Let's Get Lost

僕に力をくれ、もっと強くなってみせるから

181012

いつだって週末は待ち遠しいけれど、今日はとくに嬉しく感じる。

退社したのはいつもより少し遅めだったけれど、もうご飯を自分で用意しなくてもいいことにしたから、少し気は楽だった。明日は休みだから帰りが遅くなっても困らないし、浮いた時間を何に使おうかと思案しながら駅に向かった。毎日会話を続けている相手に退社したと連絡したら、来週だよ!と返事がきた。一週間後の土曜に会う約束をしているのだ。相手が私と会うことを楽しみにしてくれているかもしれないことが嬉しくて、つい口元が緩んでしまった。結局、改札に行く途中にある本屋で1時間近くふらふらしていた。好きな漫画家の作品が平積みされていた。ちょうど今晩からドラマ化すると帯に記されたその作品は読んだことがないものだったけれど、ちょうど昨日、その作家の別の作品の新刊が出るという話を、土曜に会う彼女から聞いて楽しみにしていたところだったから、タイミングの良さになんだか縁を感じて少しうれしくなった。ビジネス街の本屋だからコミックの売り場はほとんどなくて、昨日買おうと思っていた作品はここでもお目にかかれなかったけれど、いくつか目についたものを買った。

普段、本をよく読む方ではない。なんというか、読む側というよりは書く側の人間なのだろうなと思う。中身よりも、その言葉選び、節回しに気を取られがちで、痺れるような表現に出会ってしまうと悔しくてたまらなくなる。自分には到底思いつけないような文章に出会うたび、自分の小ささを突きつけられるように感じてしまうのだ。あと、これは自分の融通の効かなさが惜しいのだけど、片手間に読むということができない。もともとマルチタスクがきわめて苦手な人間で、ひとつ物事の片がつくまで次に進めない性格なのが災いして、なかなか本を読むという行為に没頭できないのだ。一度読み始めたら、読み終わるまで遮られたくない。でも、本を読むのには時間がかかる。だから、やるべきことが他に残った状態で読み始めてしまったら、やるべきことを終わらせることができないという恐怖感が先立ってしまって、本を開いて読み始めるまではそれなりの覚悟を要する。でも、言葉や知識を仕入れると、空っぽの自分が少し満たされたような気持ちがして気持ちがいいから、好きなことは確かだ。言葉を摂取するのは、言葉を吐き出すことと同じくらいやめられない。書くことはある種私にとっての排泄行為だと先日書いたけれど、それならば読むことは食事に等しいだろう。読むことも書くことも、生きることなのだ。

愛するもののために自分を費やしていたい。そして、私の愛するものは会社には存在しない。だから、私の魂を仕事に支配させたくないとずっと思ってきた。でもやっぱり少し明け渡すことにしようと思う。甘やかされたまま1年めを終えて、焦りばかりがあって、頑張らなくちゃ頑張らなくちゃとそればかり思考が塗りつぶされているままの日々が続くのも、いい加減嫌なんだ。何を頑張ればいいのかもわからないけど、少しずつでもできることを増やしていかなければ、私はずっとこの不安を会社に対して抱えたまま生きていくことになる。だから食事を作ることや物語を書くことを手放してでも、仕事の優先順位を少しあげなくちゃいけないんじゃないかと思った。あいにく、どれも欲張るほど優秀な人間にはできていないから、選ばなくちゃいけないのだ。

ずっと、今が全てだった。明日死のうと毎日思いながら生き延びていたから、未来のことを考える必要はなかった。もう随分そうやって考える癖がついてしまったから、未来のために選択をするということがすごく難しく思える。未来のために現在の自分を犠牲にしなくちゃならないことが苦しい。それで良いんだっけ、と思う。そんな生き方をするために生きようと決めたんだったっけ。どう生きれば自分をゆるせるのか、25年弱生きてもよくわからなくて、揺れている。

帰宅する頃には、ドラマ化されるというその平積みされていた漫画のことはすっかり忘れていたのだけど、ニュースを見ようとテレビを点けたら、まさにそのドラマがちょうど始まったところだった。これはきっと見なくちゃいけない作品なんだ、と直感したのは正解だった。見終えてからしばらく鳥肌が止まらなかった。とにかく岡田将生の演技が圧巻だったし、竜星涼もとても良かった。漫画や小説の映像化が原作を超えるのは難しいというのはよく言われることだし、原作ファンがどう感じるのかはわからないけれど、ドラマでこれならば、原作はいかほどだろうと思う。全巻揃えることを誓ったところだ。評価が高いというアニメも映像配信サービスで見られるというから、そのうち見ようと思う。『昭和元禄落語心中』、全10回。来週の金曜が今から楽しみで仕方がない。

ドラマが終わってからは、買ってきた本を読んでいた。今、村田沙耶香の新刊『地球星人』を読み終えたところだ。ほかの作品もいくつか読んだことがあるけれど、今回のも村田ワールドにふさわしい後味の悪さだった。途中までは比較的穏やかで感情移入がしやすくて拍子抜けするほどだったのに、終盤のぶっ飛び方が怒涛だった。似たようなことは日頃感じている側の人間だけど、こういう鋭い切り口で描き出す発想力は私にはないんだよなあ。

ほかに今日買ったのは、小川哲『ユートロニカのこちら側』、木下龍也/岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』、暁方ミセイ『ブルーサンダー』。

小川哲は少し前に『ゲームの王国』をジャケ買いならぬ装丁買いをしたのが出会いで、これがもうハチャメチャに面白かったから、ハヤカワSF大賞受賞作でもある『ユートロニカのこちら側』もずっと読もうと思っていたものだ。木下と岡野の『玄関の~』は、男子高校生ふたりの七日間を短歌で描いた歌集だ。いつの間に自分がこんなに短歌を好きになったのだろう。とにかく短歌をよく読むようになった頃から木下龍也はずっと好きで、これも前から買おうと思っていたものだ。たった31文字から、匂い立つような高校生の夏が垣間見える。歌集や詩集は何が良いって、前から順番に読み進めていく必要がないところだ。ふっと開いたページに出会えるのはどんな句だろうかと楽しみにするのも楽しい。暁方ミセイの詩集は、装丁に一目惚れした。濃紺の少しざらついた表紙に、銀に浮かび上がるタイトルが夜のように美しくて目を奪われた。

休みだ。明日は何も予定がない。気が済むまで文字を吸収して、眠くなったら寝る。最高だなあ。

181011

疲れた。あと一日会社に行けば休みだけど、なんだかとても疲弊している。早く寝たほうが良いのはわかっているのに、体力ではない何かを癒したくてミルクティーを淹れた。

生きるって決めて、でもそんなに今までと変わることがあるわけじゃないだろうと思っていたけれど、思っていた以上にしんどい。それがたまたま忙しいからなのか、それとも生きると決心したからなのかはわからないけど、こんなにきつかったっけな。死ねる、って思うことは紛れもなく救いだったのだなと思う。私は生きると決めて、自分の逃げ道を絶ったのだ。しんどくて当然なのかもしれない。世の中の人はすごいなあ。

ひとりで暮らすようになってからは自炊するか食べないかの二択がほとんどだったのだけど、最近は食べないの割合がかなり高くなってきている。はじめの頃は張り切ってほとんど毎日料理をしていた。おかずを作り置きして、律儀に一汁三菜をこなしていた。だけど少しずつ手の抜き方を覚えてきて、最近はほとんど包丁を触っていない。料理は好きだけど、生きるうえでの優先順位は低いのだ。この時代、自分で作らなくても食べる術はいくらでもある。外食は嫌いだからと空腹をごまかす夜が続いていたけれど、最近は朝も昼もまともな食事をしていないから、さすがに今日は空腹に耐えかねてスーパーで惣菜を買って帰ってきた。冷凍してあったご飯を電子レンジで温めたら、それだけでまともな食事の様相を呈して、なんだかあまりの簡単さに拍子抜けしてしまった。生きるために働いているはずなのに、働いているせいで、そうやって生活の質を下げなくちゃいけないことが悲しい。働くって、そこまでしなくちゃならないものなんだろうか。油のまわった唐揚げは不味かった。

前からどうしても読みたい漫画があって、今日は絶対にそれを買って帰るのだと朝から心に決めていた。なのに、駅前の本屋に寄ったら知らない間に改装して売り場が縮小されていて、結局手に入れることはできなかった。書籍はできるだけ書店で購入するのが自分の中の決めごとのひとつなので、週末に出かけたときにでも探すことにする。仕方がないので売り場をうろついてみたら、クリムトの画集が三千円くらいで売っていたので、次の給料日にでも買おうと思った。美術館にも随分行っていない。行きたい展示はたくさんある。

一旦創作から手をひくことにした。書きたいとは今でも思っているけれど、ちょっと疲れすぎてしまった。そこに纏わりつくしがらみにずっと嫌気が差していたことも、自分の書くものを(あらゆる意味で)肯定できないことも、目に入ってくるもの全部、もう無視できない段階に来ていると思ったから手放す。自分の腕を切り落とすような気分だ。でもきっと、あそこにしがみついていたら私は前を向けない。

働くということについて、心の折り合いがつけられるようになる日は来るのだろうか。新しい環境になって、少しは楽しくなる兆しが見えつつあるとはいっても、私が大事にしたいものは会社の中にはないことは火を見るより明らかだ。売上も生産性もお金も全然興味がない。揺れている。でも、生きると決めたからには、働かなくちゃいけないのだ。大学、やっぱり行きたいし。あと一日。

181007 / 08

今日こそは文章を書くぞ、と意気込むのに、なんでかいまひとつ気持ちが乗らなくて断片ばかり量産してしまう時期というのはちょくちょくあって、この一週間はずっとそんな感じだった。帰りの飛行機は宇多田ヒカルがいかに天才であるかについて考えていたら終わってしまった。宇多田ヒカルはすごい。元恋人が好きでよく聴くようになったけど、本当にすごい。「愛情、向かって左に欠乏 だから君が必要」なんて、何度聴いても惚れ惚れとしてしまう。隣ではなく、向かって左。私もそういう言葉選びができる人間でありたいなと思う。好きな歌詞を挙げたらきりがない。未来はずっと先だよ。完成させないで、もっと良くして。

思考に明確な輪郭を持たせる作業はそれだけで体力の要る営みだ。この前の週はよく書いていたから、たぶん少し燃料切れしたのだろう。こういうバランス感覚の悪さは昔からだ。まあ、それでいいのだと思っているけど、書けない時のもどかしさはどうしようもない。するすると文章が紡げる時は、体の中の老廃物が言葉に連れられて出て行くような気持ちの良さがあって、そうじゃない時は濁った体液がどよんと淀んでいるような気がして不愉快だ。私にとって文章を書くというのは、ある種排泄行為に近いものだったりもするのかもしれない。特に、きわめて個人的かつ抽象的な感覚について記すときは。だから書けない時も、本当は無理にでも書いた方がいいのだ。その結果、未完成の言葉の塊が大量にできあがるわけだけど。旅行は非日常的で比較的書きやすいから、こういう時はありがたい。

前回の渡航はものすごく楽しかったのだけど、今回はなんだかうまくいかないこと続きで、いまひとつ冴えなかった。楽しくなかったわけではないが、あまり調子が良くなかった気がして、日本に帰ってきた今になって少し惜しい気持ちになっている。概ね自分の無計画性が仇になっているんだけど。

昨日は午前11時発と私にしては遅い便で、それで気が緩んでいたせいか、思いっきり寝坊した。もともと鈍行で空港まで行く算段だったから、特急列車に乗ればなんとか間に合う時間だったのは救いだったけれど、余計な出費になってしまったことに落ち込んだ。たかだか2000円くらいの話だけど、使いたいところに残しておくために抑えられるところは極力抑えるようにすると決めているから、自分の落ち度でそれが守れなかったことに腹が立った。幸い夜のうちに準備は全部終わらせていたから、荷物と上着をひっつかんで家を飛び出した。結果的には無事に搭乗できたから良かったものの、電車は遅延しているわ、今日に限ってオンラインチェックインの出来ない航空会社だわで冷や汗ものだった。この時点でどっと疲れてしまって、行きの飛行機はほとんど眠っていた。

仁川国際空港に到着したのが14時前。鈍行で1時間かけてソウルの中心部に出る。台風を心配していたけれど、思いの外進度が早かったおかげで快晴だった。ホンデイックで乗り換えるついでに、誕生日広告を目当てに駅の構内を少しふらついた。期待していたジョンハンはもちろん、この日が誕生日だったレイちゃんの広告も目にすることができて、少し気分があがった。いつ来ても学生が多くて賑やかな街だ。3月にあったジノのソロライブの会場の最寄りがここだった。ソウルにしても東京にしても、土地として特別に愛着があるわけではない。目的があるから行くだけの場所だけど、それでもこうして思い出のある場所が増えていくのは幸せなことかもしれない、とも思う。

ソンスで降りて、CUBEエンタの本社に併設された20SPACEカフェへ。靴職人が多い街なので、駅に靴にまつわる展示があったり、街中にイラストがあったりして楽しい。

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コーヒーで一息。今回の機内食はおやつ程度でお腹はへっていたから、軽食もここで食べようと思っていたはずだったのに、店を出るまで忘れていた。とはいえそこまで時間に余裕があるわけでもなく、空腹を抱えたまま公演会場のある狎鴎亭へと向かった。

やっぱり舞台は生き物なんだなあと思った。二度目の鑑賞とあって、ある程度話の展開がわかっているせいもあるかもしれないけど、先々週感じた衝撃は薄れてしまった。あと、前回に比べたらちょっと会場が温まりきっていなかったように感じた。日頃K-POPの現場に慣れている身からするとミュージカルを観に来る層というのは全然違うから面白いけど、昨日は観客の年齢層も前回よりかなり高かった気がするから、そのせいかもしれない。静かに作品を楽しめるといえばそうだけど、オール・シュック・アップの時も、前回のアイアン・マスクも、キャストのソロ曲のあとなんかは、拍手だけじゃなく歓声があがっていたりもした(それがこの国の観劇マナー的にどうなのかはわからないけど、あまり否定的な空気はなかったからきっと称賛の表明のひとつとしてありなんだろう)から、それが今回はなくてやや物足りない気分。会場の空気で演者のパフォーマンスは全然変わる。それはアイドルのコンサートでも、演劇でもミュージカルでも同じだ。自分が舞台に立つまでは、台本があるのだからそのとおりに粛々と演じるだけだと思っていたけれど、そんなことはないのだ。キャストもやりにくそうだなあと思いながら見ていた。それからこれは私が舞台に対して臨む姿勢として選択を誤ったなと思ったけれど、メモをとってしまうとどうしても作品の世界に没入できなくて良くない。書き留めておかないと忘れてしまうし、失いたくない瞬間がたくさんあるからとペンを片手に見ていたけれど、そちらに意識をとられてしまうのは本末転倒だ。とはいえ、胸に刻みつけたはずのシーンが終演後には思い出せなくなっているなんてこともざらで、結局これは永遠のジレンマなんだろうなあと思う。でも次はもうメモはとらない。良かったのは、前回聞き取れたところに、今回新しく聞き取れた部分が増えて、より登場人物の発言についていけるようになったこと。たぶん口調や語彙が古めかしいのもあって、一字一句理解するのは私の実力ではほぼ不可能なんだけど、台詞だけじゃなく歌詞も少しわかるようになっていたりして嬉しかった。

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終演後はまた出待ちしたけど、寒くてわりと辛かった。今月末にまた来るけど、着込んでこないとだめそうだ。前回も思ったけれど、オール・シュック・アップのときより格段に出待ちの人が増えている。もちろん一緒に出演していたINFINITEのドンウさんのファンもいたし、それ以外の俳優のファンもいたにせよ、ジノ目当ての人も桁違いだ。たぶん、体感ではドンウさんと半々くらいだったんじゃないかな。人気になっているんだな、と思う。いいことだ。嬉しいかといわれると、少し複雑。遠くなっちゃう気がして。でも遠くなってほしいとも思う。だって、1部で死んじゃうような役は、あの歌声には似合わないもの。わずかにあいた車の窓からジノの顔はほとんど見えなかったけど、ふわふわと風に揺れる金髪に向かってまた来ますと声を張り上げた。何かを伝えなくちゃいけない気がして、目の前にするとつい必死になってしまう。そういう自分は好きじゃないなあと思いながら、あっという間に通過していった車を見つめることしかできなかった。

夕飯は、狎鴎亭から少し離れた清潭のユッケビビンバの店に目星をつけていた。地図上ではそんなに離れていないのに、うまいこと通る路線がなくて思いの外時間がかかってしまった。しかも、駅から結構遠かった。時間をかけて行った甲斐があるくらいには美味しかったからよかったものの。

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結局食べ終わる頃には22時半を越えていた。帰りに駅まで近道をしようとして人気のない道に迷い込んだりして、ちょっぴり怖い思いをしたりもした。そのあとも駅でぼーっとしていたら電車を逃すわ、宿のチェックイン時間が24時までだと思っていたら23時までだと気が付くわで、なんか今回全然だめだなあとひとしきりしょげる。慌てて宿にメールを入れたけど、23時には全然間に合いそうにないし、チェックインできなかったらどうしよう、と心臓がばくばくした。幸い入れてもらえたけど、昼に荷物置きがてら先にチェックインしておくべきだった。何度かひとりで渡航して、悪い意味で慣れが出てしまっているなととても反省。気が緩みすぎ。

今朝は寝坊することもなく、比較的余裕をもって空港に到着。三連休の最終日とあって、成田行きの便のチェックインカウンターはかなり混雑していた。列を横目に、預け荷物のない私はセルフチェックインで発券してさっさと保安検査と出国審査を終わらせた。リュックひとつで移動できるのは本当に楽で良い。搭乗口の近くのカフェで飲んだカフェラテがすごく美味しかった。テイクアウトにしてもらい忘れたせいで、少し慌てて飲むことになってしまったのが惜しかった。


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成田についたのは13時ごろ。どこか美術館の展示でも寄って帰ろうかと思ったけど、祝日でどこも混んでいそうだから結局まっすぐ帰宅した。今月末にまた渡韓する時は月曜に有給をとるから、そのときに行くことにする。帰宅してからは荷解きして、久しくやっていなかった資格の勉強をちょっとして、仕事も少しだけした。怠惰な私にしては珍しい快挙だ。旅行中だめだった分を取り返したかったんだと思う。なんか、しゃんとしないとだめだなあと反省した三連休だった。しゃんとせねば。

181001

また立ち上がれなくなった。さっきスーパーで買ってきた挽肉、まだ冷蔵庫に入れていないのに。でも、いつもみたいに気分が落ち込んでいることから来る無力感じゃない。ただ、自分の中に起きた変化の大きさに、呆然と立ち竦んでいる。

これまでにも何度もこのブログで書いてきているけれど、私は死にたがりだ。生を肯定できず、望んだわけでもないのにこの世界に私を存在させた親に大して割り切れない苦い感情を持っていて、自分と同じ気持ちを味わう人間をこの世界に増やすべきではないという確固たる気持ちのもとに子どもは生涯産まないと心に決めている。世界は悪意に満ちていて、私はたぶん多少人よりそれに敏感で、生きるのが怖くて、いつか死ぬなら今がいいとずっと思いながら死ねずに生き延びてきた。楽しいことも幸せなことも美しいものも、生きることの怖さを束の間忘れさせてくれるから、私はここまでアイドルにおぼれているのだと思う。死ねないから生きていた。私にとって生きることはずっと消去法で残った道でしかなかった。

それが少し変わったのは今年6月11日の午前零時、ジュンが誕生日の翌日に、ソロでカバーの曲をなんの前触れもなく公開した時のことだった。感情が込められたというよりは、ただ一音一音を丁寧に確認していくような淡々とした、それでいて柔らかい歌声に彼の実直さを見た気がして、ああ生きていてよかった、と随分久しぶりに強く思った。結局その翌日の午前中は会社を休んで、丹念に家を掃除した。まっさらな家をあとに、午後から出社した。あの時、私は確かにこの人に会うために生きてきたのかもしれないと思ったし、奇跡みたいな確率で今アイドルとして生きる彼のように、私も丁寧に今を生きようと思ったのだ。雨が空気中に漂う塵を洗い流していったあとの空気みたいに、世界が一段と明るくなるような、そんな歌だった。

それでもその時の気持ちをずっと忘れずに持っておけるほど強くはなくて、しかたなく生きているだけの日にすぐ戻ってしまった。仕事とか日常とか世界にまた怯えて自分を守るために何も感じなくなって、息をするように死にたいと思っていた。だけどその死にたいが、昔ほど切羽詰ったものではなくなっていたのも事実で、だから自分が少しずつ生きていくことを受け入れ始めていることにも気が付いていた。

生きていくことを受け入れ始めた自分を、受け入れられなかった。生きていくこととは、したたかでいることであり、世界の痛みから目を逸らすことだと思っていた。死にたがっている自分のほうが真摯だと思っていたから好きで、生きていこうと思っている自分が嫌だった。だからそんな、他人事みたいな表現をしていたんだろう。

明日のことを考えることはあっても、来年のことを考えるなんて、ましてや5年後とか10年後のことを考えるなんてとうの昔に辞めていた。はたちの頃は25になったら死んでいると思っていたし、25を目前にした最近は30になったら死んでいると思っていたし、40、50の自分とか想像する気もなかった。よく会社でキャリアプランはどう考えてるの?と尋ねられるけど、いやまあ、10年後は死んでるつもりですし、とは言えないから適当にごまかしてきた。未来に向き合うつもりなんてなかったから貯金をするつもりはあんまりなかったし、だから破産しない程度に使い切るつもりで、働き始めてからはかなり見境なく趣味につぎ込んできた。これからもそうやって付け焼き刃で生きていくのだと当たり前に思っていたし、それで別に良いと思っていた。

帰宅して、挽肉と長葱と2リットル入りのお茶を冷蔵庫に入れるよりも先に、パソコンを開いた。マガジンホを流して、それで立ち上がれなくなった。

どうしてかわからないけれど、聴きながら、突然昨日の夜のことを思い出したのだ。マガジンホが公開される23時よりも前のこと。シャワーを浴びながら、ふっと、ああ大学にまた行くなら、いつまでに行くのかとか、今のお金の使い方とか、考えないとなあと思った。今までも、またいつか大学で勉強したいと漠然と思うことはあったのだけど、この時はそれよりもずっと具体性を伴った願望だった。もうすぐ25になるところで、これからお金を貯めるとして、20代のうちに入学したいよなあ、と当たり前のように未来を想定した自分に、その時も驚いたのだった。

そのあと家事をこなしている間にどこかにすっかり飛んでいってしまっていたその夢が、ジノの歌を聴いてまた戻ってきた。自分がそれを夢と認識していることに動揺した。夢なんて、未来を描くことを放棄した自分には似つかわしくないと思っていたのに。

感情の塊そのものみたいなジノの歌の前じゃ、私を守っていた鎧は用をなさなかった。命を削っているんじゃないのかと思うほどに血の滲むような歌声が私の感情をかき乱して、わけわかんなくなって泣いた。ジノの歌声に泣いたことなんて初めてじゃないけど、でも今日は違った。入り乱れる思考の中心に、生きたいという揺らがない芯が見えた気がした。


生きたいと思う。生きようと思う。明日も、とか、次のコンサートまで、とかじゃなくて、もっとこの先も続くであろう人生を、私の未来を、引き受けようと思う。そういう風にきっぱりと言い切る覚悟がずっとなかったんだ。またすぐ死にたくなるんだから、どうせ、って、「前よりは生きていくことを受け入れられるように……」だとか逃げ腰の言い回ししかしなかった。

強くなるのは怖い。弱さに寄り添えなくなるのが怖い。優しさを失ってしまいそうで怖い。だから死にたさを愛おしく思ってきた。それは私の弱さの証で、優しさの証だと思ってきた。今でも思っている。生きると誓うことで失うかもしれないものが怖い。それでもその怖さを引き受けようとも思う。きっとすぐにまた死にたくなってしまうんだろうけど、ジュンとジノの歌に生きたいと思った気持ちがたしかに存在したことを、死にたがりの未来の自分が否定しないように、ここに残しておく。

190930

眠れない。全然、眠れない。台風のせいではない。風の音なんてこれっぽっちも耳に入ってこないほどに、好きな人の歌声で神経が支配されているみたいだ。

台風がもたらす低気圧とか、軽い風邪とか、生理前のホルモンバランスとか、そういうものがもたらす鬱屈とした気分で、今日の昼間は使い物にならなかった。来週も週末は家を空けるから、家事は今日のうちにしておかなければと頭では思うのに、体が椅子に縫い付けられたように動けなくて、ろくに食事もとらず、起きてから7時間近くただネットの海を彷徨っていた。何もしない日も大事、と自分を説得してはみるものの、自己嫌悪にじわじわと締め付けられるだけの、怠惰な休日で終わるところだった。

それでも、マガジンホの日だから、と自分を奮い立たせてシャワーまで重たい体を引きずった。すこし温度を高めに設定した湯で倦怠を洗い流すと、いくらか気分はマシになった。それで、残っていた家事もまとめてこなした。もうあとは眠るだけにして、自分の中に懸念の残っていない状態で聴きたかったのだ。彼の歌声に、おざなりの自分で向き合いたくはなかった。

電気を消して、真っ暗にした部屋で、彼の表情と歌声だけで感覚を満たすようにして再生ボタンを押した。


聴き終えてからしばらく呆然とした。たった5分半のはずなのに、まるで2時間の公演をまるまる観終えた時のような、そういう類の放心だった。鳥肌はしばらく収まらなかった。
8月のサイン会で、歌っている時何を考えているのか尋ねたら、ジノは「歌のことだけ考えている」と嬉しそうに答えた。その、ゆるぎのない歌への愛が、スクリーンから溢れ出して私を飲み込んで、息をするのも忘れた。温厚で、冷静で、にこやかな彼の中に、こんなにも激しい感情が隠れていること、それを目の当たりにしていることにどこか官能めいた魅力すら覚えて、胸が高鳴ってどうしようもない。

野心だ、と思った。二度目のミュージカルに出演しているこのタイミングで、この曲を選んだことに、彼の悔しさと野心と自信を見て、こうして一層好きになる。先週、アイアン・マスクを観た時に私が感じた物足りなさを、きっと彼も感じているんじゃないのか。だってこれ、処刑される前夜のキリストの魂の叫びの歌だ。こんなところで、止まってたまるか。キリストの感情になぞらえて、俺はこれだけ歌える人間なのだと叫ぶジノ自身の声が聞こえるような気がした。

オール・シュック・アップを観た時から、ひそかに思っていた。アイアン・マスクを観て、その思いはさらに増した。いつか、ミュージカルで主役を張るジノが観たい。歌手として、そこが彼の目指すものなのかは、私にはわからない。だからこれはただの私の願望だ。でも、脇役で留まっていていい人じゃない、絶対に。舞台にたったひとり、あなたの歌声だけを響かせて、観客の神経と感覚ぜんぶ支配して焼き尽くすような、そんな瞬間を私は観たい。

日頃、推しに有名になってほしいとか、特に思わない。私が彼を愛するのは私の中で完結する話だから、そこに他者の存在は意味を持たないのだ。だけど、今日ばかりは叫びたい。

全世界、この歌声を聴かずして死ぬんじゃねえぞ。

困ったなあ、明日、仕事なのに。全然眠れない。

 

youtu.be

180929

ひとり孫である私は、祖母の希望の星である。血の繋がりがあるとはいえ他人の希望を背負うなんて重たくて嫌なのだけど、祖母はたぶん私のことを世界一賢くて美しくて強い女か何かだと思っているので、もはやそれは私ではない。だから、適当に良い話ばかり、幾ばくかの誇張を交えて話してみせて、祖母の望む孫を作り上げている。昔の人に私の価値観を説こうとも思わないし、それで希望を奪ってしまうほうが残酷だ。祖母のことはそれなりに好きだし、そういう愛の形もあるという話だ。

だから、いつもぐっと抑える。良い人早く見つけてね、なんて、風邪に気をつけてねと同じくらいの言葉だと思おうとして、そうだねえと受け流す。わかっている。祖母が、心から、愛する孫たる私の幸せを願ってくれている言葉だと、よく知っている。その優しさにこたえるためならば、私の嘘もまた優しさになりうると思ってきた。それでもいつも笑顔は引きつってしまう。祖母を傷つけたいわけではないし、彼女が悪いとも思わないけれど、その価値観を自分に適用されることの暴力性に抗いたくなる気持ちはどうしようもない。今日はついに我慢できなかった。

「早く幸せにしてくれる男の人が見つからないかなあって思ってるのよ、本当に」

私を幸せにするのは私だよ、とつい言い返してしまった。わかってもらえるなんて思わないから、言うだけ無駄なのだ。そうだねえ、といつもどおり笑えばよかったんだ。そう思うのに、窮屈でたまらなかった。振り払ってしまいたかった。夢を見させてあげられる優しい孫じゃなくてごめんね。

180926

仕事のことをずっと考えている。いっそお金のためと割り切りたいけれど、その覚悟はまだ出来ていない。起きている時間の半分近くを死んだように過ごす覚悟なんか、そう簡単にできるわけがない。かと言って、どうすれば楽しいと思えるのかもわからない。先輩たちは、自分の工夫次第で楽しくできるのだという。そうかもしれない。きっとそうなんだろう。そう思って、若手の有志の活動に参加してみたり、社会貢献活動に参加してみたりしている。それでも全然勉強はできていないし、充分な努力をできているとも思わない。もっと頑張っている人はいくらでもいるんだ、私なんて全然だめだ。そうやって努力神話から逃れられずに振り回されて、焦りばかりが募る。自分じゃ全然だめだと思っているのに、なぜだか社内で色々推薦してもらえたり、優秀だと褒めてもらえたり、もう本当にわからないんだ。素直に喜べばいいのかもしれないけれど、ここにあるのは怖さだけだ。皆の目に映る自分がさっぱりわからない。誰の話をしているんだ。皆、私じゃない人の話をしている。

会社を出たら、冷たい雨が降っていた。駅に向かう途中、横断歩道で信号が変わるのを待っていたら、街路樹から大きな雨粒が落ちてきて、傘がばらばらと小気味の良い音を立てた。小さな小菊がいっぺんに夜空に開く時の花火の音に似ていて、そういえば今年は花火を見なかったことを思い出した。夏、終わっちゃったなあ。さみしい。

好きな絵を描く人が、好きな文章を書く人が、ツイッターからいなくなってしまった。寂しいとは思うけれど、引き止める術なんて持っていなかった。インターネット上の関係なんて、そんなものだ。私の世界を構成していた泡のひとつが弾けて、その泡が最初っからなかったみたいな世界で、明日も生きていくんだろうな。さみしい。

全部、雨のせいだ。誰かに抱きしめてほしいのも、無性に家族に会いたいのも、体温を奪っていくような秋の雨のせいだ。