Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

朝食綺譚

ミルクティーが好きだ。紅茶に牛乳を注ぐ瞬間が好きだ。深い紅色の透き通った液体の中に白い雲がもくもくと湧いて、あっという間に優しげな薄茶色になる。

たっぷりとバターを塗った食パンが好きだ。トースターで3分、焼けた表面にバターナイフを滑らせる瞬間の、ざりっとした音が好きだ。私の譲れないこだわりは、バターを塗ってからもう一度、1分だけトースターに入れること。一度焼いて、塗って、また焼く。二度手間じゃないのと母には不可解な表情をされたけれど、全然違うのだ。最初から塗って焼いても、こうはならない。塗る前に一度焼くのは、バターが全部中に染みこんでしまわないように。表面に焼き目を付けて鎧をまとわせておくのだ。そこに惜しまずにバターの塊をのっけていく。そうすると、塊はパンに触れたところから少しずつ溶けだして、つるつると表面を滑っていく。ここでバターを塗り広げることだってできるのだけど、私はそうしない。もう少しの辛抱だ。だってバターナイフで塗りたくってしまったら、せっかくのパンのふわふわが潰れてしまうでしょう。逸る気持ちを抑えて待つ1分。そしてトースターが鳴って、わくわくしながら扉を開ける。黄金色の液体になったバターがパンの縁から零れないように注意しなければならない。台所から食卓までの、歩数にして10歩もなかろうという距離さえもどかしい。どうにか腰を落ち着け、さぁいざ齧ろうと口元にその幸せの塊を近づけると、バターの香ばしい匂いがふわりと鼻をかすめる。まだ口に入れてもないのに、もう幸せだ。意を決してひとくち。かりっと小気味のいい音がする。その鎧を破ると、内側はもっちり、でもふわふわ。そこに表面のバターがじゅわりと絡みついて舌の上で混ざる。こんな幸せがあっていいのか。無心でその行為を繰り返して、気が付いたら私の手元には何も残らない。夢だったのかしら。

ミルクティーと、バターを塗った食パン。それだけの質素な朝食だ。それだけなのに、そこには浪漫がある。

食事をすること自体にはむしろ頓着しない方だと思う。頓着しないというのは、端的に言うと食べるのが面倒なのである。外出先であればコンビニに立ち寄って何かを購入するくらいの甲斐性はあるけれど、逆に言えばその程度だ。料理をするのも億劫だから、家にいたら逆に何も食べない。いくら空腹だろうと、だ。むしろ今、きちんとミルクティーを淹れて食パンを食べているだけで自分を褒めそやしたいくらいである。偉い、私ちゃんと生きようとしてる。すごいすごい。

でも、決して食を蔑ろにしているわけではない。食べることは好きだ。

私は日頃から死にたいとしょっちゅう口にする人間で、それは大抵の場合冗談ではない。死ぬ瞬間への恐怖さえなければ今にでも死んでしまいたいくらいなのだが、だからこそ、生に対して強烈な憧れがある。矛盾しているようだけど、なんてことはない、自分にないものを求めるというだけの話だ。自分の生を肯定できないから、生を美しくみせるものたちに惹かれる。文学も、自然科学も、絵画も、演劇も、徹底的に生を肯定する営みだと思う。生きていなければ存在しえないものたち。だから好きだ。そして食もまた然りなのである。

 

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とどめを刺すなら今、この場で

 ちょうど一年前、初めてブログに投稿した文だ。もともと違うサービスを利用していたのだけど、こちらに統一するにあたって、当時の文章も少しずつ移していくつもり。この頃の私はまだ両親を大好きだという。少しずつ変わっている。変わってしまったものを、当時の形のままで残しておくことも、まぁ悪くないのかもしれないな、とか。

 

 

 言葉を綴る、という行為が好きだ。
 自分の置かれている状況、自分の感じている気持ちだったり感覚を、自分の持つ語彙の中からしっくりくるものを見つけて当てはめていく。ぴたりとはまるときもあれば、なんだか釈然としないまま仕方なく当てはめるときもある。

 そもそも形のないものに敢えて意味を持った音とか形を与えるなんて、すごい試みだよな、と思う。だって、絶対取りこぼす。私の生きる世界を言葉の枠に当てはめたところで、全てを囲いきることはできずに、端からさらさらと、零れ落ちていく。今だってそうだ。私の頭の中で、零れ落ちて意味を失った何かが砂みたいにさりげなく光っている。勿体ないと思うけど、情報として形を得られなかったそれらをつかむ術はもうない。そんなフラストレーションのたまる行為を、ひとが当たり前に使っているって、すげー、と思う。
だから、言語化は疲れる。時々どうしようもなく面倒になって、全部そのままでいいんじゃないかって思う時がある。そうやって投げやりに選んだ言葉を他人にぶつけてこじれちゃったりする。

 外国語だと、それはより顕著になる。英語を話すのは嫌いじゃないけど、どうにも苦手だ。私が世の中の大半の人よりは英語ができる方だというのは事実として自覚しているが、それでも自分が一度も英語ができると思ったことがないのは、何も嫌味な謙遜じゃない。たしかに、意味の通る英文は作れる。でも、それだけなのだ。表現の幅がない。頭の中のふわふわを、的確に掬い上げることができる確率は、日本語とは比べ物にならない。零れ落ちる量が圧倒的に多い。だから、必要に迫られない限り、進んで英語を使うことはあまりない。

 でも、日本語だからって解決するものでもない。同じ言葉であっても、発する人によって掬い上げる対象や量が違う。零れ落ちるものも違う。ニュアンスの違いってやつ。たぶん、その枠の使い方が少しでも似ている人とは親和性が高い。逆に、こんな使い方できない!という相手に惹かれることもある。全然違うからこそ、付き合いづらい相手もいる。たとえば私は両親のことは大好きだけど、あの人たちに育てられたわりに、どこかで違う感性を培ったらしく、親にシンパシーを感じることはほとんどない。なんにしても、他者と感覚を共有することなんて永遠に不可能なのに、私たちはそれに縋って、他人を求めて、理解できたように錯覚している。彼の考えていることは理解できない、とか、彼女はわかりやすい、とか、私もよく言うけどさ。
 もしかしたら、私が「赤」という名前をつけている色が、あの子には私が「緑」と名前をつけた色に見えているかもしれない。美しい景色を見て、同じように美しいという感想を共有しても、同じものを見たとは限らない。そして、私はそれを知りえない。一生平行線じゃないか。人との関係なんて、本当にぎりぎりのところで成り立っているんだな、と時々笑いそうになる。

 それでも言葉は好きだ。言葉を選ぶのは楽しい。知人にアクセサリーを手作りする人がいるけれど、楽しさの種類は一緒なんじゃないかと思う。貝殻のモチーフを使おうか、それともガラスビーズにしようか。助詞は「が」がいいだろうか、それとも「は」だろうか。語尾はどうしよう。頭の中でとりとめもなくふわふわとしているものを掬い取ってはっきりと形にすると、なんだか達成感がある気がする。
 考えてみれば、なんだってそうかもしれない。絵を描く人は言葉でなくて色や形に感覚を載せるし、音楽を創る人はそれが音符になる。たとえば科学だって、ただそこに事実として存在しているものに、数式だったり物質の名前だったりを与えて、情報として扱えるようにしている。

 だから、ツイッターってものが楽しくて仕方ない。世間的には立派なツイ廃、というやつなのだろう。ツイッターをする動機は人それぞれだろうけど、私は、単純に言語化がやめられない。他者の言葉選びを間近で観察できるのも楽しい。

 でもたまに物足りなくなる。ツイッターは、簡単だけれど、その分殆どと言っていいほど、言葉を選ぶ時間は費やしていない。もっとじっくり言葉を吟味したくなって、まとまった文章が書きたくなって、結局こうして書いている。研究室の机に言い訳のように論文を広げてはいるけれど、頭の中では次にどんな言葉を選ぶかしか考えていない。
 アナログでちまちまと字を書くのも好きだし、誰にも見せない日記のようなものもあるにはあるが、なんてことはない、あえてオンラインを選んだのは承認欲求だ。140字よりも長い分、私の言葉選びには、私の人間性がもっと顕著に表れるんだろうから(ツイッターでもダダ漏れだという突っ込みが聞こえるようだ)、少し恥ずかしさはある。だから別に、多くの人に読んでほしいとは思わない。ブログ、読んだよ!なんて言われたくない。私の知らないところで、私に興味を持ってくれている人がいるかもしれない、という期待をしたい。

 いつまで続くか知らないけど。面倒になって放置するの、目に見えてるけど。

 ちなみに、文章を書くのは好きだけれど、タイトルをつけるというのが、致命的に苦手だ。小学生の頃、小説を書いていた時はいくらでも浮かんできたのにね。
というわけで、この初記事のタイトルは、三島由紀夫の言葉からもじったもの。今日私がとりとめもなく書いた言語化、という一種の「表現」について、彼はこう言っている。

――― 表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止めを刺し、その息の根を止める行為だ。

時間も霞む雨の日は

昨夜は台風だった。ばらばらと雨粒が窓ガラスに叩きつけられていた。この文を綴り始めてまもなく中途半端に暗くなった空は、厚い雲のせいか、それともその後ろで身を潜める太陽の役目の終わりだったからか。夏だ。乾いた部屋の中で雨音を聴いているのが好き、という人は私だけではないだろう。隣に好きな人でもいればもっと良かったのだが、生憎とそんな相手はいない。

夏は大好きで、大嫌いだ。どんな季節も苦しさはいつだって私のすぐ側にぴたりと張り付いて離れようとはしないけれど、夏は格別だ。すれ違う浴衣の少女たち、派手な色の水着を着せられたマネキンたち、日に焼けた少年たちの褐色の肌。街に溢れる彩り鮮やかなショーウィンドウとは裏腹に、ことさらに死をすぐそこに感じる季節、それが夏だ。それがなぜなのかについて深く考えたことはないけれど、私はそのちぐはぐさが嫌いではない。外に出るたび、気持ち悪いなあと思う。その気持ち悪さが愛おしいな、とも。

ここ最近、ひたすら文章を書くことに没頭しているけれど、同じ界隈には良い文章を書く人たちがたくさんいる。それはもう、悔しくなるほどに。比較することに意味などないとわかりつつも、妙に焦燥感を刺激される。

文章というのは、書く人を映す鏡だ、と思う。素敵だと思う文章があれば、私はその書き手の人格そのものにそのまま惹かれる。会ったことのない人であってさえ、その人の書いた文章ひとつで、私は恋に落ちることができる。その人が、何を見て、何を感じて、何を考えて、どんな言葉を選んでそれを共有するのか。そこに私は一つの宇宙を見出す。すなわちその人の言葉は、その人がどう世界を解釈しているかを他者が知ることのできるひとつの覗き窓なのである。だから、良い文章に出会って悔しくなる時というのは、美しい言葉を使う彼女たちの目に映る世界を、私が理解することはできないという事実を突きつけられる時なのである。私もそういう文章を書きたい、と思う時というのは、彼女たちが見ているであろう世界の形を私が見ることの叶わない残酷さと直面せねばならぬ時なのである。

私は私の方法で、彼女らは彼女らの方法で、世界を捉える。その世界を、言葉という道具を用いて共有する試みこそすれど、世界そのものが本質的に交わることはおそらくない。

なんという大きな空間が、人と人とのあいだの心の通い路を閉ざしていることだろうか!

(中略)

一人の少年が、壁に首をもたせて、声もなく泣いている。ぼくの思い出に、彼については、慰めがたい一少年として以外、何ものも残らないはずだ。ぼくはエトランゼだ。ぼくには何もわからないのだ。ぼくは、彼らの帝国にはついにはいってはゆけないのだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳)

 

それでも、少しでもその帝国を見てみたくて躍起になっている。だから、もっと本を読もう、と思った。

上に引用したサン=テグジュペリの作品は、友人に「とにかく読んでほしい」と薦められたものだ。ようやっと昨日手に入れて、今半分ほど読み進めたところなのだが、人間の存在を柔らかく慈しむ言葉たちがじんわりと胸に沁みる。

私は2017年に生きている。サン=テグジュペリが生きていた時代よりも、もっと簡単に絶望できる時代になってしまった。彼が美しいと思うほどには、私はこの世界を美しいとは思えない。この星の至るところに蜘蛛の糸が張り巡らされてからというもの、世界はまるごと愛するには、あまりにも色々な、悲しいことが、簡単に見えるようになってしまった。私はありとあらゆることに絶望して、逃げ出したいと喚く心を持て余している。

けれども言い換えれば、彼のように空を飛ばずとも、暗夜に輝くともしびを見ることのできる時代でもある。

世界は残酷になった分だけ、面白くなった。普通に生きていただけでは一生出会えなかった言葉と、一生交わらなかったであろう人々と、出会うことを可能にした。有名でもなんでもない、「ふつう」の人たちこそが天才であり、サン=テグジュペリがいうところのともしびであるのだと知った。

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。

 あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。

(中略)

しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。

 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳)

ともしびがそこにあるというだけならば、誰にでも気付ける。けれど、そのともしびの一つ一つが “読書したり、思索したり、打明け話をしたり、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したり” する人々の存在の証であるのだということは、忘れがちだ。ウェブの大海原に漂う、ともしびたる言葉たちの向こう側、そこに確かに生きる人々から目を逸らすまいと己に改めて誓う台風一過の昼。

まだだ、絶望するには早すぎる。

欠陥製品

付き合っていた人にフラれてからそろそろ2か月くらい経つんだけど、あんなに調子よかったメンタルがどんどん下降してきている。別にその人のせいだけではないけれど、きっかけだったのは間違いない。大学院に通えなくなってから10ヵ月、やっと普通の生活ができるようになってきたと思ったのに。また逆戻りだし、結局自分の根本は何をしようと変わらないんだなというところに行きついて、もう直したいと思う気持ちすら萎えている。4年戦っても勝てなかった、もういいよ。

母親が私の扱いに困っている空気を感じる。そうだよね、やっとの思いで引きずっていったカウンセリングで8ヵ月かけて、やっと娘が回復して元気になったと喜んでいたらまたこれですもんね。母は利口な人だと思うし、私がどんな状態であれ一貫した態度を取ってくれる人ではあるけれど、だからといって、その後ろにあるものまで隠しきれているわけじゃない。最近は親と会話をするのも億劫で、最低限しか口をきいていなかったけど、今日は珍しく昼食の時にちょっと他愛のない会話をした。それだけで、彼女が安心しているのがなんとなくわかってしまって、不愉快だと思った。

まだ親を嫌いだと言い切る勇気はない。というか、別に嫌いではないと思う。少なくとも、死んでほしいとかそういう風には思っていない。両親には幸せでいてほしい。ただ、その幸せに、私を含めないでほしい。親子という関係性が心底重い。

かなり長いこと、親を神格化してきた。親が自分と同じように感情を持った人間であるということを理解したのは、人よりずいぶんと遅かったように思う。まぁ、どれくらいの年齢が一般的なのかは知らないけど、発達心理学的に親と自己を切り離すのが自我同一性の確立の一プロセスとして考えられるのならば、思春期がそうなのだろう。けれど少なくとも私は二十歳になるまで親を疑うということを知らなかった。彼らの言うことならば絶対であり、間違いのないものだと信じていた。私の意思はすなわち親の意思だった。自分だけでは何も決められなかった。大学3年くらいまでは毎日の服すら親に決めてもらっていた。私の人生が私だけのものであったことはなかった。初めてのセックスの相手も、それがいつだったのかも親は知っている。後から知ったとかそういう話ではない。リアルタイムで把握されている。だって、恋人と国内旅行に行くのに泊まるホテルの名前を報告しなきゃいけなかったんだから。

しかも、両親はその「完璧な親」を文字通り完璧に演じてきた、私が疑う余地などないほどに。特に母親が感情的になったところを、私はほとんど見たことがない。叱られたことはあっても、怒られたことはない。母は私にとって完璧な人間だった。私が母に唯一勝てると思っているのは学歴だけだけど、実際それすら親の課金で手に入れたものであって、私の実力ではない。

親への信仰を打ち砕いてくれたのは、大学4年の時に少しの間だけ付き合っていた人だった。その人は一人暮らしをしていて、私はしょっちゅう遊びに行っていた。でも、外泊はしなかった。帰りたくなくて終電を逃しても、私の中に帰らないという選択肢はなかった。親が外泊を禁じていたから。その人は、「葵利はどうしたいの?親は関係ないでしょ、葵利がどうしたいかが大事でしょ」と言ってくれた。その人としてはごく当然のことのつもりだったのだろうけれど、私にとっては世界が変わった瞬間だった。なんだ、そうか。親と価値観が違っていてもいいんだ。親からかかってくる電話を全部無視して、携帯の電源を落として、その人と一緒に眠った。朝起きたら「住所を教えなさい、車で迎えに行くから」というメールすら入っていて、ドン引きした。娘が思い通りにならなかったというだけで血相変えて、なんでこんな必死なんだろう、この人。そう思った。大学4年の初夏の話。その人とはすぐに別れてしまったけれど、今でも感謝している。

それ以来、随分とマシになったと思う。親は親なりに諦めをつけたんだろうし、私は22歳を過ぎて、ようやく自分の人生を自分で歩くということを始めた。もっとも、今でもそれは成功していない。肝心なところで親を頼る癖はなくなっていない。親が都合よく私に接してきたのと同じくらい、私も都合の良い扱いを彼らにしている。

思考停止の妄信をやめたら、彼らは普通の人間だった。

しこたま飲んで帰宅して、トイレでげえげえ吐く父を見てから、酔うほど酒が飲めなくなった。終電を逃した父を母が車で迎えに行くと言って出て行って、妙に帰りが遅い時はどこかでいちゃついてるのかな、と思うようになった。酔って私にダル絡みをする父を見て、会社の若い女性にもこうしてセクハラをしていたらどうしよう、と不安になった。私が外泊して家を空ける時、彼らもセックスをするのかな、と思うようになった。不機嫌な父に八つ当たりをされても穏やかな顔を崩さない母に、この人は一体どれだけのことを言わずに飲み込んできたんだろう、と憐れみを覚えるようになった。

いいんだ、人間なんだから、人間らしくいればいいんだ。酔っ払おうがセックスをしようが悩もうがそれは彼らの人生なのだからどうぞご自由に。仲が良いのも大いに結構。頭ではそう思っていても、心がそれを拒否する。私は、綺麗じゃない彼らを未だに受け止めることができていない。

自分がきちんと自我を確立できてさえいれば、こうはならなかったのだろう。私は親に信用されてこなかった。過保護とはそういうことだ。子どもに対する不信であり過小評価だ。

親に依存することで安心を得ていた私が親から離れるのは、めちゃくちゃ苦痛を伴う行為だ。結局恋愛依存的なところがあるのは、そのあたりが関係しているのだろう。安心が欲しいのだ。一人じゃ不安なのだ。

家を出たい。でなきゃいけない。このままじゃだめだ。

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ここじゃ消費者が王様なんだよ

昨日、夜中のテンションで書きなぐっていたら、久しぶりにブログを書こうと思ったそもそものきっかけをすっかり忘れてそのまま寝てしまった。

ZICOの新曲がやべえという話です。

youtu.be

何ってとにかく歌詞がもう、とんでもなくかっこいい。痺れる。

私ヒップホップっていうのがずっとダンスのジャンルの名前だと結構最近まで思ってたくらいにはその界隈に無知だし、ZICOの音楽をまともに聴くようになったのだってたった2,3ヵ月前の話だけど、この人のこのマインドがヒップホップなのかもしれないって、この歌を聴いて思った。言葉を武器にして闘う者の気概を感じる。ラップの巧い下手は私にはまだ判別できないけど、技術とかそういうものを超えてきてる。ダブルタイトル曲のもう片方は、まさしく彼自身を形容するにふさわしい言葉だと思う。この人は、アーティストだ。芸術家だ。

この歌詞は、彼自身に向けて書かれたものだと解釈するのが一番自然な気がする。けれど私は、この詞が同業者に向けて書かれたものに思えた。それも、彼の中では対象はかなり明確なはずだ。自分に向けた言葉を装ってそれをぶつけているのだとしたら、それってものすごく、人間くさいなと思った。それが一体誰を指すのかまでは、一傍観者である私にはわからないけれど、それがもし、私が好きなEXOだったりしたら、もうめっちゃくちゃ興奮するなって思った。

Idolは直訳すれば偶像であり、即ち大衆から崇拝される対象だ。

ZICOが率いるBlock Bというグループを少しググればすぐにタイの寄付金に関する問題発言のエピソードにぶち当たる。彼らにとってはきっと、これから先も避けて通れない楔になるのだろう。活動歴が長いわりに中堅どころに留まっている(あくまで私見です)のは、たぶんアイドルとしては不完全だからなんだろうなと思う。大衆の求める”偶像”ではない。だけど、少なくともZICOの生み出すものは、そんなものを軽く凌駕するだけの圧倒的な説得力がある。

せぶちはアイドルとして振舞うことに余念がないし、それでいて苦しんでいる姿が垣間見えるところが青臭くて可愛いなと思う。EXOは脱退や不参加メンバーのことがあるから、グループ単位での偶像としての完全性には随分とひびが入りつつある印象だけど、それでも彼らはプロのアイドルだ。でも、ZICOは違う。偶像的であろうとするよりも、人間的だ。潔白な人間性を求められる今のK-POPアイドル界には逆行するスタイルなんだろうけど、ヒップホップのHの字も知らない私がそれでも強烈に彼に惹かれるのは、彼から”生”を感じるからだ。綺麗に取り繕われた幻想よりもよっぽど、ぐちゃぐちゃに生きてる、って感じする。すっげえ、かっこいいよ。例えるならなんだろう、夜の海かしら。真っ暗なのに、時々どこかの光を反射して煌めく、そんな美しさ。でも、それはいささか綺麗すぎるかもしれない。それに、そんな偶発的な輝きでもない。ごみ溜めの中で燦然と光を放つ、強さと美しさを兼ね備えた言葉。

youtu.be

私もアーティストになりたい。言葉を武器に戦える人になりたい。

昨日あんな記事を殴り書きしたけど、私はまだ世界に夢を見ていたいんだ。生が眩いエネルギーを持った素晴らしいものだって思わせてくれる何かを、こうして探し続けている。ドルオタ馬鹿にすんじゃねえ。

叫ぶ

このブログはもともと、アイドルのことしか綴らないつもりで作った。内輪の人にしか見せないプライベートなことを綴るブログは別にあって、そっちはそっちでたまに更新したりしていた。でも、なんだか馬鹿らしくなってしまった。そうして細分化して、場所に応じて見せる自分を変えるたび、自分が引き裂かれていくみたいだと思う。変な話だ、私は一人しかいないのに。自分の存在証明のために文章を綴っているのに、それが自分を分断していくだなんて本末転倒もいいところじゃないか。

アイドル垢で政治や社会問題のことはなんとなく言いにくいし、リア垢で「まじ推しの顔面大正義」なんて言おうもんならそれはルッキズムだと反論されそうだからやっぱり口をつぐむ。大体K-POPは、私が現実に生きる世界で主流のフェミニズムジェンダー論とは親和性が低い。

でも、だからってそうやってなんでもかんでも飲み込んでいかなきゃいけないの、いい加減気持ち悪い。私は性的少数者であり、リベラルであり、フェミニストで、そのくせ性別二元論に明確に基づいたK-POPが好きで、男性同士の恋愛にロマンを見出すタイプの人間だ。矛盾してる。矛盾しまくってる。でも、私は叫びたいんだ。私はここに、相反したものを抱えながらも存在しているんだ。言いたいことを言わせろ。ポリコレの追求だなんて、ダイバーシティが声高に謳われるこの世界では机上の空論に過ぎないんだから。その二つは両立できないよ、いい加減気付け。だってそうでしょう、真にダイバーシティが浸透した世界に、そもそも一義的なコレクトネスなんてものは存在しえないんだから。

同じように、世の中に一義的な普通なんてものは存在しない。各々が「普通だと思っているもの」があるだけだ。でも、あなたが考える「普通だと思うもの」と、私が考える「普通だと思うもの」は決して同じじゃない。差異が十分に小さければそれは無視できるかもしれないけれど、本来それは目を逸らすべきではないと私は思う。私はそう思うのに、世の中の大抵の人は、ありもしない普通を信じて、それを他人と共有できていると信じて疑わなくて、それを規範にして平気で生きている。私にはそれが心底理解できない。私の考える普通は、たいていの場合人とは少しずれているらしい。友人は私を普通じゃないという。私はどうやらそうらしい、としか思えない。私は私にとっての普通の中で生きてるんだから。でもこんなことをぐちゃぐちゃ考えている時点で普通じゃないことくらいは、最近わかるようになった。

少なくとも、生きづらい人間だとは自覚している。全部が疑う対象になりうるのだから。母は私が鬱病の類だといった。けれどそもそも病を患っているとはいったいどういうものなのか。病の定義とは何か、とか。私は世間的には割と恵まれた容姿をしているらしい。けれど、何をもって美しいとされるのか、私にはわからない。鏡を見て自分で悪くないな、と思ったことはある。でも私がそう判断する美の基準は、果たして信頼に足るものだろうか。美しいとはどういうことなのかもわからずに美を語る資格などあるのだろうか、とか。延々とそんなことばかり考えて、今日もまた一日が溶ける。好きでこんなことしてるわけじゃない、ただ気が付いたらこうなっていた。

デカルトは方法的懐疑という手段をとって方法序説を書いて、最終的に神の存在証明を試みたらしいけど、その目的はあんまりちゃんと果たされたように見えない。素人目にも詭弁ぽいなと思うものがある。後世の哲学者たちには実際けちょんけちょんに言われているけど、何よりも彼自身がその理論の危うさに気が付いていたんじゃないかと思う。Cogito ergo sumは揺らがないにせよ、それ以外に信じるものがない彼はきっと生きるのが辛かっただろうなと思う。デカルトは信じたかったんじゃないかな。信じる根拠が欲しくて方法序説を書いたんじゃないか。私は神は信じていないけど、愛は信じたいから、そうだとしたらきっと気持ちはわかる気がする。信じるものがある人は羨ましい。クリスチャンの友人や知人は結構いるけど、神にすべてを預けた姿は強い。キリストが罪を引き受けたということの意味は、最近少しずつ分かってきたような気がする。気がしているだけかもしれない。でも別に神じゃなくたって、それが家族だって恋人だって友人だっていい、信じるものがある人は強い。私にはない。そんなものを感じていられるほど、この世界に希望を見ていない。信じることができるというのは、それ自体が一つの才能だと思う。馬鹿にしてるわけじゃないです。うそ、ちょっと馬鹿にしてるかも。こうして斜に構える自分がかっこいいと思っていないわけじゃないし。

関係ないけど、デカルトといえばウォヌがつい一昨日のソウルコンで、ヘナタトゥーで”I think, therefore here I am”を体に刻んでたね。それ自体は有名すぎるくらいに有名な言葉だし、哲学を少し知ってるくらいで深い人間だなんて思わないけど(だってそしたら私が深い人間だということになってしまう、そんなわけはない)、コンサートという場で、あえてその言葉をチョイスするところが、ものすごく好きだと思った。ラテン語だったらもっと興奮したけど。ウォヌは割と仲良くなれるんじゃないかなって思う。烏滸がましい?知ってる。形而上学的な話を延々するのは結構得意なんだ、私は。

言葉は、私のすべてだ。私は言葉を通してしか世界と接することができない。感情なんてものは信じていない、愛なんてものが存在するとも思っていない。人との共感なんて、愛なんて、恋愛なんて幻想だ。人は理解し合えないものだ、ただ本人たちが理解した気になっているだけだ。本気でそう思っている(これも、普通じゃないらしい)。性愛をテーマにした小説を書いている身なのに、自分が信じていないんだから、私の書くものは空虚だ。テクニックだけに物を言わせている感じがする。でも、信じたいから書いているのだとも思う。自分の文章は美しくて好きだけど、でもそれは、人工的な美しさだ。私の文章はきわめて写実主義的だ。それはそれでひとつの美徳だとは思っているけど、本当はもっと抽象度の高い言葉を紡ぎたいなと思う。絵画だって印象派が好きなんだ。

ツイッターで知り合った人で、ものすごく綺麗な文章を書く人がいる。どちらかといえばわりと写実的なタイプだ。でも、テクニックも確かに優れているけれど、それだけじゃない。精緻な描写の裏から薫る、書き手自身の豊かさみたいなものがある。その人は同い年らしい。会ったのは一度だけ。なのに、私はたぶん、半分くらいその人に恋をしているんじゃないかと時々思う。なんてね。恋が何だかもわかっていない癖にこんなことをほざくのは、恋がなんとなく美しい話に仕上げてくれる万能調味料だからに過ぎない。

私にとってただ唯一確実なのは、生きるのがものすごく面倒だということだ。大学院での生活が死ぬほど肌に合わなくて、毎日毎日本気で死ぬ方法ばかりを考えていた私を見かねて、母は私を心理カウンセラーのところに引きずっていった。その甲斐あって、積極的に死を望むことはなくなった。母は私が元気になったと喜んでいる。でも、あれは、ただの対症療法だったと思う。ごめんね母さん、私は何も変わっていないよ。ただ、辛く感じる感覚が少しだけカウンセリングによって麻痺させられただけ。だから、前みたいに辛くない。毎日泣いたり、ヒステリー起こして壁に頭をがんがん打ちつけたり、自分の腕に血が出るほど爪を立てたりすることもない。辛くないはずなのに、まだ死にたい。

というか、死んじゃいけない理由がわかんない。死ぬのも面倒だし、苦しいのも怖いのも嫌だから仕方なく生きてるけどさ。周りの人が悲しむから?そんなの知ったこっちゃない。周りの人の悲しみは私には関係ない。死んでしまえば尚更だ。大体、私が死んだところで周りの人はそのうち立ち直るし、世界は私の死くらいじゃ変わらない。生を美化していなきゃ世の中死にたがりで溢れちゃうから、世界はいかに生きることが素晴らしいかを教え込もうとするけど、世界はクソだとしか思えないよ私には。

私が絶対に子どもを産むまいと決めているのは、こんな思いをする人間を、この世にこれ以上増やしたくないからだ。今の社会に、すなわち子どもを産まないという選択肢もだいぶ市民権を得てきたこの時代に、なお子どもを産むというのは、100%親のエゴだ。そうして望みもしないのにこの世界に強制的に存在させられてしまったわが子に、生まれてきたくなどなかったなんて言われた日にゃ、想像するだけできついものがあるよね。自分の話だ。とんでもない親不孝だという自覚はある。でも、そもそも産んでくれと頼んだつもりもない、育ててくれと頼んだつもりもない。親がそうしたかっただけの話だ、そこに私の意思はない。彼らが望んで生まれてきた私が、今生きている。これ以上、親孝行を要求されること自体が理不尽だと思う。最低でしょう?でもこれが私の感覚だ。

私は確かに両親に望まれ、愛されてきた。らしい。だからこんなのはただのわがままであり贅沢なのだという批判があるかもしれない。もっと恵まれない人だっているんですよ?うるせえ黙れ、以外返す言葉はない。何が贅沢で何が幸せかなんて、誰にも決められないのに。大体、愛されてきたから同じ分だけ愛し返さなくちゃならないだなんて、一体だれが決めたんだ。それが「普通」だから、か?クソくらえ。

そもそも彼らの愛がエゴではないと言い切ることは私にはできない。彼らは、自分たちが私に愛情を注ぎ込んできたと信じている。私を人間としてある程度まともな状態に育てるために膨大な時間とお金をつぎ込んできている。果たしてそれは愛なのだろうかと疑ってしまう私は、やっぱり最低な娘なんだろうと思う。もっとも、愛が何なのかをわからない私には、それが愛なのか、それともそうでないのかを判別する術はない。だったら彼らの信じたいものを信じさせてあげてもいいのかな、とは思うのは、私にぎりぎり残った優しさだ。だからなんだかんだちゃんとした会社に就職してあげる。でも、そこで終わりだ。もう終わり。私は親と関係ない人格として生きていきたい。親に規定される自分はうんざりなんだ。とにかく、子どもなんか産むものじゃない。

生きるのやめたい、でもやめる勇気もない。いつかこんな風に思わなくなる日が来ればいいのに、というよりは、いつか死ぬ勇気が私の背中を押してくれればいいのに、と思っている。

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KCON参戦してきた

前回の記事から1ヶ月が経ち、EXOのペンミも終わって(推し不在とはいえそれなりに楽しめた)、私事だが就活も区切りがついた。得体の知らない焦りに追われて一日が過ぎていくから、ふと後ろを振り返ると過ぎ去った時間の大きさに驚く。気付けばセブチは!いよいよ!今日カムバ!!

カムバに関しても書きたいことは山ほどあるが、何はさておき昨日のKCONの参戦記録をば。とにかく今日のカムバ前にこの記事を完結させたいから文章を練る余裕などあったものじゃないけれど、もうしーらないっ!タイムリミット、あと3時間(笑)
カムバしたらこれどころでなくなるのは火を見るよりも明らかで、かといって、文字に残さずにおくにはあまりにも勿体ないのだ。だって、とても楽しかった。

5月21日、KCON最終日。セブチペンの友人と3人で参戦した。3人ともほとんど他のグループには興味がなくて、そもそも誰が出るのかもちゃんと知らないという状態で臨んだのだが、セブチ以外もばっちり楽しんできた。

冒頭のMCが我らがヒップホップチームだったので、テンションは一気に上昇。イルコンの時の反省を活かせず、初っ端から叫びすぎて喉から鉄の味がする。私の隣にいたお客さんはペンタゴンペンだったようで、あまりの私の騒ぎっぷりに若干引かれていたような気がするが、なりふり構っていられなかった。うるさくしてごめんなさい。

もうとにかくウォヌがえげつないかっこよさを発揮していた。どれくらいえげつないかというと、この日まで「ウォヌはあんまりときめかないんだよね……」と言っていたバーノンペンの友人が「やばいかっこいい何あれ?」って興奮するくらい。実は密かにウォヌも推している私、ずっと彼女にウォヌは最高だって言い続けてたんだけど、やっとそれが伝わったようで嬉しいです。ふふふ。にしても、あまりの機嫌のよさに、最早嬉しさとか通り越して心配になるレベルで笑顔大炸裂していた。あんなウォヌ、そうそう拝めるもんじゃない。


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©SAINT

さてさて、バーノン不在は残念だったけれど、ヒポチのおかげでウキウキと始まったKCONです。

実は、参戦しようか、一瞬だけ迷ったのだ。セブチ以外のグループには疎いし、たった数曲やるだけのセブチに会いに行くためだけに一万も課金するのかぁ、って。まぁ、会いに行ける距離にいるのに行かないなんて選択肢はやっぱりなかったから、そんな迷いは一瞬で霧消したんだけれども。でも、実際に行ってみると、単独コンサートとは全然違う魅力があるんだなってことを実感できた時間だった!

特にペンタゴンとブロビ、ヨチンは生で見ることができて本当に良かったと思う。グループ名は知っているし、代表曲くらいはなんとなく耳にはしたこともあるけれど、単コンに行くほどでもない、というくらいの位置づけのグループのパフォーマンスを生で見られる機会って、結構貴重だものね。

 

PENTAGON

ペンタは、Triple Hのビジュアルティーザーを何度かツイッターで見かけていて、イドンくんはすごく印象に残っていた。チャーミングなそばかすにポップな色使いと死んだ目のちぐはぐさが最ッ高だなと。まぁイドンって名前を知ったのはKCONから帰宅してからだったのだが。

で、改めて"365 FRESH"を見たら、もうこれが超ドツボにハマる曲で!!バックに入っているちょっとファンク調のカッティングギターとかものすごく私好みの楽しい音で、そのくせMVの退廃的な世界観が凄まじいまでのギャップ!少し調べてみたら、本国では刺激的だと批判も受けたみたいですが(だろうね)大好きです、こういう病んだ感じ。ヒョナのおっぱいがエロくて最高(そこ)

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って、ペンタの話じゃなくてTriple Hの話になっちゃった。

そんなわけでなんとなく目で追ってしまったイドンくんね~、ダンスの絶妙な力の抜き具合に手練れな雰囲気を感じた!ぬるっとゆるっとキメる感じがかっこよかった。あとペンタゴン、日本人のメンバーがいるんだね!そのせいかわからないけど韓国人メンバーもかなり日本語が上手で、やっぱり単純にわかる言葉で話してくれるのは嬉しいなぁなんて思っていた。

もちろんペンタの曲も帰宅してちゃんと聴いたよ!デビュー曲がゴリラって、なかなかのインパクトだと思います。で、ゴリラもだし、감이 오지とか예쁨とかもそこはかとなくファンキーで良き。ちゃきちゃきサウンド大好き人間なので。昨年デビューということで割と最近のグループではあるけど、グループの音楽的な方向性が結構わかりやすいというかはっきりしているのは魅力的だと思う。タイトル曲しか聴いてないけど← でも、きっとこれから活動を積み重ねていく間にどんどん新しいスタイルを開拓していきそうな雰囲気のあるグループでもあると思った!新曲はチェックしていきたい。

 

GFRIND

ヨチンは一番最近のFINGERTIPがとっても好きで、曲もちょくちょく聞いてたので生で聞けて楽しかった〜!持論なのだけど、ヨチンの曲って(これもペンタよろしくタイトル曲だけ聴いて言うけれど)どこか古い感じがある気がしている。いい意味で!小室哲哉サウンドというか、90年代~2000年代前半くらいのポップス感があるなぁというのが個人的な印象だ。でも、それでいて懐かしさの中にどこかちゃんと今っぽいアレンジも入ってるから古びた感じにならないあたりが良い。このグループも方向性がはっきりしてるんでしょうね。ペンタとは逆に、この子たちにはこれからも変わらずに彼女たちだけの空気感を貫いてほしいな、なんてニワカの勝手な願望。

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にしても、歌唱力がはんっぱなかった。歌が巧すぎてびっくりした。勿論可愛いんだけど、それよりもかっこいい!!って思いながら観ていた。一切音外さなかったものだから、「え、生歌だよね?」と疑いたくなったレベル。凄かった。彼女たちのコンサートにはお金を払いたいなと本気で思った。

ヨジャドルのライブって行ったことないので新鮮だった。最初の方にも書いたけれど、これがKCONの魅力だね!曲は聴いたことあっても、普段の声はほとんど聞いたことがなかったから、何よりもMCの声が高いことに違和感があった(笑)

 

Block B

そしてぶろび!はもう、zicoさんしか見えませんでした………かっこよかった………

以前、セブチのメンバーがアメリカに滞在中、オススメ曲をSNSで投稿してくれるというのがあって、その中にzicoのソロ曲があったんですよね。そーれがもうドツボで。曲が。最高すぎて。このメロウな感じがとてもとても好きです。それ以来、密かに気になる人ナンバーワンです。

その曲がこちら。まずサムネイルからしてイケメンじゃないですか。顔が好き!←

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彼の第一印象がこの曲だったので、あとから他のソロ曲を聴いてみたらもっとゴリゴリしていてびっくりした。実はゴリゴリのヒップホップミュージックって結構苦手意識があるのだけど、この人のはちゃんと聴いてみたいなぁと思っている。

個人的にとっつきやすかったのはこれかしら。ほら、やっぱりサムネがイケメン←

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 で、zicoさん、ブロビのリーダーであり、作詞作曲プロデュース担当という多才な人らしい。ソロ曲とグループ曲で結構曲調が違うのに、同じ人が創っているって凄い。音楽の幅が広いんだろうなぁ。

KCONで披露してくれた最新曲のYESTERDAYはメロディーがキャッチ―で超楽しくなれる感じで、会場も盛り上がっていてすごく楽しめた!

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 SEVENTEEN

待ってましたセブチ~!大トリということで、最早単コンか?と見まごうほど会場に煌めくカラットのペンライト。そして掛け声の大きさが桁違い!ちょっと誇らしい気持ちになった。

直前でバーノンの不参加が発表され、無念の12人でのパフォーマンス。もちろんセブチはいつだって最高なんだけど、やっぱり一人でも欠けていたら寂しい。スングァンがちゃんとバーノンは心配いりませんってフォローを入れてくれていて、それが実際どの程度かなんてわかんないけど、少しは安心した。私たちもだけど、スングァンをはじめとするメンバーもだし、何より韓国でひとり残っているバーノンが一番寂しいだろうなぁと思うと、胸がきゅっと締め付けられるような気がする。早く良くなるといいな。

昨日はジュンがほんっとうに調子良さそうで、すっごく楽しそうだったしすっごく調子乗ってたし(笑)、カメラに抜かれたときのキメ顔の決まり具合が半端じゃなかったし、控えめに言って宇宙一かっこよかった。このところ少し心配になることが多かったので、その姿を見ることができて最高の気分だった!今思い返しても口角が思わず上がってしまう。気持ち悪いのでやめましょうね。

そうそう、時系列が前後するけれど、サプライズステージでの登場は全く予期していなかったから、あの時は本当に心臓が狂うかと思った。曲選もBeautifulって、かなり意外性のあるものだったから嬉しいやら驚くやらで。イルコンのアンコール曲だったから思い出深い曲です。そして何よりも、衣装が本当に素敵だったのですよ!!


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©the innocence

個人的にジーンズオンジーンズというスタイルが大好きなので、もう大興奮!!とっても似合ってた!またいつかこの衣装着てくれないかな〜!もう一度拝みたいな〜!!

そして本番も良かった……
まさかぶんぶんのイルコンリミックスをまた聴けるなんて思っていなかった!!あのリミックス本当に大好きで大好きで、WOWOWで放映された映像も、youtubeに上がっている動画も何度も何度も繰り返し観て、夢にまで観るほどだったから、一音目を聴いた時に、頭で理解するよりも先にまず体が反応した。一瞬遅れて状況を飲み込んでからはひたすら叫んだ。最高だった。

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©vivi960610

あっきんだもマンセもとっても楽しかったし、メンバーも楽しそうだったし、幸せな時間だったなぁ。一瞬でも参加を逡巡したのが馬鹿らしくなるほどに価値のある時間だった。幸せな気持ちに浸りながら3人で帰途につきました。そのあと電車の運転見合わせで帰るの大変だったけど。

 

でもね、少しだけ文句を言いたい…!運営さん、聞いてますか!

まずカメラワークが悪すぎる。K-POPに興味のない人にすれば全員同じ顔に見えてしまうのかもしれないけど、誰がどのタイミングで歌うかくらい把握しとけよ。リハーサルしてるんでしょ?何のためのリハ?あるメンバーの見せ場パートの時に、他のメンバーを映すな!「やべえ今歌ってるの誰だ!?」というカメラマンの狼狽が画面越しに伝わってくるレベルで、慌ててカメラを動かすものだから、スクリーンに誰も映っていない時間が多すぎる。私たちは壁を見るために金を払ってるんじゃねぇんだよ。

それからあの超縦長のちっさいスクリーンは一体なんなんだ。おかげでカメラワークの粗が余計に目立つ。K-POPアイドルの魅力の一つはメンバー同士での絡みだというのに、一人分しか映せない幅のスクリーンに存在価値なんかあるのかって話ですよ。

しかも合間のMCでは、その縦長スクリーンの横幅に合わせて横長の映像を流すものだから、とてもじゃないけど小さくて何が映っているのかさっぱりわからない。字幕も読めない。スクリーンをあの形にするなら映像のアスペクト比も一致させるべきだったし、そもそもあの縦長スクリーンは観客誰一人として求めていなかった。断言しよう、あれはクソだ。

あともう一つ文句を付け加えるならば、前列の方にいたセブチペンが高々とボードを掲げるせいで、後方の私たちの視界がかなり遮られてしまったこと。前方とはいえステージから少し離れたところで、たぶんステージ上の彼らからは見えない位置だっただけに、いや落ち着けよ、とささくれた気持ちになりました。気付いてもらいたいのはわかるけれど、最低限のマナーは守って応援しようぜ、という話。

とまぁ、不満は残るけれど、行ってよかったなという雑な日記でした!とても楽しかった!

そうこうするうちに、いよいよあと20分でカムバ……!
ひゃ~どうしよう。もうティーザーの時点で何度も心臓発作を起こしかけたというのに、ついに今日フルで聴けるなんて。そわそわしてバイトに集中できません。(今は休憩中)

さて、カウントダウンVライブ放送してくるみたいなので、休憩残りで見るぞ!あんにょん!

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