Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

愛に言葉は不要というけど

 

彼の声に落ちたのがもうひと月以上前になろうか、それから少しずつ彼の人となりについて知っていることは増えつつある。知れば知るほどに好きになっていくし、きっとこれからもっと好きになるのだろう。だけど、今後どれだけ彼のことを知ろうと、歌っているジノが一等好きだというのは変わらないような気がする。

K-POPに出会ってから随分とたくさんの人を好きになってきたけれど、ボーカルラインの人が推しになったのはジノが初めてだ。なんでこんなに彼に惹かれたんだろうか、と考えていたら、頭の中が段々と込み入ってきたので、とりあえず文字にしてみる。

 

先に断っておくと、わかったような口を利いているけれど、これは理解でも共感でも寄り添いでもない。他者を理解することなんてただでさえ不可能だし、他者を視る私の視線には観察者としての恣意性が大いに干渉している。ましてやアイドルとファンという関係なら尚更だろう。私が彼らを(ともすれば都合よく)そのように解釈しているにすぎないのだ。

 

思うに、歌はひとつの表現形態であるからして、歌い手の '作品' だ。私がジノペンになったのは、彼の作品に魅せられてしまったから。

裏を返せば、私はアイドルとしての彼のペンになったわけではないのかもしれない、と思う時がある。もちろん、今ではペンタゴンというグループがまるごと大好きだし、そのメインボーカルを務めるジノも、長男としてのジノも大好きだけど、それは後付け。

もともと優しげな顔立ちをしていることもあって、険しい表情が似合わない人だなと思う。たとえば "Can you feel it" だとか "Like This" のブリッジパートとかでそういう顔をする時があるけれどさ。でも単純に似合わないというより、ああいう時のジノは「こういう表情をしよう!」と思って顔を作っているみたいに見えて、ちょっぴり無理やり感があるような気がする(小声)それはそれで可愛くて好きなんだけど。

アイドルというのはパフォーマンスありきだから、そういう作り込みが必要なのはわかる。だけど、やっぱり私は、そういう時の彼よりも伸び伸びと歌う彼が好きだ。

飾らずに歌う時の彼は、それがどんな歌であれ、いつでもジノだ。むしろ、歌う時こそがチョ・ジノという人間として生きられる瞬間なんじゃないかなと思う。存在の確度が揺らがないというか、ジノという人間の輪郭が一番はっきりしているというか。

彼の唇から紡がれる詞が悲しいものだったとしても、それを聴いて私が悲しさを覚えることはない。なぜなら、彼の歌声からは、溢れんばかりの歌への愛を感じるから。彼が歌を、ひとつひとつの音を慈しんでいることは、目を閉じて歌うところを見ていればよくわかる。とても丁寧で繊細で、真摯だ。気持ちよさそうに歌うのが好き。

それから、その小柄な体に並ならぬ自信を纏った姿も好きだ。普段は優しさの塊みたいな彼が、マイクの前で一変するのが好き。歌っていないときには微塵も匂わせないのに、確かな実力に裏打ちされたボーカリストとしての矜持がそこにはある。フイくんとデュエットしてる時なんか、もう最高。

歌うために生まれてきた人って、彼のことを言うんじゃないかな。

だからこそ、というべきなのか、彼が歌うときに放つ輝きはとても鮮烈だけど、どこか儚さを覚えてしまう。意地悪な言い方をするならば、彼には歌しかないんじゃないか、と思う時があるのだ。彼にとって歌はきっと空気みたいな、人生において決して欠けてはいけない要素なんじゃないだろうか。8年という時間に代えてでも捨てられなかったものなんでしょう。そこに捧げられた覚悟の重さに、敬意すら越して畏怖を覚えずにはいられない。同時に、もしも歌を失ってしまったら、この人はどうなってしまうのだろう、と余計なことを考えてしまう。

そういう人と同じ世界に、同じ時間に生きていられること、その歌う姿を目の当たりにできることは、なんと幸せなことだろうか。彼が目の前のマイクを見据えて歌う時、眉根を寄せて音を紡ぐとき、目を閉じて渾身のエネルギーを絞り出すとき、何度見ても胸がぎゅうと締め付けられるように愛おしさで潰される。 

 

ここから先は、思いつきを書き殴っただけ。表現と表現者の話、自分では面白いと思って書いているのだけど、どれほど読む人に伝わるのかはわからない。

歌う、奏でる、書く、描く、踊る、撮る、録る、作曲する……表現の方法は数多あれど、およそ表現者という生き物の本質には、アーティストとストーリーテラーというふたつの面があるんじゃないか、みたいな感じのことを最近考えている。

そのふたつはあらゆる点で異なるのだけど、私が思うに、たとえばその違いのひとつは表現することへのモチベーションが内側(自己)にあるか、外側(他者)にあるかというところだ。表現することそれ自体を目的とするのがアーティストで、その作品は表現者の内面が結晶化したものであり、鑑賞者としての他者の関与は必要条件ではない。対するストーリーテラーの目的は、表現の内容を相手に伝えることで、鑑賞されて初めて作品として成立する。ソシュールが言うところのシニフィアンシニフィエの関係性に似ているようにも思えるが、この例えが適切である自信はない。

表現に用いる媒体は、おそらく元来どちらかと親和性が高い。たとえば言語はどちらかといえばストーリーテリングに向いていると思うし、写真や映像は尚更だ。対して、絵や踊り、音はアートとしての要素が強いような気がする。

とはいえ、ふたつのうちどちらかに100%偏ることはきっとなくて、個々の作品の色は、表現者本人の嗜好性だとか、様々な要因が絡まり合って絶妙なバランスの上で決まるものだと思っている。

その定義に則るならば、私自身は言語をつかう身ではあるけれど、だいぶアーティスト寄りだと思う。というのは、自分が書いたものの中身が相手に伝わったかどうかは実際のところあまり興味がなかったりするからだ。

承認欲求は強い方だから、もちろん私の文章を誰かに読んでほしいとは思うし、評価してもらえたら嬉しい。でも、書きたいという衝動は、それとは全く独立に存在していて、文章を完結させた時点で私の衝動は満たされてしまう。

だから、自分の中に書きたいものがある限り、それが誰の目にも触れなかったとて私は書くことを辞めないだろう。

そしてそれはジノも同じだろうと思う。無人島に流れ着いても、砂漠に迷い込んでも、彼は歌い続けるような気がする。

 

自分がそうだからかは知らないが、他者の作品を鑑賞する立場としても、ストーリー性のあるものよりもアーティスティックな作品を好む傾向がある。どちらが良い悪いではなく、あくまで嗜好の問題なのだが、ふたつの属性のまた別の違いに由来しているように思う。

ストーリーテラーの作品は精緻で、秩序だっていて理性的だ。内容を他者に伝達するのが目的である以上、表現がぐちゃぐちゃだったらそれは達成されないのだから、ある意味これは自然な話だろう。文章はわかりやすい例で、特にミステリーやSF、ファンタジーはこっちの要素がかなり強いと思う。

対する 'アート寄り' の作品とは、と問われたら、私は危うさの上に成り立つものであると答える。

 

私はしょっちゅう「美しい」という言葉を濫用するのだが、私が誰かに対してこの言葉を使うとき、その人たちには共通する特徴がある(推しのタイプに一貫性がないとよく言われるし自分でもそう思ってきたのだが、こうして考えてみると面白いものだ)。

危うい人、だ。どこかぎりぎりのラインに立っている人。ぷつりと糸が途切れたら、ふっと消えてしまいそうになるような、そういう儚さのある人(ジュンペンはこの気持ちを理解できる人が多いんじゃないかしら)。不安定、不完全、脆い。そういう感じ。

理性は強さだ。理路整然としているのも、それはそれでまたひとつの美しさなのだろう。無機的な美しさだ。

だけど、人間の美しさの真価は、神にはなれないからこそだ、と私は思っている。不完全性は唯一無二だし、それゆえに尊い。カオティックで、有機的な、体温のある美しさ。

そういう美しさのある人が好きだ。美化しすぎと嘲笑われるだろうか。

さっき自分をアーティスト寄りと言った身でこんな話をするのも、どうにも恥ずかしくはある。でも、自分も大概弱くて、強さに憧れている。弱い自分も強い自分もどっちも嫌いなんだけど、その間で揺れている自分は結構好きだったりする。

 

そのような文脈で私の思う 'アート' 作品とは、いわば理性の枠組みの隙間からこぼれ落ちる雫だ。理性で自らを律する強さのある人には生み出せない。その人の世界の解釈の方法を映し出すものであり、他者である限り永遠に共有できないもの。その人自身の欠片。 表現者としての存在が危ういほど、生み出されたものは眩しいように感じる。花火みたいなものだ。

 

そう考えてみると、音楽というのは難しいなと思う。作曲者、作詞者、歌い手の作品が同時に存在することで成り立つものだからだ。

とはいえ、歌うという表現行為は、単体ではストーリーテリングの要素が強いような気がする。そしてそれが、アート嗜好の私が今までボーカルライン推しにならなかったひとつの理由でもあるのかなと思う。

歌う人がどれだけ歌詞になぞらえて感情を込めようと、その没入が完璧であればあるほど、歌う本人の感情は霞んでしまうように感じる。私が見たいのは歌詞を台本にした演技ではなく彼ら個人の生の感情であって、現実の彼らから乖離した歌の中の世界には心が向かない(だから恋愛の曲には食指が動かないことが多い)。

ステージに登ってくるまでに彼らが越えてきたであろう苦しみを歌声の裏に見出して感嘆したり、ファンの前でパフォーマンスをする姿に愛おしさを覚えることはあれど、それは作品としての歌を楽しんでいることとはまた別で、単純に彼らのことを愛しているというだけだ。

はたまた、メロディが好きとか、声が好きとか、振り付けとか、歌詞の言い回しが好きなこともあるけれど、それらも結局はシニフィアン的要素に魅せられているに過ぎない。彼らを愛せばこそ特別感は増すけれど、究極このパフォーマンスをやっているのが彼らでなくとも、それなりに好きだっただろうと思う。

かといって、歌の中身に全く意識が向かないわけでは当然ない。たとえばセブチの曲の中だったら、"Shining Diamonds" や "Still Lonely" は格別に好きだ。あの歌詞には、等身大の少年たちの感覚がぶつけられている気がする。つまりは彼らにしか歌えない曲であり、彼らが歌うから意味のある曲になるのである。そこに魅力を感じている。

以前の記事にも再三登場するZicoの "Artist" や "ANTI" が好きなのも、あの曲が彼の感覚を具現化したものであると感じているからだ。BTSも鳥肌が立つような作品がたくさんある。SUGAがAgust D名義で出している "so far away" なんかは初めて聴いたとき、言葉が見つからなかった。ていうか、今これを書きながらBTSの曲の歌詞をいろいろ漁ってるんだけど、なんだこのグループ、凄すぎる。どんな世界を見てきたら、こんな言葉を生み出せるるのだろう。物語としても、芸術としても、宝石みたいだ。

また脱線したけれど、とにかく、ジノの歌は彼自身で、それだから好きだ。彼のなかの大事なものをぎゅうと圧縮して零れ落ちるダイアモンドみたいなのだ。私は、表現者としての彼をとても尊敬するし、美しいと思うし、愛おしいと思う。この人に出会えたことが、本当に幸せだ。

 

会社員として働くようになってやっと1ヶ月、なかなかにハードな日々が続いている。

昨日はすっかり月末だというのを忘れていた。ジノが月に一度あげてくれるソロ企画の動画の投稿日だったのだ。正直なことを言うとただ歌っているジノが見られるならそれで良かったのだけど、キノちゃんも大好きなので、昨日の夜は最高のご褒美をもらった気分だった。

今日を入れてあと2日もすれば、私は北海道でジノに会っている。頑張れるぞ。

 

あと、セブチの新アルバムのハイライトメドレーも発表されたわけだけど、こっちも曲調どストライクなものばかりでとても楽しみ。

牢獄の外

ぐっと重力が私の体を座席に縛り付けて、みしみしと機体が悲鳴をあげたのはたった一瞬のことで、あっという間に私達は自由になって、地面が見る間に遠くなっていった。私の、初めての一人旅が終わろうとしている。香港から成田へと向かう飛行機の中で、これを書いている。

 

……本当はこの先にもっと言葉が続くはずだったのだろうが、走り書きのノートはここで終わっている。2か月前の自分が何を思って書く手を止めたのか、或いは書けなかったのか、もう今の私には思い出せない。

けれどつい一昨日公開されたGOT7のMVに見覚えのある香港の景色がいくつも映っていて、どうしようもなく恋しくなって、こうしてキーボードを叩いている。私は確かにあの地を、この足で、踏みしめたのだという、それを思い出したくて。

 

沢木耕太郎の『深夜特急』を初めて読んだのは、いつだっただろうか。細かい内容は忘れてしまっても、彼が見てきた世界、彼の言葉で描かれる、鮮やかで生々しくて濃密な世界への憧れは、深く私の心の柔らかい部分に刻み付けられて、ながいこと私を焦がし続けてきた。

そのくせ飛び立てるほどの勇気があったわけでもなかったし、あったところで新しい世界を目にしたいというその衝動に身を任せるほどの素直さも、私は持ち合わせていなかった。周りの友人たちが何か国も尋ねたり、世界一周をしたり、留学をしたりする姿を、羨ましくもなんともないとのたまって、涼しい顔をして私は頑なに日本に留まり続けた。そうして、彼らへの嫉妬と、膨らみ続けるコンプレックスと、まだ見ぬ世界の煌めきに高鳴る自らの鼓動に気付かぬふりをしたまま幾星霜、私は23になっていて、自由に使える時間はそう残されていなかった。

だから、セブチの香港公演は、強情を張り続けた私の背中を押すのにうってつけのきっかけだった。公演ももちろんすごく楽しかったし、ものすごい至近距離で彼らを拝むことができてこれ以上ないほどに幸せだったのだけど、香港に滞在した4日半は、それだけでは語りつくせないほどに私にとって大事な時間になった。

 

なーんてね、あとから書けばいくらでもそれっぽい話にできるんだ。嘘を書いたわけではないけれど、そんなに綺麗な話で片付くものでもない。

家族からも自分からも迫りくるモラトリアムの終わりからも、何もかもから逃げたくて、自由になれることを期待して香港行きのチケットを取ったはずだったのに、海を越えて一人になっても、私の心は日常に縛り付けられたままだった。

せっかくの非日常なのに、それを素直に味わうことのできない自分に心底がっかりした。異国の電車に乗っているのに、私のスマホの画面に表示されるのは日本語ばかり。ツイッターをスクロールするのを止めない自分の指が疎ましかった。何してるんだろう、何のために来たんだろう。

異国は万能薬じゃない。日本を飛び出しただけで、すべてが解決するわけじゃないのだ。そのことに気が付いたのは、残念ながら帰国してからだった。

だから、さっき一人旅と書いたけれど、香港で過ごしたこの4日間は「旅行」でありこそすれ、「旅」とは呼べないな、と思う。もともとの意味にさしたる違いはないのだろうけれど、私にとって「旅行」とは非日常を楽しむもので、「旅」とはたとえ一瞬でもその土地で「生きる」ことだ。どっちが良いとかいうものではなく、目的が違うのだ。

友人と訪れる見知らぬ土地には楽しさと思い出を求めるだろう。卒業旅行で友人たちと行ったヨーロッパも、台湾も、とてもとても楽しかった。

けれど私は、旅がしたくて香港に行ったのだ。知らない土地の空気を吸って、その土地の食べ物を食べて、自分とは異なる言語を使う人たちの中で、私のことなど誰も知らない世界で生きてみたかった。

とっても楽しかったし、大好きな場所になった。でも日本に紐付けられた自分を振り払えなかったし、だから香港という場所を全身で感じることもできなくて、そのことを後悔している。

 

それでも、やっぱり行ってよかった。大事な時間だったことに変わりはない。

何よりも良かったのは、案外なんとかできるだけの力が自分にある、というのを実感できたことだろう。

いくら周りが私のことを優秀だと認めてくれたところで、私自身が私を認めてあげられないまま生きてきた。それは親の過保護ゆえに肥大してしまった自己無力感であり、私よりも何万倍も何億倍も優秀で尊敬すべき友人たちに恵まれたがゆえに成長した劣等感でもある。

最近では意識して少しずつ自分の力で自分の生を制御できるようになろうと努力しているけれど、私はまだ他者(特に家族)への依存から抜け出せていないし、未だに自力で何かを決断するということがとても苦手だ(このあたりのことは、少し前の記事で書いた)

一時ひどく反発した甲斐あってか、今でこそ親の方が過保護にすまいと努力してくれているのを感じる。それは間違いなく状況を良い方向に導いていると思うけれど、それでも根本的な解決には程遠い。変わる必要があるのは親だけではない、私自身だからだ。ところが20年という歳月の間でしっかりと私に根付いた劣等感や無力感はなかなかにしぶとくて、誰よりも私が一番、私のことを諦めている。何よりもタチが悪いのは、私がそれを親に責任転嫁していることだ。自分が動かない言い訳を親のせいにしている。

 

ところで、少し余談をしよう。私はよく、オタクしてる時が一番輝いてる、と冗談を言う。オタクを自称するのに若干自虐的な響きがあるから冗談として成立するわけだが、茶化しているだけで、これはまったくの本心である。気持ちの向くままにアイドルに愛を注ぐという行為は100%私の意思でなされていることであって、そこに親も他者も介在しない。自分の意思で彼らを愛しているとき、私は少し強くなれるような気がする。私の体が、私の感情が、思考が、私だけのものになっているという実感がある (だから私はアイドルオタクであることを絶対に引け目に思ったりはしない、そういう時の自分は結構好きだからだ)。

セブチが私の背中を押してくれた、とさっき書いたのはそういうわけだ。いくら同世代が海外にぽんぽん行っていようが、意地を張り続けてろくに踏み出そうとしなかった私にとっては、一人で香港に行くというのはそれなりに大きな決断だった。働き始める前に、まとまった時間があるうちに海外に行っておけというのは周りから散々言われてきたが、きっと私はセブチがいなかったら香港に行こうと決断することはできなかっただろう。

とにかく全部を自分でやろうと決めたから、親には飛行機も宿も取ってから「行ってくるね」と事後報告をした。この期に及んで親が反対するとは思えなかったけれど、決める前に話してしまったら、自分が親に頼るだろうなと思ったからだ。

初めて一人で海外へ行くというのに、何に対してなのかもわからない負けず嫌いを発揮して、深夜23時半に到着する便を選んだりした(まぁ安かったからなんだけど)。だけどいくら香港が眠らない街とはいえ、空港から市街地までは1時間はかかる。この飛行機でいいかな、この宿で大丈夫かな、そもそもちゃんと辿り着けるのだろうか。勢いにまかせて決めたはいいものの、その日が近付くにつれ不安は強くなって、やっぱりやめておけばよかったなんて怖気づいたりもした。

それでも、行ってみたら案外なんとかなるものだった。なんとかできるものだった。

なーんだ、私、ちゃんと一人でも生きていけるんじゃん。それが嬉しかった。

 

本当は旅行記として書くつもりだったけれど、実際に行ったところまで書くとあまりにも長くなりそうなので2つに分けることにした。これは、飛び立つ前までのお話。

 

深夜特急』の冒頭で、沢木はこう記している。

ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者のあいだの隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ。

映画『ショーシャンクの空に』に、ブルックスという、50年間服役している年老いた男が登場する。世界の変化から隔たれた刑務所の中で半世紀を過ごした彼は、めでたく出所するものの外の世界の変わり果てた様に夢見ていたような光を見出だせず、自らの命を断ってしまう。この老人に、私は自分を見出す。ブルックスにとってのショーシャンク刑務所が、私にとっての日本なのである。出たくて仕方がなくて、それでいて愛する人たちがいて、結局は居心地がいい場所。深夜特急に乗ろうとしたけれど、心は塀の中から出られなかった。

深夜特急に乗って目にする「外」の眩さに、次こそ身も心も浸したいものだ。香港にはきっとまた行こう。

 

 

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愛していると叫べ

前ブログからの移行シリーズ。今年の2月頃に書いた文章をベースに、少し加筆修正。

***

大学院を休学してから、丸1年とちょっとが経った。入社式を来週に控えて、久しぶりに美容院に行ったら、6年半お世話になっている美容師さんに「もうゆっくり遊べる時間は定年までないよ」と脅された。私の人生の休暇が終わろうとしている。

一年半前の今日は、高校の友人2人と行った卒業旅行でヨーロッパから帰国した日だ。3月には台湾に3泊、小笠原に1週間、伊豆大島に1泊、卒業式の翌日から九州4泊(だったっけ)と、今考えたら信じられないくらいの過密スケジュールを詰め込んで、4年間で僅かばかり貯めたお金を惜しげもなく食い潰した。少しくらい残しておけば、という気持ちもないではないが、後悔はしていない。

小笠原の宿で出会った知人が世界一周の様子を報告しているのをfacebookで見ながら、旅をしたいなあと思っている。別に世界一周である必要はないけれど、今更、この休みの間にもっと旅行にでも行っておけばよかったかな、と後悔している。

 

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オーストリア・ウィーン市街
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ウィーン国立図書館

 

旅をするモチベーションは人によって様々だろう。言葉、色、空気、匂い、食べ物、あらゆるものが違う。同じ国の中でさえそうだ。自分の生活から遠く離れた非日常を自分の五感で体験したいというのがありふれた動機だと言いきるのは容易いけれど、その衝動が満たされるのは旅をすることによってのみだ。なんだかんだ言っても、私だってそのギャップに魅力を感じる一人である。

けれど非日常感よりも私を知らない場所に駆り立てるその衝動の正体は、写真を撮りたいという欲だ。感じたいというよりも、撮りたい。自分の目でファインダーを覗いて、自分の手でシャッターを切りたい。世界の美しきものたちを、自らの手で切り取りたい。ある種、征服欲と呼んでも良いかもしれない。

 

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香港・深水埗

余談だが、帰国子女の多い環境で育った私の周りでは、旅行といえば当然海外みたいな雰囲気があった。ひねくれ者をこじらせている私はそんな風潮に反発したい気持ちがあって、卒業間近までほとんど海外には行かなかった。両親の結婚25周年記念旅行のアメリカと、卒業旅行だけだ。その分、所属していた自転車サークルの活動で日本は北海道から沖縄までかなり色々行ったし、そのことには十分すぎるほどに満足しているのだけど、やっぱり変な意地を張らずに海外行っておけばよかったな、とは思う。

 

でも大事なことは、旅に出ずとも写真は撮れるということだ。被写体なんて、そこら中にあるのだもの。撮りたいものなんて無限にあるし、美しいものはすぐそこにある。そう、たとえば夕飯のあとのひそやかな楽しみでさえ宝石のように煌めいている。

 

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だから撮りたいならば、四の五の言わずにカメラを持ち出せばいいだけの話なんだけど、そうもいかない。

好きなものに対して好きと言えない。私はいつの間にか、すっかり臆病になってしまった。

 

ところで、ホワイトハウスの公式フォトグラファーがオバマ元大統領の任期中に撮影した写真を見た時の衝撃が忘れられない。政治的な理屈もさることながら、ごく個人的に私はオバマさんが好きだったけれど、それを差し引いてもこの写真たちは素晴らしかった。言葉を尽くせば尽くすほどに陳腐に成り下がると思うから、これ以上言語化したってどうしようもないのだけど、一言でいうと、写真を辞めたくなった。

写真が趣味だと言い切ることすら躊躇う自分がプロと比較するなんておこがましいにも程があるのだけど、見た瞬間敵わないと思った。一生かかっても、いや来世でも、私にこんな写真は撮れない。被写体の問題とか、そんな次元ではない。ならいっそ、もう辞めちゃおうか、と。

敵わないなあ、と色んな人に対して思いながら生きている。裏を返せば人の魅力を見つけるのがうまいということなのかもしれないが、それを自分と切り離せないからいけないんだろう。

カウンセラーに、「きりさんは上を見てばっかりで動けなくなっていますね」と指摘されたことがある。まさにその通りで、私はいつも上を見て「自分なんか」と思うことで、やらない言い訳をしてきた。だって、傷つきたくない。自分で思うよりも現実の自分が駄目なんて知りたくない。そう、自分に期待していたいだけの甘ったれである。

だからといって、下を見て優越感に浸るようなこともできればしたくないし(しばしばしてしまうけど)、人と比べずに自分のことを評価したことなどないから、今更できない。人と比べても仕方ない、みたいなのはありとあらゆるところで耳にするけど、うるせえよといつも思う。私らしく生きようと思って、それができるのなら苦労はしていないはずだ。

 

少しベクトルを変えよう。

「詳しくなければただのニワカだ、ニワカにファン(あるいは、他の何か)を名乗る資格はない」というような雰囲気は、何を好きになってもそのコミュニティの中でついてまわるものらしい。アイドルオタクをやっていても感じるそれは、カメラの世界でも顕著だった。表立ってそうとは言わずともマウントを取り合うような、どことなくぎすぎすした空気に、ともすれば自分も染まってしまいそうなのが嫌で、写真を投稿するために作ったツイッターのアカウントはすぐに消してしまった。そんなだから、今使っている旧式のぼろい愛機のこと以外何も知らない私は「カメラが」好きだとは言えないし、写真が好きだと言うことすら臆病になる。

「ニワカかどうか」の判別基準みたいなものがあるとしたら、写真の界隈ではレンズ沼に嵌っているかどうか、のような気がしている。正直なところ、この雰囲気に乗せられて、必要もないのに自分から沼に足を突っ込んでいるように見える人も少なくはない。確かにレンズには色んな種類があって、種類によって被写体の向き不向きなんかがあったりするから、欲しくなる気持ちも想像できなくはないのだけど、「あるもので撮ればいいじゃん」と思う。

そう思うならそれで突き通せばいいくせに、沼に落ちていない、いわばマイノリティである自分に写真好きを名乗る資格はないのではないか、などと考え出す自分もしっかり存在している。写真と向き合えずに妥協している現状の言い訳にしてるだけじゃないの、と突っ込む自分を振り払えない。結局マイノリティであることに酔っているだけなんじゃないの、とも。

色んな鎖で自分を縛り付けて、どんどん写真を撮らなくなっていく。たまに撮るたびに、自分の腕が落ちているのを自覚して、さらに遠のく。自分の写真なんて、どうせ。

 

そう思う一方で、自分から写真をとったら何が残るんだ、という思いもある。写真は好きだ。シャッターを切る瞬間が好きだ。撮ったものの出来に納得がいかずに見返して落ち込むこともあるが、ファインダーを覗いている瞬間だけは、100%幸せだ。

趣味は多い方だし、好きだと思えることは他にもあるけれど、これだけ悩みながらも未だに捨てられないのは写真くらいじゃなかろうか。最近は文章を書くこともそこに含まれつつあるけど。

 

頻繁に写真を撮るようになったのは高校2年生の終わり頃からだったか。
パンツが見えるんじゃないかってくらい短いスカートにはちぐはぐな、いかつい一眼を毎日のように持ち歩いていた女子高生時代とは打って変わって、大学に入ってからはめっきり撮らなくなった。単純に忙しくなったのもあるが、なんというか、周りでもカメラを持っている人が増えて、私より巧い人なんかそこら中にいることを知って、アイデンティティとして機能しなくなっちゃったのかもしれない。

SNSが生活に馴染んで、他人の写真が目に入るようになったことも大きい。高校という小さなコミュニティの中では多少スキルがある方だったけれど、もっと広い世界が見えるようになって、自分が思っていたほど写真が巧いわけじゃない、というのを否が応でも思い知らされることになったわけである。

当時はカメラ女子という言葉が台頭し始める少し前で、前後して宮崎あおいが某メーカーのミラーレス一眼のCMに出演してから爆発的に広まった気がしている。ほとんど時期が違わないだけに、カメラ女子なんだねと言われることも少なくなかったが、私はそう言われるのがとても嫌いだった(今も)。一眼レフを使っているというプライドもあって、手軽に使えるミラーレスごときでカメラ女子なんてファッションの一環としてやってるだけでしょ、なんてに馬鹿にしていた時期もあった。今思うと何様だ、という感じだ。考えてみれば、アイデンティティを写真に求めている時点で、私も同じだったのだから。

ただ、ファッションアイテムとして割り切るには、ちょっと踏み込みすぎた。写真を撮ることは紛れもなく私の一部になってしまった。

いつしかカメラ女子を馬鹿にすることはやめた。正確にいうなら、馬鹿にできなくなった。だって、すごく素敵な写真を撮るのだ、彼女たち。

つまりだ、なんのことはない、私の劣等感を刺激するようなきらきらした女の子に、唯一自分が取り柄だと思えるフィールドまで脅かされるのが不愉快だっただけの話である。「どうせファッションなんだろ」と下に見ることで、せめて自分の取り柄くらいは守っておきたかった。「カメラ男子」に対してはここまで強くは感じないのが証拠だろう。

当然ながら勝ち負けの世界ではないし、性別という概念を嫌いながらも結局女性性にこだわってるんだから、本当矛盾の塊だ。しょぼいなあ、自分。

単純な話だ。自信がないのだ、自分に。

 

今年に入って小説を書くようになった。その創作のアカウントで繋がった人が、ある時、「私は自分の作品のファンだから」と言っていたことがあった。すごく、いいなと思った。

自分らしさ、なんて、わからない。自信なんてない。それでもふっと立ち止まって、自分の撮った写真を、書いた文章を、見返すとき、確かに私は好きだと思っている。自分の生み出すものが、好きだ。

 

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言葉を綴ることも、写真に残すことも、モチベーションの根っこは同じで、私の心を動かすものはひとつ残らず愛おしいし、だからそのしっぽを掴んでおきたい。

その心の動きというのは、何も嬉しいとか幸せであるとかプラスのものだけではなくて、苦しかったり、悔しかったり、腹立たしかったり、そうして自分が「何かを感じている」ことこそが自分が生きている証だと思う。だから、それを全部全部見える形で残しておきたい。でないと手をすり抜けて消えてしまう。私は欲張りだ。

 

恥じたくない。愛するものを、愛していると胸を張って言える人間でありたい。

写真を撮るのが好きだ。文章を書くのが好きだ。アイドルが好きだ。何かを愛せている自分を愛することくらいはしてあげてもいいじゃないか、そんな気持ち。


超余談。

OLYMPUSは、私が使っているE-5というモデルを最後に一眼レフの生産を終了した。発売された2010年当時はそれなりの話題をさらったそうだが、今となってはCanonNikonの入門レベル(友人が持っているのを使わせてもらったりした)の足元にも及ばないという印象である。使っていて、このポンコツめ!としょっちゅう思う。

それでも、手放す気はない。格下とか格上とか、高性能とか旧式とか、結局何にもならない。使い手の気持ちの問題でしかない。

愛しているから余計、置物に等しい今の扱いに申し訳なさを感じる。時々、もっと構ってくれという声が聞こえる。ごめん。

 

こんなもん書いてる場合じゃないんだってば。また現実逃避しちゃったよ。あーあ。

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KMF参戦記

つい一昨日、現実逃避にこの半年を懐古する記事を綴ったのだけど、その前の日は物理的に現実逃避をしていたので、実質2日連続で逃避行でした。オイオイ。物理的とは何ぞやというと、日韓文化交流会という団体が主催するKMFというコンサートに弾丸で参戦したので、記録のためにこれを書いている。楽しかった。

本題に入る前に、そもそもなぜ突然KMFに参戦することにしたか、という話を少し。

直前の記事を除けば、前回このブログにK-POPのことを書いてからは2ヵ月が経っている。Zicoの新曲が最高だったあまりに深夜テンションで書きなぐったやつである。時間の流れに慄いてしまうのはさておき、無論その間K-POPから遠のいていただなんてあるはずもなく、セブチの日本公演2日間にもちろん参戦しているし、8月には香港公演にも遠征したし(これもそれぞれブログに残しておきたいと思いつつ時間が流れてしまっている)、相変わらずに愛変わらず、オタクまっしぐらだったのだけど、9月も終わろうかというところで、新しい沼に足を突っ込んだ。ペンタゴンである。

 

落ちるのは一瞬

ペンタゴンのことは、KCONに参戦したときに存在を知った。とは言っても、その時はイドンくんくらいしかわからず、その直後にTriple Hを知ってフイくんを認識したくらいで、ペンタゴンが何人グループなのかさえもよくわかっていなかった。そうこうするうちに季節が流れてWanna Oneがデビューし、そのタイトル曲 Energetic を作ったのがフイくんだというから、そこからそんなに日を待たずに Like This でカムバックした時に「どれどれ、あの Energetic を作った人の新曲はどんな感じだ」と聴いてみて、曲がいいなあと思っていた程度だった。

そこからもう一歩踏み込んだのは、このブログにたびたび登場する友人Yちゃん(同じく重度のセブチペンかつけーぽ雑食オタ)との会話にペンタゴンが登場することが増えたからだ。彼女はインターネットの海から動画を見つけてくることに関して神がかった才を持っている人で、そうして見つけた動画を私にも流してもらう、というのが定番の流れになっている。ちなみに、私のK-POPライフがあるのは彼女の布教のおかげである。本当に感謝してもしきれない、こんな面白い世界を知らずに死ななくてよかったもの←

さて、そんな彼女が、一緒に参戦したKCONで見たペンタゴンのパフォーマンスでイドンくんに惹かれていたらしく、ペンタの動画を色々と見つけてきては例のごとく私に送ってくれていたのだ。それでなんとなくメンバーを覚え(フイとイドンのほかに、ユウト、ウソク、キノは早い段階で認識できるようになった)、二人でキノがかっこいいねえ、なんて呑気に話していたのだけど、気が付けば彼女よりも深く、私が沼に落ちた。

きっかけは、9月21日のMCountdownでのパフォーマンスだった。

最初はね、キノしか見ていなかったはずなんだ。かっこいいなあ、ダンス巧いなあ、って。雷が落ちたのは、3分3秒めだった。カメラに抜かれたその人の、高音のハモリに、撃ち抜かれてしまったのだ。

というか、それまで気付いてすらいなかった、そこにハモリが入っていること自体。ホンソクが歌うサビの歌詞に重ねて、フイが “Oh yeah” と伸びのいい声を響かせていることまでしか気が付いていなかった。あまりにも自然に曲に馴染んでいた、透き通るような高音。それでいてひとたび聞こえるようになったら、もうそこにしか意識が向かなくなってしまった。

名前すらわからないまま、私は彼に魅せられてしまったのだ。3:03~3:04の、僅か2秒にも満たない時間での出来事だった。

そこからは、やるべきことをそっちのけで調べまくった。ジノという名前であること、グループでは最年長であること、メインボーカルであり、元SMエンタの練習生だったこと、練習生期間は8年という、この世界ではどちらかといえば遅咲きな方であること。小柄な体も、少し垂れ気味の目元が優しげな雰囲気を醸し出すのも、笑顔の柔らかさと可愛らしさも素敵だと思った。だけどそんな属性よりも何よりも、私の心を貫いたのは、やっぱり彼の声だった。ソロで歌っている映像をいくつか見て、徹底的に心を奪われてしまった。

セブチのジュンだって声は大好きだけど、たぶんそれは結局私がジュンのことを好きだからなのであって、全然別の顔と性格をした人がジュンの声だけ持っていたらなんだかなってなってしまう気がする。レイちゃんにしてもそうだ。

けれど、ジノの声は違う。

ペンタゴンの曲を聴いていて、「今のところ良いな、好きだ」って思うと、それがジノのパートだった、なんてことがままある。たぶん、私の脳が、体が、この人の声を好きなんだと思う。理屈なんかそこには存在しない。永遠に聴いていたいと思わせる声なのである。

ニワカだろうがなんだろうが、正真正銘、ジノペンになった日だった。9月21日。

 

日本にいるっていうから

翌日も、その次の日も彼のことが頭から離れず、ひたすら曲を聴きながら調べていたら、日曜にやるイベントに出演するというじゃないか。しかも横アリ。しばし逡巡したものの、会える距離にいて、時間もあって、お金もどうにか工面できそうだというのに、会わないなんて選択はできないなと腹をくくった。前日、25時半。慌ててチケットを手配して、その12時間後には、私は横浜アリーナにいた。我ながら行動力と財布の紐の緩さには呆れるばかりだったけれど、後悔はしていない。

2月のセブチのイルコン以来の横アリである。先日のイルコンがさいたまスーパーアリーナだったからか、半年ぶりの横アリは案外狭く感じた。座席はメインステージと真反対側の1階席中腹で、良席とは言えないものの、見やすさでいうなら悪くはなかった。バクステはかなり近かったし。

入場前から見てとれた圧倒的なNCT人気は、会場内に入るとさらに顕著だった。そこかしこに緑色のサイリウムを持つ人がいるのだ。私の左右、前にいたお客さんもみんなNCTのペンだったので、若干のアウェイ感を感じたりなどしながら開演を待った。

 

おぼえがき

曖昧な記憶と殴り書きのメモだけが頼り。

 

スペシャルMC

登場したのはNCT127の悠太と、ペンタゴンの祐人。
悠太くん、名前と顔はデビュー当時からあちこちで見かけたので覚えていたのだけど、95ラインなのね。そして祐人は大人っぽい外見とは裏腹に98ライン。

「悠太ヒョンって呼ばなきゃ」っていう祐人に会場がざわめいていた。可愛いかよ。

 

NCT Dream

最初に登場したのはドリームちゃんたちでした。いや、マークくんしかわからないのだけど。モノトーンの衣装とは対照的にカラフルな髪の毛が可愛い。ホバーボード?っていうのか?を乗りこなしながら踊るパフォーマンスにはびっくりした~、光GENJIみたいだ。チューインガムしか曲がわからないのだけど、とにかくNCTペンの多さよ。会場が一面緑。ペン層が全体的に若いからか、歓声もきゃぴきゃぴしている気がした。ぼっち参戦のババアはビビりまくり←

マークくんのカリスマっぷりが凄かった……

曲はChewing GumとMy First and Lastと、あともう1曲かな?曲名がわからない。

 

チャオベッラチンクエッティ

ここからは「友情出演」という扱いで、日本の女性アイドルグループが3組続いた。

日本のアイドル事情がさっぱりわからない私としては、こういう機会にこういう出会いがあるのは面白くて好きです。歌が上手だった。あと、殴り書きのメモには「かわいい」って2回書いてある。

ファンエリアがどうやらあらかじめ決まっていたのか、本人たちの登場とともに1階席後方から飛ぶ野太い男性たちの声に、他の観客も驚いていた。だけど、そのエリア以外にも、会場を見渡すとさっきまでは見えなかったカラフルなペンライトがちらほら。NCTペンに囲まれた私ですらアウェイ感を感じていたのだから、K-POPアーティストが目当ての女性客が大多数という現場に入るのはもっとやりづらいんじゃなかろうか、なんて邪推してしまったけれど、愛は強し、です。ファンエリアが私の席からわりと近かったから見えたのだけど、みんな楽しそうで良いなと思ったし、推しているグループは違っても同じ生き物(ドルオタ)なんだなというのがわかっておかしかった。自分もそうだけど、好きな人を全力で応援する人の姿は見ているとなんだか元気をもらえる気がする。

 

アップアップガールズ(仮)

名前がスクリーンに載った時、後ろの席の人が「え、アプガじゃん!やばいやばい!」と盛り上がっていたのが聞こえたのだけど、有名なのかな?なんにせよ、破壊的な可愛さ&かっこよさでびっくりした。

富士山の山頂でライブしたりする、という自己紹介には会場がどよめいてた笑

皆可愛かったんだけど、青い衣装の子が印象に残っている。新井愛瞳さん、だそうです。可愛かった。

 

PINK CRES.

ベリーズ工房出身のメンバー夏焼雅さんがいるグループ。本名なのかしら、華やかできれいな名前。ベリーズ工房は私でも聞いたことあった。小林ひかるちゃんって子がとっても可愛くて、軽率に推したくなった←
2曲やっていたうちの片方がたしかこれ。ひかるちゃんは銀色のスカートの子です。可愛い。この動画と同じ、ピンク色のペンライトがそこかしこに。パワーと可愛らしさを兼ね備えた彼女たちにぴったりの色だと思った。

 

ユタユトMC

このMCは私の中で伝説として残るよ。思い出してもにやけるくらい面白かったよ。

韓国で生活して大変だったことは?という悠太の質問に祐人、「辛い物が苦手なんです」と話す。

悠太「じゃあ何食べるの?」
祐人「白飯一直線っすね」
悠太「それでそんなでかくなったんや?」
祐人「ハイ」

概ねこんな感じだったかな。文字にすると面白さが伝わらない気がするけど、本当に可愛かった……。祐人の「ハイ」がね、もう絶対あれはカタカナ表記(謎の自信)

そのあとも祐人が「悠太くん」って呼びかけて会場が湧いたり、お互いに愛嬌をやらせ合ったり、祐人が悠太にハグしに行ったりと、微笑ましかった。ていうか、悠太、場を掴むのが巧いのはやはり関西人だから...?(偏見)

 

TOP SECRET

MCの最後で二人が「次のグループは?」「秘密です!」って言ってたのがトップシークレットに掛かっていたことをあとから知って、アアー!ってなった。反応できなかった……

アジュナイス期でジュンが着けていたのと同じヘアバンド(たぶん)を着けているメンバーがいて、オッ!ってなりながら見ていた。

日本語がべらぼうに巧いなと思ったら、新大久保で活動していた時期があるのね。

 

CLC

ペンタゴンと同じCUBE所属の女の子グループ。年齢層でいうとペンタのが上だけど、こっちのがデビューは早いのね。そういう場合ってどっちがソンベニムになるんだろ。

衣装が制服だったのだけど、制服ってずるいよなぁ。

反応がいまひとつだった会場に「もりあがっていきましょ?」と呼びかけていたメンバーがいたのだけど、それがもうとんでもなく可愛くて、本日何度目かの会場どよめき。

日本語曲の歌詞があざとくて良かったのだけど、曲名がわからない……。

 

PENTAGON

来ました、大本命。それまでかなり静かに見ていた私が突然叫び出したから、きっと両隣のNCTペンさん(たぶん中学生か高校生)は驚いたことだろう。ぼっち参戦ババアがすみませんどうも。

それまではリアルタイムでメモを取りつつ聴いていたのだけど、ここはもう放棄しました。自分の目に焼き付けることの方がよほど大事。メモがない分さらに記憶が曖昧なのだが、とにかくパフォーマンスを観ながら、「もう抜け出せないな」と何度も思ったのは鮮明に覚えている。

セットリストは

1.Gorilla (Japanese ver.)
2.예쁨

-MC-

3.소중한 약속

-MC-

4.Like this
5.Beautiful (Japanese ver.)

だった、と思う……。1部と2部でセトリが若干違ったみたいで、Abema TVで2部の中継を見ていた私は소중한 약속の代わりに스펙터클 해をやっているのを見て「え~!」と叫んだ、大好きな曲だからそっちに入りたかった~!(あと全体的に2部の方がジノの機嫌が良くて、可愛さ大爆発していて、ぐうううううう)

Critical Beautyがセトリに入っていないからと、MCの時にジノのアカペラ+キノのダンスで披露してくれた。

소중한 약속とBeautifulが花道+バクステ、だったかな?

Beautifulでバクステに来たジノが、ステージの端にあった隙間?に落ちて一瞬姿が消えたのにはびっくりした。何事もなかったようで良かったけど(本人、スタッフが駆け寄るよりも先に自力でよじ登ってきて、ヨウォンと一緒に楽しそうに大笑いしていた)、背筋がひやりとした……。

2部に入りたかった気持ちは今でもあるのだけど、1部で良かったこともあった。衣装が私が落ちた9月21日のエムカの衣装と同じだったのだ。その衣装を着て、Like Thisの高音のハモリを高らかに歌い上げるジノを生で見た瞬間、一気に目の裏が熱くなった。

あと、Beautifulの日本語版、サビの出だしで「光る星のよう」ってジノが歌っていたのが、本当に、本当に綺麗で。

躊躇いもあったけれど、やっぱり来てよかったな、と思った。

そうそう、NCT Dreamのパフォーマンスの時に会場を見て9割近くがNCTペンかなあと思ったのだけど、単純に点灯していないだけだったらしく、会場はそれなりに青いペンライトがたくさんあった。セブチのペンライトも奇麗でとっても好きなのだけど、あの青いペンラの儚い光が暗い会場で揺らめくの、まるで海の中にいるようでとても心地よかった。それでジノが「光る星のよう」だなんて歌うものからさ~~~、もうさ~~~~、コンサート大好きだよ!!!(口座残高の数字から目を逸らしながら)

間もなく迎える社畜生活、私はコンサートに参戦するために働くのだと決意を新たにしたステージでした。あーあ、貯金できないなあ。

 

NCT127

彼らのデビュー当時はまだ私がそこそこEXOを追っていたこともあって、SMの大型新人グループ!と随分と騒がれていたのを覚えているものの、聴く機会を逃したままだった。まさか生で見ることになるとは思っていなかった。

本人たちもさることながら、歓声がとにかくすごかった。

K-POPにハマって驚いたことっていくつかあるけれど、そのひとつが掛け声文化だ。最初のうちは、少し抵抗があった。自分たちの声で彼らの曲をかき消してしまうのがなんだか勿体なく感じたのだ。だけど慣れていくうちに、掛け声で得られるアーティストとファンとの一体感みたいなものを楽しめるようになった。

掛け声に関しては人によってスタンスが色々あるようだけど(セブチ界隈では少し前に物議を醸していたな)、私は言える部分だけ言う、くらいのスタンスでいる。掛け声を言う方に気を取られてしまってパフォーマンスを見逃したくはないから。だけど自分がするしないに関わらず、掛け声は好きだ。

そしてNCT127の曲って、たぶん掛け声との相性が抜群に良いのだ。さらにペンが多いから絶対的な音量が大きいのも相まって、圧が凄かった。そのままでも十分に格好いいパフォーマンスが、ぴたりと合った掛け声で一段と輝いている。私の席が一番離れたところで、会場全体を一望できる位置だっただけに、余計にそう感じたのかもしれない。ああ、いいなあこれ、って思った。とくにそう思ったのは소방차と0Mileだったかな。

パフォーマンスも圧巻だった。とくにパフォーマーとしての悠太、意識しているわけではなかったのに自然と目が惹きつけられてしまうものがあって、かっこいいなと思った。彼、SMエンタ初の日本人デビューだと後から知った。単純に同じ国籍だからという理由だけで応援するのはあまり好きではないのだけど、きっとそこに至るまでには人一倍苦労したこともあっただろうし、そうして今の姿を見せてくれているのだと思うと、やっぱり尊敬するなあ。

実をいうと、127の曲は食わず嫌いだった。Cherry Bombの印象が強くて少し苦手意識があったのだけど、0Mileがすごく好きな感じの曲だったのでそのうちプレイヤーに落とそうと思う。こういう出会いがあるから面白いよ、合同コンサート。

にしても、単コンかと思うような熱気だった。KCONの時のセブチを思い出した。

 

VIXX

大トリはVIXX先輩。桃源郷くらいしか知らなかったのだけど、この公演を通してペンタ以外で一番来てよかった!と思ったのはこの人たちのパフォーマンスだ。とにかく目を奪われた。

まず出だし、黒いスクリーンに赤い文字で浮かび上がるVIXXの4文字が既に貫禄を放っているかのようだった。今までまったく気が付いていなかったのに、いつの間にか白いペンライトが辺り一面に輝いていて、さっきまでとは違う時空に飲み込まれたみたい。確実に会場の空気も変わっていて、あ、なにか凄いのが来るんだな、と察する。ペンライトの形と相まって、本人たちは登場していないというのに既に幽玄な雰囲気が漂う。

VIXXのことを何もわかっていない私が状況についていけず戸惑っているうちに音が流れ出した。1曲目は桃源郷で、見事に異世界に飛ばされた。MVを観た時も圧倒されたけれど、舞台セットも何もないただのステージでのパフォーマンスにあってさえ、こんなにも取り込まれてしまうことがあるだなんて、ただただ衝撃でしかなかった。曲が終わってからしばらく呆然とした。エンさんという人の舞う姿に、視線も思考も呼吸も、すべてを奪われた。あとから彼がえねねんという愛称で親しまれていることを知って、いやいやあのパフォーマンスとのギャップ~~~!笑

ギャップといえば、パフォーマンスとは裏腹にMCが随分と和やかだったのにもまた惹かれてしまった。なんというか、ステージ慣れしてるんだろうなというのがよくわかる、安定感のある力の抜き方。「みなさん疲れましたか?僕たちもちゅかれた~」って笑いを持っていく辺りとか、さらりとこなすけど、あれは若手には出来ない気がする……

そういうところも含めて、とにかくすべてが洗練されているグループだなという印象だった。帰宅してから桃源郷とChained Upをひたすらヘビロテした。

やっぱり合同コンサートって楽しい!!

 

ラスト

出演者が一堂に会すと、なかなかの規模である。花道の方まで広がっていたのだけど、ひたすらキノがすごかった。通路の縁の柵に腰かけて階下にいるペンにもにこやかに手を振っていて、見ている方は危なっかしくてひやひやさせられるのだけど、そういう危うさも計算のうえでのことか?!沼だわ~、この子は沼だわ~、と思いながら眺めていた。

反対側の花道ではイドンとジノが肩を組みながらはしゃいでいて、ん~~~~!(最高)

メインステージに戻ってからは、キノがジノにバックハグをかましていて、私は一人でガッツポーズをしました。推し同士が絡んでいるのなんて、それだけで生きる活力になったよ、ありがとう~~~。

 

終わり、そして始まり

2時間半?3時間弱?あっという間だった。

始まる前にYちゃんとラインをしていて、「断言しとくとライブ行ったら沼からは絶対抜けられないよ」と言われていたのだが、まったく否定する余地が見当たらない。早くも札幌KMFに行こうか迷い始めている。

ひとつの公演が終わった時、それは次の公演を待つ日々の始まりなのである。

かっこよくまとめたかったけど、つまるところお金がヤバイです。

おわり!

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一寸先は沼【その2】

あと1週間で人生のモラトリアムが終了しましてめでたく社畜デビューを果たすので、その前に、ライトなオタク生活の記録を残しておこうと思い立ちました。入社前の課題がまったく終わっていないので現実逃避です。あー。

少し前に追っているわけではないけれど、曲が好きでよく聴くアーティストを何人か書き連ねるだけのブログを書いたことがある。そこから180日が経っているらしい。え、時間の流れ、怖い。さてこの180日のあいだに、そりゃもう色んなグループがカムバックをしていて、もう取り返しがつかないほど頭のてっぺんまで沼に浸かってしまった。ハマった時はEXOだけだったはずなのに、気が付けば新しい沼にも足を突っ込み、随分と色んなグループがわかるようになってしまったのは幸か不幸か。仕事をするようになったら一体どうなってしまうのだろうとびくびくしている。

ということで、2017年4月~9月までの半年間(!)にカムバックしたうち、お気に入りとか、なんとなく記憶に残っている楽曲たちを。

 

4月

IU - Palette (Feat. G-Dragon)

IUちゃんの曲を初めて聴いたのがこれ。「きりちゃんはこれ好きだと思うよ」と友人に勧められたのだけど、付き合いが長いだけあってさすがよくおわかりだった。歌詞がさらりとしていて好きです。GD先輩のラップ部分もとっても好き。

韓国は年齢が数え年だから歌詞の中だと25歳になっているけれど、この方、同い年だと知った時は自分の不甲斐なさにショックを受けました。だから私も頑張ろう!とならないあたり、自分でダメだなと思うんだけど←

 

5月

Triple H - 365 FRESH

KCONに参戦した時にPENTAGONの二人のことを知って聴いてみたら、これがもう何もかもドツボだった。MVも曲も。KCON参戦記の方でも触れたので、ここでは割愛。その数か月後の今、PENTAGON沼にどっぷり浸かっているのだと過去の自分に教えてあげたい。

 

TWICE - SIGNAL

個人的な好みとしては、前回のKnock Knockの方が好きなんだけど(ビジュアル的にも楽曲的にも)、やっぱり可愛い。ところで、ものすごい頻度でカムバしている気がする……と思ったけれど、案外そうでもない?一度の活動期間が長いからよく見かけるような気がするだけかしら。でも来月末頃にまたカムバックの噂が出ているみたいだ。

 

VIXX  - 桃源郷Shangri-La

いやね、VIXXって名前は聞いたことありました。コンセプトドルらしい、という話も脳の片隅になんとなく記憶していました。だけどそれだけだった。見てみようかなと思ったのは、そもそも本命セブンティーンのカムバックと時期がかぶるからという理由で、いわば敵情視察みたいなモチベーションだったんですよね、最初は←
ところがこのMVを観て、こんな美しい世界を表現できるアイドルがいるのか、と圧倒されてしまった。韓服をモチーフにしたような衣装で水の上で踊るところとか、鳥肌がすごい。花のつかい方も綺麗だし、扇子を使った振り付けも官能的で、俗っぽさからは切り離された美しさでありながら、なおも画面から滲み出る色気、みたいな、すげ~って感じでした、ね。

 

SEVENTEEN - Don't Wanna Cry

今更ここに貼るのも白々しい気がするし、さらりと感想なんか書けるような代物ではないのだけど、とりあえず。セブチを好きになって初めてのリアルタイムでのカムバック、一生忘れないだろうなってくらい興奮した。この曲についてもじっくりと言葉をしたためたかったんだけど、そうこうするうちに次のカムバが近づいてきてるよ。ははは。

 

6月

G-Dragon - 無題

再三言うんだけど本当に恋愛の曲というものが苦手なのです。特にこの人の書く恋愛の歌詞ってどれも直球で、たぶん彼以外の人が歌ってたら私は笑っちゃうし真面目に聴けないんだけど、この声で、こんな風に歌われてしまったら、揺れる。

 

PENTAGON - Critical Beauty

この数か月後に沼に浸かっているって教えてあg(以下略)

 

7月

Zico - ARTIST / ANTI

別記事で叫んだ通りです。大好きになりました。アルバムも買いました。はい。

 

Red Velvet - Red Flavor

レドベル、曲は結構好きでよく聴いていたのだけど、これでやっと5人の見分けがつくようになった。5人それぞれに違った魅力があって可愛くて好きだけど、とにかくイェリが可愛すぎて、画面に映るたびに「うわ可愛い」って素で驚いてしまう。

 

EXO - Ko Ko Bop

どうせ推しいねえしな~と思って、ほとんど追わなかったなあ。曲も好きといえば好きなのだけど、私がEXOに求めていた姿とは少し違うかなっていうのが正直なところで、たぶんこれが所謂ペン卒というやつなのでしょう。レイちゃんのいる9人のEXOをまた見られたらいいんだけどなあ。このビジュアルコンセプトのレイちゃん、見たかったな。

 

8月

Samuel - SIXTEEN

彼について多くは知らないけれど、このMVのちょっとくすんだ色味とか儚い感じが好き。過ぎてしまって後から振り返る16歳って、確かに映像化したらこんな感じだ。

 

JJ Project - Tomorrow, Today

GOT7のJBとジニョンの2人のユニット曲。MVの撮影地が私が大学時代に自転車で旅をした北海道の景色というだけで泣けるのに、曲も歌詞も二人の声も振り付けも何もかも最高。夏の終わりによく似合う。

 

WANNA ONE  - Energetic

PD101は全然まじめに見てなかったのだけど、デビューしたからには聴いてみようと思ったら、初っ端のピアノのイントロで心を掴まれた。でも曲のみならず、MVの中の彼らも煌めいている、苦しいほど。

 

GFRIEND - LOVE WHISPER

これもKCONを機によく聴くようになったグループのひとつ。この前に出したFINGERTIPは、清楚系が売りの彼女たちにしては珍しいイメージだなあと思っていたら、この曲で元に戻った感じなのかな。あれはあれで好きだったけど。いずれにせよ、彼女たちの魅力である、どこか懐かしさを覚えるサウンド(よく私は「昭和っぽい」という表現を使っている、無論良い意味で)は健在で嬉しくなった。見ていて清々しくなるMVなんだけど、ふと思った。たぶんこれ、もっと若い時だったらそんなに良さがわからなかったような気がする。いわゆる初夏のアイコン(白い服、ひまわり、鳥や蝉の声、麦わら帽子)なんかに郷愁を覚えるのって、たぶん自分が年取ったからだよなあと気が付いてちょっとショックを受けた。もう自分の手元から離れて行ってしまったものたちだから。

 

PRISTIN - WE LIKE

ずっとヨジャグルに苦手意識があった私が、ちょっと追ってみようかなという気持ちになったのが彼女たちなんですよね。というのを前回の記事で書いた。で、ついに買ってしまいました、両バージョン。だって可愛いんだもん!!!

アップテンポな曲だと埋もれがちになってしまうのが惜しいのだけど、この子たちたぶん個々のスキルも相当高くて、デビュー前にプレディスガールズとして歌っている動画をいくつか見て、ソンヨンとロアの歌のうまさには度肝を抜かれた。

 

Golden Child - DamDaDi

ツイッターで仲良くしている人たちが「ゴルチャやばい」とおっしゃっていたのを見ていて、最初のうちは何のことだかわかってなかったのだけど、どうやら新人グループらしいと知って、しばらくは手を出すのをためらってたのね。ハマるのが怖くて。だけどあまりにも皆が良いっていうから、意を決して見たのですよ。そっからぶっ続けで10回ほど見て、その日のうちに11人の名前を覚え、リアリティ番組も一気に4話ほど見て、ああこれは沼りそう、というギリギリで今踏みとどまっています。まだCD買ってない。まだ(フラグ)

 

9月

PENATGON - Like This

彼らについては次の記事でじっくり書くぞ。がっつり落ちました。たぶん遠くない将来ファンクラブ入会もすると思います。自分の覚悟を決める早さと財布の紐の緩さにドン引きです。11月札幌に遠征しようか悩んでいます。自分でこうやって立てたフラグはたいてい回収するので、まぁそういうことです。口座残高に向かって合掌、ご愁傷さまでしたーッ!

 

BTS - DNA

BTSもSpring DayとNot Todayがとっても好きだったから、ちゃんと感想記事を書きたかったのに、次のカムバが来てしまって、ああああ。聞くところによると評価は二分されるという話らしいけど、私はとっても好きです、これ。イントロがドツボ。あと振り付けがカッコイイ。かりにも生物学徒の端くれとしてDNAに興奮しないわけがないんだよね。

 

EXO - Power

なんかもう、当然のように8人で世界が完結する様を見ていると、どんな顔をしてみればいいのかもわからなくなるよね。どこかにレイちゃんの要素でもないかとMVの最後の1秒まで期待しながら見ても叶わないからね、まぁいい加減現実を受け入れろって話なんだろうけれど!チクショー!私だってこのコンセプトの推し見て「やばいなにこれかっこいい!!」とか言いたかった!!あと本格的にどこを目指しているのかちょっと不思議……昔からの惑星設定を踏襲してはいるけれど、系統があまりにも違うので、うむむ。なんかなー。

 

そして、9月も末になって、とんでもない爆弾が2つ続けて投下されたのだけど、それはがっつり深追いしている人たちの話なので、また次の記事にでもすることにしよう。とりあえず言いたいのは、

セブチリーダーズとレイちゃん、何してくれとんじゃ!!!

 

とまぁ、こんなところでしょうかこの半年!

ざっと見返してみたら20曲もあった。【その1】が5曲しかなかった(あのときはセブチ・EXO・ガッセ・BTSは除外していたけれど)ことを考えると、やっぱり随分とわかるようになったなぁ、と思うね。

ここに載せたのは私がゆるふわ~っとお気に入りのアーティストたちばかりなのだけど、それ以外にも新人グループがわちゃわちゃ出てきた夏だったみたいですね。とくにProduce 101出身の子たちが所属するグループがデビューラッシュだった印象。元の番組を見ていないのでそのあたりはあまり食指動かずといった感じだけど、なんにせよ賑やかだった気がする。K-POPを好きになって2度目の夏だったけれど、昨年より色々わかるようになった分、とても楽しかったな~。

10月以降もまだまだカムバックラッシュが続きそうなので、楽しみ。仕事が始まったらどの程度追えるのか未知数だけど、どうにかして時間を見つけていきたい。

朝食綺譚

ミルクティーが好きだ。紅茶に牛乳を注ぐ瞬間が好きだ。深い紅色の透き通った液体の中に白い雲がもくもくと湧いて、あっという間に優しげな薄茶色になる。

たっぷりとバターを塗った食パンが好きだ。トースターで3分、焼けた表面にバターナイフを滑らせる瞬間の、ざりっとした音が好きだ。私の譲れないこだわりは、バターを塗ってからもう一度、1分だけトースターに入れること。一度焼いて、塗って、また焼く。二度手間じゃないのと母には不可解な表情をされたけれど、全然違うのだ。最初から塗って焼いても、こうはならない。塗る前に一度焼くのは、バターが全部中に染みこんでしまわないように。表面に焼き目を付けて鎧をまとわせておくのだ。そこに惜しまずにバターの塊をのっけていく。そうすると、塊はパンに触れたところから少しずつ溶けだして、つるつると表面を滑っていく。ここでバターを塗り広げることだってできるのだけど、私はそうしない。もう少しの辛抱だ。だってバターナイフで塗りたくってしまったら、せっかくのパンのふわふわが潰れてしまうでしょう。逸る気持ちを抑えて待つ1分。そしてトースターが鳴って、わくわくしながら扉を開ける。黄金色の液体になったバターがパンの縁から零れないように注意しなければならない。台所から食卓までの、歩数にして10歩もなかろうという距離さえもどかしい。どうにか腰を落ち着け、さぁいざ齧ろうと口元にその幸せの塊を近づけると、バターの香ばしい匂いがふわりと鼻をかすめる。まだ口に入れてもないのに、もう幸せだ。意を決してひとくち。かりっと小気味のいい音がする。その鎧を破ると、内側はもっちり、でもふわふわ。そこに表面のバターがじゅわりと絡みついて舌の上で混ざる。こんな幸せがあっていいのか。無心でその行為を繰り返して、気が付いたら私の手元には何も残らない。夢だったのかしら。

ミルクティーと、バターを塗った食パン。それだけの質素な朝食だ。それだけなのに、そこには浪漫がある。

食事をすること自体にはむしろ頓着しない方だと思う。頓着しないというのは、端的に言うと食べるのが面倒なのである。外出先であればコンビニに立ち寄って何かを購入するくらいの甲斐性はあるけれど、逆に言えばその程度だ。料理をするのも億劫だから、家にいたら逆に何も食べない。いくら空腹だろうと、だ。むしろ今、きちんとミルクティーを淹れて食パンを食べているだけで自分を褒めそやしたいくらいである。偉い、私ちゃんと生きようとしてる。すごいすごい。

でも、決して食を蔑ろにしているわけではない。食べることは好きだ。

私は日頃から死にたいとしょっちゅう口にする人間で、それは大抵の場合冗談ではない。死ぬ瞬間への恐怖さえなければ今にでも死んでしまいたいくらいなのだが、だからこそ、生に対して強烈な憧れがある。矛盾しているようだけど、なんてことはない、自分にないものを求めるというだけの話だ。自分の生を肯定できないから、生を美しくみせるものたちに惹かれる。文学も、自然科学も、絵画も、演劇も、徹底的に生を肯定する営みだと思う。生きていなければ存在しえないものたち。だから好きだ。そして食もまた然りなのである。

 

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とどめを刺すなら今、この場で

 ちょうど一年前、初めてブログに投稿した文だ。もともと違うサービスを利用していたのだけど、こちらに統一するにあたって、当時の文章も少しずつ移していくつもり。この頃の私はまだ両親を大好きだという。少しずつ変わっている。変わってしまったものを、当時の形のままで残しておくことも、まぁ悪くないのかもしれないな、とか。

 

 

 言葉を綴る、という行為が好きだ。
 自分の置かれている状況、自分の感じている気持ちだったり感覚を、自分の持つ語彙の中からしっくりくるものを見つけて当てはめていく。ぴたりとはまるときもあれば、なんだか釈然としないまま仕方なく当てはめるときもある。

 そもそも形のないものに敢えて意味を持った音とか形を与えるなんて、すごい試みだよな、と思う。だって、絶対取りこぼす。私の生きる世界を言葉の枠に当てはめたところで、全てを囲いきることはできずに、端からさらさらと、零れ落ちていく。今だってそうだ。私の頭の中で、零れ落ちて意味を失った何かが砂みたいにさりげなく光っている。勿体ないと思うけど、情報として形を得られなかったそれらをつかむ術はもうない。そんなフラストレーションのたまる行為を、ひとが当たり前に使っているって、すげー、と思う。
だから、言語化は疲れる。時々どうしようもなく面倒になって、全部そのままでいいんじゃないかって思う時がある。そうやって投げやりに選んだ言葉を他人にぶつけてこじれちゃったりする。

 外国語だと、それはより顕著になる。英語を話すのは嫌いじゃないけど、どうにも苦手だ。私が世の中の大半の人よりは英語ができる方だというのは事実として自覚しているが、それでも自分が一度も英語ができると思ったことがないのは、何も嫌味な謙遜じゃない。たしかに、意味の通る英文は作れる。でも、それだけなのだ。表現の幅がない。頭の中のふわふわを、的確に掬い上げることができる確率は、日本語とは比べ物にならない。零れ落ちる量が圧倒的に多い。だから、必要に迫られない限り、進んで英語を使うことはあまりない。

 でも、日本語だからって解決するものでもない。同じ言葉であっても、発する人によって掬い上げる対象や量が違う。零れ落ちるものも違う。ニュアンスの違いってやつ。たぶん、その枠の使い方が少しでも似ている人とは親和性が高い。逆に、こんな使い方できない!という相手に惹かれることもある。全然違うからこそ、付き合いづらい相手もいる。たとえば私は両親のことは大好きだけど、あの人たちに育てられたわりに、どこかで違う感性を培ったらしく、親にシンパシーを感じることはほとんどない。なんにしても、他者と感覚を共有することなんて永遠に不可能なのに、私たちはそれに縋って、他人を求めて、理解できたように錯覚している。彼の考えていることは理解できない、とか、彼女はわかりやすい、とか、私もよく言うけどさ。
 もしかしたら、私が「赤」という名前をつけている色が、あの子には私が「緑」と名前をつけた色に見えているかもしれない。美しい景色を見て、同じように美しいという感想を共有しても、同じものを見たとは限らない。そして、私はそれを知りえない。一生平行線じゃないか。人との関係なんて、本当にぎりぎりのところで成り立っているんだな、と時々笑いそうになる。

 それでも言葉は好きだ。言葉を選ぶのは楽しい。知人にアクセサリーを手作りする人がいるけれど、楽しさの種類は一緒なんじゃないかと思う。貝殻のモチーフを使おうか、それともガラスビーズにしようか。助詞は「が」がいいだろうか、それとも「は」だろうか。語尾はどうしよう。頭の中でとりとめもなくふわふわとしているものを掬い取ってはっきりと形にすると、なんだか達成感がある気がする。
 考えてみれば、なんだってそうかもしれない。絵を描く人は言葉でなくて色や形に感覚を載せるし、音楽を創る人はそれが音符になる。たとえば科学だって、ただそこに事実として存在しているものに、数式だったり物質の名前だったりを与えて、情報として扱えるようにしている。

 だから、ツイッターってものが楽しくて仕方ない。世間的には立派なツイ廃、というやつなのだろう。ツイッターをする動機は人それぞれだろうけど、私は、単純に言語化がやめられない。他者の言葉選びを間近で観察できるのも楽しい。

 でもたまに物足りなくなる。ツイッターは、簡単だけれど、その分殆どと言っていいほど、言葉を選ぶ時間は費やしていない。もっとじっくり言葉を吟味したくなって、まとまった文章が書きたくなって、結局こうして書いている。研究室の机に言い訳のように論文を広げてはいるけれど、頭の中では次にどんな言葉を選ぶかしか考えていない。
 アナログでちまちまと字を書くのも好きだし、誰にも見せない日記のようなものもあるにはあるが、なんてことはない、あえてオンラインを選んだのは承認欲求だ。140字よりも長い分、私の言葉選びには、私の人間性がもっと顕著に表れるんだろうから(ツイッターでもダダ漏れだという突っ込みが聞こえるようだ)、少し恥ずかしさはある。だから別に、多くの人に読んでほしいとは思わない。ブログ、読んだよ!なんて言われたくない。私の知らないところで、私に興味を持ってくれている人がいるかもしれない、という期待をしたい。

 いつまで続くか知らないけど。面倒になって放置するの、目に見えてるけど。

 ちなみに、文章を書くのは好きだけれど、タイトルをつけるというのが、致命的に苦手だ。小学生の頃、小説を書いていた時はいくらでも浮かんできたのにね。
というわけで、この初記事のタイトルは、三島由紀夫の言葉からもじったもの。今日私がとりとめもなく書いた言語化、という一種の「表現」について、彼はこう言っている。

――― 表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止めを刺し、その息の根を止める行為だ。