Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

11と12のあいだ

10年ぶりに自傷行為をした。この10年間も、波はあったけど衝動がゼロになったことはなくて、ただ時間が痛みを忘れさせていくうちに怖さの方が勝って、せいぜいカッターを持つところまでだった。やってみたら案外痛くなかった。全然。なんだ、そんなもんか、という感じ。まあ、痛くないのはだいぶびびっているからで、傷は全然深くならなかったし、血も思ったより出ない。それでまだ自分に甘い、とか思って傷が増えていくの、ヤバイんだろうなという感じはするけど、自分がヤバイんだって思っとかないと壊れちゃうので、これはやっぱり逃げ道なんだと思う。かすり傷みたいなのが9本。全然足りていない。こんなもんじゃ苦しんだことにはならない。

昔から自分を大事にできないタイプで、中学の頃に自傷を覚えた時も、それが変だとわかっていながら隠そうとすることはしなかった。当然のことながら直接的にそれに触れる人間はいなかったし、でもそういう話はすぐに広まるもので、まだ若かった担任は心底心配した面持ちで私を呼び出して「なにか悩みはある?」ときいてきた。その反応に、期待はずれだと思ったのを今でも覚えている。心配されたかったというよりは、気持ち悪がられたかったんだと思う。

大学の頃に大失恋をかましたのも結局、自分が愛されるに足る人間だと思えなかったからで、恋人のことは自分には抱えきれないくらい好きだったけど、その好きに耐えきれなくなって、愛されることにも耐えきれなくなってわかっていて浮気をしたし、そのあとに恋愛のマネごとみたいにいろんな人と遊びまくったのも形を変えた自傷行為の延長上だ。今はそういうのに付き合ってくれるような相手もいないからカッターに戻ってきただけの話。明日会社行けるかなあ。この傷、会社の人が見たらどうなるんだろうなあ。うちの会社は噂話のまわる速度がとんでもないから、きっとあっという間に広がって今までとは少し違う目線を向けられることになるんだろう。産業医への面談をすすめられるとか、休職を勧められるとかかな。そんなことを考えてちょっと愉快になっている。

苦しんでいるくらいが自分にふさわしい、という感覚を矯正することはできるのだろうか。隠そうと思うのなら太ももに傷をつけるとかやりようはあるのに、わざわざわかっていて手首にやっているのも、どうにでもなれという感覚が消えないからだ。どうでもいい。全部壊れちゃえばいい。そんで苦しんどけばいい。ずっとすまし顔できれいな文章ばかり綴ってきたけど、そろそろ化けの皮が剥がれてくる頃らしい。全然だめだ。

181211

ぎりぎりのところにいる。ぎりぎり、だめな方。暇だった一年目がうそのように、仕事が、それはもうめちゃくちゃにしんどい。ニュースで残業が80時間とかって耳にしていて、一体どんな地獄なんだろうと思っていたけど、毎日4時間くらいの残業なんて簡単に超えるんだと知った。うちの会社は裁量勤務制だから残業代もつかないし、だから真面目に計算もしていないけれど、11月の残業時間は140か150くらいは達しているはずだ。平日はもちろん、休日も夜中の2時まで仕事をするのが当たり前になりつつあって、さすがにまずいと思うのだけど、どうすればいいのかがわからない。それらしく立ち回る術ばっかり長けているから、こういうのをほかのひとに話しても私がただ自分に厳しいだけで案外状況は私が思うほどに悲観的じゃないはずだと思われるのが関の山だけど、そうじゃなくて、本当に大丈夫じゃない。私のせいでいろんなものが進んでいない。きつい。プレッシャー感じて泣いてる暇があったら手を動かせばいいのに、パソコンに向かって画面をにらみつけるだけで4時間とか5時間とか平気で過ぎていくのはとっくに正常じゃない。正常だったことなんてたぶんないけど。体が動かない。あれをしなきゃ、って思って、明確にその行動をしている自分を頭に描き出すことまではできるのに、物理的空間に存在する私の体はぴくりとも動かない。身に覚えのある感覚なだけに怖い。あの頃と同じだ。いつかまたあの闇の中に戻ってしまうんじゃないかってずっと怯えていたことが、ひたひたとそこまで迫ってきているのを感じる。いちど鬱になった人は、永遠にそちら側には戻れないんだと誰かがいつだか言っていたけど、つまりはそういうことで、ここで踏みとどまれる人ならば最初から鬱になったりはしない。そこに闇がいるのをわかっていて、それから背を向けて歩きだすことも振り払うことも私にはできない。飲み込まれる以外の道はない。すぐそこにいる。黒い犬はどこにも行きやしないのだ。明日会社に行けないかもしれない。布団から起き上がれないかもしれない。怖い。

少し前にあった新入社員の歓迎会で、入社して一番変わったことは?という問いに、誰かが「自分が毎朝起きてるのが信じられません!」とふざけてこたえて、それに上司が「あたりめーだ、ばか」と笑いながら野次を飛ばしていた。今私がいるのはそういう世界だ。毎日会社に行けることがあたりまえの人たちが生きる世界。私はその世界の住人じゃないのに、必死に宇宙人であることを隠してそこで生きようとしている。違うんだよ。毎日起き上がれることがどんなにすごいことなのか、生命を維持する営みがどんなに大変なのか、考えなくても生きていける人間には私はなれない。だましだましどうにか一日をやり過ごして、死なずに生き延びたことに少しだけほっとするような世界があることを彼らはきっと一生知ることはない。断絶だ。そこにあるのは、絶対的な断絶だ。

仕事が嫌なわけではないんだと思うんだけど、こうやって自分を騙しているうちにとっくにだめになってたみたいなことは今までにもあったから、全然自分の感覚に信用がおけない。会社のひとは好きだ。がんばりたいと思う。思うだけで、何もできていない。この一ヶ月、何もしていない。なにもしていないのに300時間も働いてる。ううん、こんなの働いてるとすらいえない。無駄な時間を300時間。これが会社のお荷物じゃなくてなんだっていうんだ。

私ってこんなに頭が悪かったんだなあと言い訳がましく言ってみるけど、本当は頭の良さどうこうの問題じゃないことにも気が付いている。覚悟が足りないのだ。生きると決めてはみたけれど、まだ追い込み方が全然足りない。どこかに逃げ道を探して、そんなものはないのに目の前にあるものから逃げ惑っている。今まではそれでも良かったんだ、それで迷惑を被るのは自分自身だけだったから。そうやって責任を躱して生きていく術ばかり身についてしまった。だけどこと仕事においては、この体は私だけのものではない。私がだめで、色んな人に迷惑をかけている。まだ見捨てずにいてもらえているのは、運がいいだけだとわかっている。それでもこいつ思ったより使えないなという空気はたしかに流れている。期待なんかされないほうがずっとましだ。期待させることばっかりうまくなったってどうしようもないんだ。仕事のやり方はまだ教えてもらえるけど、腹の決め方は一体誰に教えてもらえるのだろう。やらなければいけないことを、やらなければならないのだと内臓に叩き込んでもらうことまで他者に期待して、とんだ甘ったれだと思う。こうやって自分を貶めるような言葉を吐いて、それで赦されることを期待しているのもたちが悪いと思う。覚悟が足りない。全然足りていない。誰かに決めてもらうのをずっと待っている。死んでいいよ、と言われるのを待っている。ゆるされたいんだ。私はまだ自分が生きていくことをゆるせていないらしい。生きるって決めたんじゃなかったのかなあ。もう消えちゃったんだろうか。

誰かに助けてもらいたくて泣き言いってみたりするけど、差し伸べられた手を自分が振り払うのも目に見えていて、大丈夫?ときかれても大丈夫以外に答えようがない。大丈夫と聞こえるように、笑ってうーん、あんまり大丈夫じゃないかもねとかいう。笑って大丈夫じゃないよといえるうちは大丈夫なんだろうと相手が思うことを見越してそういう。私は悩むの趣味みたいなものだから、と母は笑う。その表現が的外れだとは思わないけど、そういう風に見えるんだなあと思った。そういうのにいちいち傷つくのもやめたい。そうじゃなくて、だってどうせ、何を言ったって誰も助けることはできないじゃん。この状況をどうにかできるのは私しかいない。大人になるってこういうことなんだなあと思う。伸びをしようとしたらテレビの前にあったジュンのアクリルスタンドに手があたってゴミ箱に落ちていって、なんでこんなことになってるんだろうと思いながらゴミ箱の中から大事な人を拾い上げたりとかしている。生活。生きること。

靄を一気にぱっと取り払ってくれるような魔法を期待して、近所迷惑とか度外視で深夜2時に爆音でロックを流して部屋の中で飛び跳ねて声を張り上げて歌ってみたりしたところで、まあ現実はなんにも変わらないし胸の重しも消えたりしない。楽になりたい。たとえばここで明日会社に行かなくて、自分が設定した打ち合わせも全部ぶっちして会社に行かずに美味しいものとか食べに行って温泉入りに行ってみたところで楽にはなれないので、結局楽になるには死ぬ以外にないんだなあと思っている。死なないけど。絶対にまだ死んでやらないけど、でもそう思っている。生きていくと決めたということは、私は自分に楽になることをゆるさないことにしたのと同義でもある。優しくいることを諦める代償だと考えたら、そんなものなのかもしれない。生きてる人間はすごいし、そう考えることもなく生きることができる人間はなんかもう、意味がわからない。生きる世界を間違えたなあと思う。ここは合理性と効率こそが正義の世界だ。

私が慕っている上司は、日本画が好きな人だ。私も日本画が好きで、日本画以外にもいろんな絵が好きで画集がいくつか家にあるみたいな話をしたら驚かれた。私の周りじゃあまり珍しいことじゃないのだけど、たしかに家族と仕事が人生のすべてみたいな人が大半を占める私の会社ではめちゃくちゃレアなタイプであることはたしかだ。そういう生き方のほうが、私の会社で働くということと親和性が高いのだ。そういうのを馬鹿にするわけじゃないけど、そういう生き方にも、そういう生き方をする人にもあまり興味がない。そんな中で日本画が好きだという人が思いの外近くにいたから、はじめて知った時はびっくりしたし、すごく嬉しかった。この人に、私はほかにビジュアル系バンドとジャズとK-POPと演劇を見ることと小説を書くことが好きですと言ったらどんな顔をするのだろうと思ったらちょっと愉快になった。そうだ、そういうものが好きだ。非合理的で、美しくて、存在しなくても世界はまわるけど絶対に絶対にこの世界に必要なものが好きだ。生きる世界、間違えちゃったなあ。

死なない。10年ぶりにまた好きになったギタリストのライブに行くまで、歌への愛でもってして私を魅了したアーティストの歌を聴きに行くまで、世界一大事にしたいと願う人がステージで輝く姿をもういちど目に焼き付けるまで、絶対に死んでなんかやらない。だけど、どうすれば死なずにいられるか、もうわかんない。ぎりぎり、だめな方。

BTS LOVE YOURSELF参戦記

友達に誘ってもらって、BTSのコンサートに行った。彼らのことを私はあまりよく知らない。好きな曲もたくさんあるのだけど、近づきすぎてしまうときっとしんどいだろうなと思っているから、意図的に距離を置いている。とくに最近は、ちらほらと流れてくるものにも気持ちを毒されてしまいそうで、彼らにまつわることはできる限り目に入れないようにしていた。いろんな視線に晒されていることは知っているし、その諸々に何も思わないわけじゃないけれど、そういうのに言及することが馬鹿馬鹿しいと思っているから、言わない。ただ、彼らがどうこうじゃなくて、彼らの周りに簡単に転がっている、悪意に満ちた言葉に傷つきたくなかった。

正直、この日も仕事のことで頭が埋め尽くされていて、全然楽しみにするとかそんな余裕もなくて、仕事が終わる気配もなくて、なんなら直前まで行きたいと思えなかった。行ったら楽しめることはわかっていたけれど、そんな心持ちでステージを観に行くことは無礼だと思っていたし、私より行きたい人がたくさんいることも知っていたから、余計に気が引けた。だけどやっぱり、あたりまえのように行ってよかったと思っている。

EXO以来、2年ぶりの東京ドーム。熱烈に推しているわけではないぶん、ひとつひとつのステージを穏やかな気持ちで観ることができた。そのせいか、印象に残っているシーンがたくさんある。綺麗だった。すごく美しいコンサートだった。5万人近くが収容されるあの空間でも、いちばん遠い2階の後ろの方だった。チケットがとれただけでも奇跡のようなことだと思っていたけれど、誘ってくれた友人は私にもっと近くで彼らのパフォーマンスを見てほしかったのだとがっかりしていた。でも、私は天井席が嫌いではない。暗くなった会場を満たすペンライトの光がいちばんよく見渡せる特等席だと思う。ステージの照明演出もよく見える。アリーナ席にいればありありと感じられたのであろう熱気が、私達のところに届くまでに薄れてしまうのはすこし寂しいけれど、でも、天井席には天井席の良さがある。近いことだけがコンサートの楽しみ方じゃない、全然。これは前にセブンティーンのコンサートのときにも書いたことだけど、ペンライトの海の中心に光をはなつ彼らの姿があるのは、本当に美しい光景だと思う。彼らはいつも、ステージから見たその海の美しさについて嬉しそうに語るし、私が彼らの見ている景色を見ることは一生ないけれど、そのかわり、私が目にするあの光景を彼らが目にすることもない。もったいないなと思う。見せてあげたい。

コンサートとか、舞台とか、エンターテインメントの場が好きだ。そういう場を満たす空気が好きだ。だって、儚いから。永遠に続かないから。

アイドルなんて追いかけたってなんにもならない、という人がいる。そうだ、なんにもならない。歌とかダンスとか、ペンライトの煌めきとか大掛かりな舞台装置とか、べつにこの世界になくたっていいものだ。ステージってそういうものだ。この世界になくても良くて、すぐに消えてしまうものに、私たちは魅せられている。永遠じゃないことを悲しみながら、それでも永遠じゃないからこそ、その瞬間を愛している、そうでしょう。公演時間なんて、たったの3時間だ。生きている時間のうちの何%にもならない、たった3時間のために、必死で生きる人々がいる。見る人も、ステージのうえに立つ人も、ステージを作る人も、終わるためだけに存在する瞬間に全霊を傾ける。そうしてできあがるものが、美しくないわけないんだ。必要性とか生産性とか、効率とか、役立ちとか便利とか、そういう言葉ばかりもてはやされる息苦しい世界で、バランスをとって生きるためにぶつけられたエネルギーが放つ光の眩しさ鮮烈さ美しさは凄まじい。そういう場所に、過去も未来もない。あるのは眩いばかりの今だけ。それが生きてるってことだと思う。コンサートにいると、生きてるなあと思う。生きてることを知りたくてコンサートに行ってるような気もする。

彼らはきらきらしていた。スパンコールがたくさんついた絢爛な衣装に身を包んで、照明に反射した汗の雫も光っていて、そこには闇なんかないみたいにきらきらとしていた。何万人もの人間からいちどに視線を向けられるって、どんな感じだろうか。髪をかきあげるだけで、目を細めるだけで、下唇を噛むだけで、そこに生きて、存在しているというだけで、熱っぽい視線を向けられることは、息苦しくはないだろうか。恋をすることもできず、不特定多数の他人に愛されることは幸せだろうか。ファンは足枷になっていないだろうか。そして、それよりもずっと鋭く、彼らを傷つけようと明確な悪意を持った視線や言葉を向けられることは。そんなことを考えながら、ずっと光のあたるところにいる彼らを眺めていた。

Love yourself. その言葉の意味を、僕たちもまだ探しています。最後のMCでナムジュンはそう言った。愛することは難しい。自分も他者も。だけど、幸せでいてほしいと思った。いろんなことを全部抜きにして、どうか、ひとりの人間として幸せであってほしいと思った。彼らが自分自身を愛する方法の答えがステージのうえにあるんだとしたら、それは嬉しいことだなと思う。そうだったらいい。Love yourself、愛せるかな。愛したいね。

181113

昨日、たまたまテレビをつけたら、売れっ子脚本家の密着番組をやっていた。仕事は終わっていなかったのに、つい見てしまった。他人の創作過程を垣間見る機会はそうないから、こういうのはつい興味をひかれてしまう。だけど見るほどに悔しさの方が募った。どうして、今この瞬間にも書いている人がいるのに自分は書いていないのだろう。いちどそう思ったらだめだった。この1ヶ月半、うまくやり過ごせているのだと思った衝動は、全然消えていやしなかった。自分がやりたいことで名を馳せている人が、世界にはいくらだっているのだということも、私が書かずに生きている時間を他の誰かが書くために使うことができているのも、悔しくてたまらなくて、布団に頭を打ち付けたくなった。

文章で食っていきたいとか、著名になりたいとか、そういうのは全然ない。好きなことは仕事にしたらきっと辛くなってしまうから、私と書くという行為の距離感は、たまに会う恋人同士くらいの程よさが望ましい。四六時中愛の言葉を交わし合うような恋人たちを羨ましいと思うことはあっても、そういう恋愛が自分に向いていないことを、私はよく承知している。そうじゃなくてただ、私がやりたいことをほかの誰かにとられてしまうような、そういう焦りがある。見当違いだとわかっている、書くことは誰にとっても平等になしえる行為なのに。でも、私が書かずにいるあいだに、私が書きたいものをほかの誰かが書いてしまったら嫌だと思う、そんなことはたぶんないのだろうけど。私は言葉にすることで自分の輪郭を保っていて、だから書かなくちゃ生きていけなくて、それを他人に奪われたくない。書きたい。書きたくてたまらなくなって、いてもたってもいられなくて、今日もやっぱり仕事は終わっていないけど、23時までと決めて、久しぶりに私用のノートパソコンを開いた。

仕事のパソコンは毎日使っているにしても、常に私の生活の中心にあったシルバーと黒の薄べったい相棒に一週間以上触らなかったのは、はじめて自分のパソコンをもった7年前から考えてもはじめてのことだと思う。いろんなものが変わりはじめている。抗い続けた自分の中での変化に、少しだけ寛容になりつつある。

ひとつ何かができるようになると、それまでできたはずのことができなくなる。そんな、ぎりぎりのところで生きている。もともと、生きるために必要な力は人より弱くて、これでも昔に比べたらだいぶマシになったけれど、メッセージに返信できない、風呂に入れない、歯を磨けない、立ち上がれないなんていうのはもうずっと前からだ。好きなグループのことだってほとんど追えていなくて、最近はついに、食事をとれなくなった。食欲がないとか、ストレスのせいだとかじゃない。ただ、別のところに使い果たしてしまっているだけ。力配分が下手なばかりに、食べるという行為に割く力が残らないのだ。スーパーに寄って惣菜を買うとか、外食をすることすら面倒で、ただ家に帰ることしかできない。こういうときのためにとカップラーメンを買い溜めるようにしたけど、それだってしんどい。立ち上がって、お湯をポットに入れて、ビニールの包装を剥がして、捨てて、お湯を入れて、とか、それがまず面倒で、だったらいいかと食べるのを放棄するのもしばしばだ。体重は目に見えて落ちている。そうまでして己を傾ける先が仕事だなんて、たった数ヶ月前の自分さえ信じまい。

もう少し生きてみよう、と決心したのは10月のはじめのことで、それなら今は仕事を頑張るということが必要だなと判断して、それまで自分の生活の中心に据えていたものを一旦手放すことにした。アイドルも、文章を書くことも、人間らしい生活をすることも。未来の自分を引き受けることは、仕事に真摯に向き合うことでもあると思ったからだ。ちょうどその頃、会社で新しいプロジェクトに配属された。それまで、仕事が楽しいという人の気持がさっぱりわからなかった私が、今は楽しいとか思ってしまっている。なんだかそれが自分ではないみたいで、どちらかといえば仕事で活き活きするような人間にはなりたくない気持ちの方が強かっただけに、なんだかなあという感じだけど、きっと悪いことじゃないんだろう。生きる覚悟を決めただけで、こんなにも見えるものが変わる。よくできた世界だ。

今までの暇で退屈な日々が嘘のように、やらなくちゃならないことが流れ込んできて、私の前に積み重なっていくようになった。きちんと順序立てて、着実にひとつずつ片付けていけばいいだけだと頭ではわかっているのに、気ばかり急いてしまって、ひとりでパニックになっている。たぶん、ちゃんと作業に没頭できている時間より、頭が真っ白になってフリーズしている時間の方が多い。はじめの一年をのうのうと過ごしてしまっただけに、自分の無力さに苦しんでいる。今更悔いたところで何にもならないけれど、もっと勉強しておけばよかった、もっとできることを増やしておけばよかったと過去の自分を恨みながら夜が更けていく。それでも、やることがあると安心する。やることがあるというのは、必要とされているということで、その対価としてお金をもらうことに罪悪感を感じなくてもすむし、ここにいていいんだと思えるのは嬉しいことだ。

帰りは随分遅くなった。文章を書くことも、丁寧な生活を営むことも犠牲にすると決めたのは自分だけど、それでいいんだっけ、と思うこともしょっちゅうだ。でも、全部欲張れるほど私は器用な人間ではないのだから、仕方がないと思うより他にないのだ。三歩進んで二歩戻って、仕事のできない自分に不甲斐なさを噛み締めながら、それでも先週理解できなかったことが今日は理解できるようになったりしていて、たぶん、まるっきりダメなわけじゃない。そう言い聞かせている。生きると自分に誓ったあの日から、私は一度も死にたいと口にしていない。

誰かに憧れる、という感覚を、随分久しぶりに味わっている。私のことを気遣ってくれて、育ててくれようといろんなことを教えてくれて、きっと私には想像もつかないほど忙しいはずなのに、私が声をかけるときちんと時間をとって向き合って話を聴いてくれる人。まっすぐ目を見つめて、よく笑う人。明朗ではきはきとした話し方をする、めちゃくちゃ仕事ができる人。年功序列ではないうちの会社でも、指折りの若さで一番高い役職に上りつめた人。このあいだネットストーキングしたら10歳しか離れていないことを知って、追いかけたい背中が遠すぎてちょっと呆然としてしまった。きっと私はこの人のようにはなれないのだろうけれど、この人のことがすごく好きだ。楽しそうに仕事のことを教えてくれるから、なんだか私まで楽しいような気がしてくるし、同じ世界を見ることができたらきっともっと楽しいんだろうなと思う。昇進したいとか、そういう野心は私には似つかわしくないけれど、この人に認められたいという気持ちだけはすごくある。誰に憧れるというのはあんまり好きじゃなくて、だって誰かになりたいって自分の存在を認めないことと同じような気がしてたんだけどな。なんだか中学生とか、そんな頃に戻ったみたいで、青臭い自分がちょっと恥ずかしい。

今日、お客さん先での会議の帰り、その人とふたりで本社まで戻りながら色々話す時間があった。たぶん謙遜も入っているんだろうけれど、これだけ遠くにいるように見える人でも、自分の無力さとか不甲斐なさに悔しくて泣いたこともあったみたいな話を聞いて、すごく安心した。1年目、何もできなくて後悔してるんです、と言ったらそんなもんだから大丈夫だよ、と言われて、気休めでも少し気が楽になった。10年分をすこしでも埋めたいと思ったとき、この人だったら何をするだろうと考えている。頭のいい人だから、むやみやたらとがむしゃらに走るなんてことはきっとしないんだろうなというのはわかる。それでもどうすれば良いのか今は全然見えないから、とりあえず頑張ろうとしか思えない。まだまだなんだなと思う。自分の未熟さを思い知らされることが気持ちいい。

頭の中を掃除するみたいに書いていたら脈絡のない日記になった。早く書き上げて仕事もう少しやって寝ようと思ったのにもう1時だ。昨日も資料作りに唸って結局朝の4時までかかってしまって、そういう要領の悪さを自分で愛おしいと思わないでもないけれど、そうも言っていられない。この世界で生きると決めたからには、もっとしたたかにならなくちゃいけない。私はそれを自分にゆるしたのだ。

仕事が楽しい。折り合いの悪いなと思う人も同じチームにいるから、この先しんどくなることもきっとあると思うけど、このわくわくを忘れずに持っておけたらいいなと思って残しておく。

 

 

181024

高校時代の親友の誕生日だ。めっきり連絡をとらなくなってしまった今でも、こういうのは忘れないらしい。もう、彼が親友という言葉を聞いて思い浮かべる相手は私じゃないんだろう。あの時は変わらないと信じていたものは、こんなにも簡単に別れてしまう。誕生日を祝うことももうない。それでいい。いいんだっけ。本当に?

過去の人間関係は過去のもの、と割り切って切り捨ててきたのは、ずっと死ぬ準備をしていたからだ。私のことを思い出す人が減るように、本当に死ぬと決めたときに私が思い出す顔が減るように。所属していたコミュニティから関わりを減らして、高校や大学時代に仲が良かった友人たちが未だに集まるのを見て覚える感情を無視して、私ひとりだけその輪の中から抜け落ちていくことに慣れようとした。そのうち誘われる回数が減ってゆくごとに安堵していた。またひとつ未練がなくなった、って。

自分で選んで断ち切ってきたくせに、今さら惜しくなっている。たった5文字を送るだけのことに、私の指はさっきからキーボードの上を泳いでいる。点滅する縦棒が「う」を飲み込み、「と」を飲み込み、「お」まですっかり平らげてから、またおめでとうを吐き出す。

でも、こうして繋ぎ止めたところで高校時代と同じ関係に戻ることはない。それがまた辛いんだろうなとわかっているから、いっそこのまま薄れたままでいる方がいいんじゃないかと思って、結局何も送らずにメッセージアプリを閉じる。もう私と彼の人生の線は交わらない。そんなの、よくあることでしょう。

ひとりで生きていくことを選んだはずなのに、今さら愛されたいなんて、愛される努力もしないでさ。

祝う時間は、まだ14時間残されている。

恋の翼を失ったので

恋とよぶにはいささか未熟な感情を、この数ヶ月ずっとひそかに抱いている。でも、その人との関係性に発展を望んでいるわけではない。望まない、といったら嘘になってしまうけれど、多くを望まずに今の関係を続けることの方が幸せなんだろうと思っている。他愛のない言葉遊び、親愛の情の確認、端末に降り積もっていく会話。幸せだということに、している。

運命だった、と今でも思う恋がある。付き合っている時もぼろぼろで、ひどい別れかたをして、お互いに傷ついた。記憶は美しいものだけを残すというけれど、それにしたって、楽しいよりも苦しいの方がずっと多い恋だった。でも、好きだった。一生一緒にいたいと願っていたし、馬鹿みたいに未来を信じていた。別れてから海の向こうで就職したその人は、最近転職して日本に帰ってきたらしい。もう違う世界の人だ。可能性なんてこれっぽっちも残っていない。それなのに今でも、あの人を超える人は絶対にいないと思っている。

まだ若いんだから大丈夫だよ、いつか素敵な人に出会えるよ、と誰もが口を揃えて言うのに辟易してきたから、あまりこの感覚を人に話すことはない。絶対にわかってもらえない自信がある。可能性から目を背けている、とかそういう話ではないのだ。蛇が空を飛べないのと同じくらいに、決まり切ったことなのだ。私はきっと誰も愛せないし、誰からも、私が望む形で愛されることはない。あの人に対して感じていたような気持ちを持つことは、きっとできない。誰に対しても、もうできない。

忘れようとしてほかの人に頼って、そうしているうちに気がついてしまった。恋人という名称のついた関係性で保証できるものなんて何一つないのだ。キスもセックスも、他人とするのは簡単だし。べつに、いい。片手間の恋愛なんかして誰かを傷つけるくらいなら、誰にも愛されない方がずっといい。私が愛せる人じゃなくちゃ意味がないから、恋人がほしいとも思わない。

うそだ。本当はめちゃくちゃに愛されたい。愛されたくてたまらない。空に憧れる蛇さながらに、けして手の届かないものに焦がれている。だから恋愛の話を書いたりなんかしているけど、そろそろそれも限界だなと思うことが増えた。空虚なのだ。とっくに消えた花火の光を必死に思い出したみたいな文章を、ひたすら書き綴ってきたけれど、もう思い出せなくなってきている。無理やりひねり出しても、納得できるわけじゃない。それっぽいものができるだけ。

恋愛もできない、結婚もするつもりもない、子どもなんて産みたくもない。そんな社会不適合なら、ひとりきりで生きた方がいい。いっそ山の奥の仙人にでもなってしまいたい、と思うことがある。でも、それは死にたいと同義だ。それじゃだめなのだ、私は生きることにしたのだから。それに、他者との関わりを一切持たなくなってしまったら、きっと文章は書けなくなってしまうだろう。それだけは絶対に嫌だ。物語には他者が必要なのだ。

運命の恋なんてものを、この期に及んでまだ信じているのだ。恋と呼ぶにはいささか未熟な、だなんて腰の引けた言い回しをするのは、なんてことはない、結局傷つきたくないからじゃないか。ああやっぱり運命の恋じゃなかったと思い知る日が来るのが、怖いからじゃないか。いっそひと思いに切り捨てられてしまったほうが楽だし、そうやってどうにでもなれと恋愛を模した自傷行為ばかりやってきたせいで恋の仕方なんて忘れてしまった。そうだ、これは恋じゃない。そう己に言い聞かせてやり過ごす以外に、私は自分の制御の方法を知らない。

181012

いつだって週末は待ち遠しいけれど、今日はとくに嬉しく感じる。

退社したのはいつもより少し遅めだったけれど、もうご飯を自分で用意しなくてもいいことにしたから、少し気は楽だった。明日は休みだから帰りが遅くなっても困らないし、浮いた時間を何に使おうかと思案しながら駅に向かった。毎日会話を続けている相手に退社したと連絡したら、来週だよ!と返事がきた。一週間後の土曜に会う約束をしているのだ。相手が私と会うことを楽しみにしてくれているかもしれないことが嬉しくて、つい口元が緩んでしまった。結局、改札に行く途中にある本屋で1時間近くふらふらしていた。好きな漫画家の作品が平積みされていた。ちょうど今晩からドラマ化すると帯に記されたその作品は読んだことがないものだったけれど、ちょうど昨日、その作家の別の作品の新刊が出るという話を、土曜に会う彼女から聞いて楽しみにしていたところだったから、タイミングの良さになんだか縁を感じて少しうれしくなった。ビジネス街の本屋だからコミックの売り場はほとんどなくて、昨日買おうと思っていた作品はここでもお目にかかれなかったけれど、いくつか目についたものを買った。

普段、本をよく読む方ではない。なんというか、読む側というよりは書く側の人間なのだろうなと思う。中身よりも、その言葉選び、節回しに気を取られがちで、痺れるような表現に出会ってしまうと悔しくてたまらなくなる。自分には到底思いつけないような文章に出会うたび、自分の小ささを突きつけられるように感じてしまうのだ。あと、これは自分の融通の効かなさが惜しいのだけど、片手間に読むということができない。もともとマルチタスクがきわめて苦手な人間で、ひとつ物事の片がつくまで次に進めない性格なのが災いして、なかなか本を読むという行為に没頭できないのだ。一度読み始めたら、読み終わるまで遮られたくない。でも、本を読むのには時間がかかる。だから、やるべきことが他に残った状態で読み始めてしまったら、やるべきことを終わらせることができないという恐怖感が先立ってしまって、本を開いて読み始めるまではそれなりの覚悟を要する。でも、言葉や知識を仕入れると、空っぽの自分が少し満たされたような気持ちがして気持ちがいいから、好きなことは確かだ。言葉を摂取するのは、言葉を吐き出すことと同じくらいやめられない。書くことはある種私にとっての排泄行為だと先日書いたけれど、それならば読むことは食事に等しいだろう。読むことも書くことも、生きることなのだ。

愛するもののために自分を費やしていたい。そして、私の愛するものは会社には存在しない。だから、私の魂を仕事に支配させたくないとずっと思ってきた。でもやっぱり少し明け渡すことにしようと思う。甘やかされたまま1年めを終えて、焦りばかりがあって、頑張らなくちゃ頑張らなくちゃとそればかり思考が塗りつぶされているままの日々が続くのも、いい加減嫌なんだ。何を頑張ればいいのかもわからないけど、少しずつでもできることを増やしていかなければ、私はずっとこの不安を会社に対して抱えたまま生きていくことになる。だから食事を作ることや物語を書くことを手放してでも、仕事の優先順位を少しあげなくちゃいけないんじゃないかと思った。あいにく、どれも欲張るほど優秀な人間にはできていないから、選ばなくちゃいけないのだ。

ずっと、今が全てだった。明日死のうと毎日思いながら生き延びていたから、未来のことを考える必要はなかった。もう随分そうやって考える癖がついてしまったから、未来のために選択をするということがすごく難しく思える。未来のために現在の自分を犠牲にしなくちゃならないことが苦しい。それで良いんだっけ、と思う。そんな生き方をするために生きようと決めたんだったっけ。どう生きれば自分をゆるせるのか、25年弱生きてもよくわからなくて、揺れている。

帰宅する頃には、ドラマ化されるというその平積みされていた漫画のことはすっかり忘れていたのだけど、ニュースを見ようとテレビを点けたら、まさにそのドラマがちょうど始まったところだった。これはきっと見なくちゃいけない作品なんだ、と直感したのは正解だった。見終えてからしばらく鳥肌が止まらなかった。とにかく岡田将生の演技が圧巻だったし、竜星涼もとても良かった。漫画や小説の映像化が原作を超えるのは難しいというのはよく言われることだし、原作ファンがどう感じるのかはわからないけれど、ドラマでこれならば、原作はいかほどだろうと思う。全巻揃えることを誓ったところだ。評価が高いというアニメも映像配信サービスで見られるというから、そのうち見ようと思う。『昭和元禄落語心中』、全10回。来週の金曜が今から楽しみで仕方がない。

ドラマが終わってからは、買ってきた本を読んでいた。今、村田沙耶香の新刊『地球星人』を読み終えたところだ。ほかの作品もいくつか読んだことがあるけれど、今回のも村田ワールドにふさわしい後味の悪さだった。途中までは比較的穏やかで感情移入がしやすくて拍子抜けするほどだったのに、終盤のぶっ飛び方が怒涛だった。似たようなことは日頃感じている側の人間だけど、こういう鋭い切り口で描き出す発想力は私にはないんだよなあ。

ほかに今日買ったのは、小川哲『ユートロニカのこちら側』、木下龍也/岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』、暁方ミセイ『ブルーサンダー』。

小川哲は少し前に『ゲームの王国』をジャケ買いならぬ装丁買いをしたのが出会いで、これがもうハチャメチャに面白かったから、ハヤカワSF大賞受賞作でもある『ユートロニカのこちら側』もずっと読もうと思っていたものだ。木下と岡野の『玄関の~』は、男子高校生ふたりの七日間を短歌で描いた歌集だ。いつの間に自分がこんなに短歌を好きになったのだろう。とにかく短歌をよく読むようになった頃から木下龍也はずっと好きで、これも前から買おうと思っていたものだ。たった31文字から、匂い立つような高校生の夏が垣間見える。歌集や詩集は何が良いって、前から順番に読み進めていく必要がないところだ。ふっと開いたページに出会えるのはどんな句だろうかと楽しみにするのも楽しい。暁方ミセイの詩集は、装丁に一目惚れした。濃紺の少しざらついた表紙に、銀に浮かび上がるタイトルが夜のように美しくて目を奪われた。

休みだ。明日は何も予定がない。気が済むまで文字を吸収して、眠くなったら寝る。最高だなあ。