに比べて、私は強くなった。強くなってしまった。同じように弱かった人に、私も同じだといっても信じてもらえなくなってしまった。遠くなったと言われた。自分のことのように感じられた痛みを、感じなくなってしまった。それはまるで、自分が切り捨てる側にまわってしまったようで、すごく悲しい。強くなりたくなんてなかった、でも強くならなくちゃ生きていけなかったんだ。自分を赦せないと思うことばかりだ。でも、強くなったからこそできることもある。私は声をあげられるようになった。かき消されてしまった言葉の代弁者になろうなんて大それたことを言えるわけじゃない。それでも、口を噤むことしかできなかった昔の私のぶんまで、私は言葉にする。それが自分を愛することだと思うし、もしかしたら知らない誰かを愛することにもなるかもしれない。そうだったらいい。強くなった自分も愛したいから、2年前の私に書き加えたい言葉がある。

Justice is about making sure that being polite is not the same thing as being quiet.
正義とは、沈黙が礼儀と同義ではないということを確かなものにすることである。  

雨はまだ止まないかもしれない。濡れている誰かに傘を差し出すことくらいはできる人間でありたい。