Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

とどめを刺すなら今、この場で

 ちょうど一年前、初めてブログに投稿した文だ。もともと違うサービスを利用していたのだけど、こちらに統一するにあたって、当時の文章も少しずつ移していくつもり。この頃の私はまだ両親を大好きだという。少しずつ変わっている。変わってしまったものを、当時の形のままで残しておくことも、まぁ悪くないのかもしれないな、とか。

 

 

 言葉を綴る、という行為が好きだ。
 自分の置かれている状況、自分の感じている気持ちだったり感覚を、自分の持つ語彙の中からしっくりくるものを見つけて当てはめていく。ぴたりとはまるときもあれば、なんだか釈然としないまま仕方なく当てはめるときもある。

 そもそも形のないものに敢えて意味を持った音とか形を与えるなんて、すごい試みだよな、と思う。だって、絶対取りこぼす。私の生きる世界を言葉の枠に当てはめたところで、全てを囲いきることはできずに、端からさらさらと、零れ落ちていく。今だってそうだ。私の頭の中で、零れ落ちて意味を失った何かが砂みたいにさりげなく光っている。勿体ないと思うけど、情報として形を得られなかったそれらをつかむ術はもうない。そんなフラストレーションのたまる行為を、ひとが当たり前に使っているって、すげー、と思う。
だから、言語化は疲れる。時々どうしようもなく面倒になって、全部そのままでいいんじゃないかって思う時がある。そうやって投げやりに選んだ言葉を他人にぶつけてこじれちゃったりする。

 外国語だと、それはより顕著になる。英語を話すのは嫌いじゃないけど、どうにも苦手だ。私が世の中の大半の人よりは英語ができる方だというのは事実として自覚しているが、それでも自分が一度も英語ができると思ったことがないのは、何も嫌味な謙遜じゃない。たしかに、意味の通る英文は作れる。でも、それだけなのだ。表現の幅がない。頭の中のふわふわを、的確に掬い上げることができる確率は、日本語とは比べ物にならない。零れ落ちる量が圧倒的に多い。だから、必要に迫られない限り、進んで英語を使うことはあまりない。

 でも、日本語だからって解決するものでもない。同じ言葉であっても、発する人によって掬い上げる対象や量が違う。零れ落ちるものも違う。ニュアンスの違いってやつ。たぶん、その枠の使い方が少しでも似ている人とは親和性が高い。逆に、こんな使い方できない!という相手に惹かれることもある。全然違うからこそ、付き合いづらい相手もいる。たとえば私は両親のことは大好きだけど、あの人たちに育てられたわりに、どこかで違う感性を培ったらしく、親にシンパシーを感じることはほとんどない。なんにしても、他者と感覚を共有することなんて永遠に不可能なのに、私たちはそれに縋って、他人を求めて、理解できたように錯覚している。彼の考えていることは理解できない、とか、彼女はわかりやすい、とか、私もよく言うけどさ。
 もしかしたら、私が「赤」という名前をつけている色が、あの子には私が「緑」と名前をつけた色に見えているかもしれない。美しい景色を見て、同じように美しいという感想を共有しても、同じものを見たとは限らない。そして、私はそれを知りえない。一生平行線じゃないか。人との関係なんて、本当にぎりぎりのところで成り立っているんだな、と時々笑いそうになる。

 それでも言葉は好きだ。言葉を選ぶのは楽しい。知人にアクセサリーを手作りする人がいるけれど、楽しさの種類は一緒なんじゃないかと思う。貝殻のモチーフを使おうか、それともガラスビーズにしようか。助詞は「が」がいいだろうか、それとも「は」だろうか。語尾はどうしよう。頭の中でとりとめもなくふわふわとしているものを掬い取ってはっきりと形にすると、なんだか達成感がある気がする。
 考えてみれば、なんだってそうかもしれない。絵を描く人は言葉でなくて色や形に感覚を載せるし、音楽を創る人はそれが音符になる。たとえば科学だって、ただそこに事実として存在しているものに、数式だったり物質の名前だったりを与えて、情報として扱えるようにしている。

 だから、ツイッターってものが楽しくて仕方ない。世間的には立派なツイ廃、というやつなのだろう。ツイッターをする動機は人それぞれだろうけど、私は、単純に言語化がやめられない。他者の言葉選びを間近で観察できるのも楽しい。

 でもたまに物足りなくなる。ツイッターは、簡単だけれど、その分殆どと言っていいほど、言葉を選ぶ時間は費やしていない。もっとじっくり言葉を吟味したくなって、まとまった文章が書きたくなって、結局こうして書いている。研究室の机に言い訳のように論文を広げてはいるけれど、頭の中では次にどんな言葉を選ぶかしか考えていない。
 アナログでちまちまと字を書くのも好きだし、誰にも見せない日記のようなものもあるにはあるが、なんてことはない、あえてオンラインを選んだのは承認欲求だ。140字よりも長い分、私の言葉選びには、私の人間性がもっと顕著に表れるんだろうから(ツイッターでもダダ漏れだという突っ込みが聞こえるようだ)、少し恥ずかしさはある。だから別に、多くの人に読んでほしいとは思わない。ブログ、読んだよ!なんて言われたくない。私の知らないところで、私に興味を持ってくれている人がいるかもしれない、という期待をしたい。

 いつまで続くか知らないけど。面倒になって放置するの、目に見えてるけど。

 ちなみに、文章を書くのは好きだけれど、タイトルをつけるというのが、致命的に苦手だ。小学生の頃、小説を書いていた時はいくらでも浮かんできたのにね。
というわけで、この初記事のタイトルは、三島由紀夫の言葉からもじったもの。今日私がとりとめもなく書いた言語化、という一種の「表現」について、彼はこう言っている。

――― 表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止めを刺し、その息の根を止める行為だ。